第61話 『月下の妖女』(3)
あまりのその大きな音に私は思わず肩を震わせた。
なんだ、この音。
私とランディさんが視線を向けた先で、ドアは続けざまに荒々しい音を立てている。
人通りもある場所なので、いわゆるならず者が来るようなことはないと思うのだけれど、それに近いような気迫がドアの向こうから感じられる。
「ランディさんのお仕事の関係……ではないですよね」
「こんな連絡下手な伝令がいてたまるか」
「ですよね」
そう話している間に一旦止んだ音は、そう時間を置かずに再び響き始める。
ドアを叩く人の姿が異様な様子であれば止めに入る人も出てきそうだが……果たして、どういう状況なのか。
どちらにしても、この店に用事があることは間違いないらしい。
「おい、何をしている」
「販売口のシャッター、少しだけ開けたら見れるかなって。ここなら、いきなり攻撃を受けたりはしないと思うんで」
「俺が開ける」
「私のお客さんだったら、ランディさんじゃ見てもわからないじゃないですか」
とはいえ、こんなに荒々しい訪問をする人に心当たりはない。なので万が一のことを考え、身構えながら様子を窺ったのだけれど……そこに見えた黒髪に私はひどく驚いた。
「スイさん!?」
まさかそこにいるのはスイさんだとは思っていなかったし、その上ドアにもたれ掛かっているのも精一杯といった姿には目を見開かずにはいられなかった。
「すぐにドアを開けますからちょっとだけ手を離してください!」
私は叫びながら鍵を開け、スイさんが一歩下がったと同時に急いでドアを開けるとすぐに彼女を支えて店内に入った。
するとその場でスイさんは崩れ落ち、蹲った。
「大丈夫ですか!? 発作!? 息、大丈夫!?」
私の問いかけにスイさんはわずかに首を振った。
その間も息が荒い。どうしたら、何をしたら……!
「よ、横になったら……それでお医者さん……!」
「落ち着け、お前が取り乱してどうする」
「ランディさん……!」
私の肩に手を置いたランディさんは、そのままスイさんの横に膝をついた。
そして目を細めてスイさんを見た。
「こいつは魔力を保有しているようだが、変な乱れ方をしている。だが、それだけならお前の魔力で落ち着かせられる。メアリーのときの力で大丈夫だ」
「あの時の……」
その力なら昨日も使った力のことだ。私にも使える。
けれどあれは今まで攻撃に使ってるところしか見ていないし、私もそれにしか使っていない。
ランディさんが言うなら大丈夫だとは思うけれど、確信は持てないし、『魔力の乱れ』がどうやったら戻るかなんてわからない。
それでも、私にほかの方法は思い浮かばない。
「とりあえず、自分の魔力を一点に集めろ」
だから目を閉じてその通りにしようと思ったけれど、力が一カ所に集まるような感覚が湧かなかった。たぶん、集中ができていない。
それは不安を抱えているせいかもしれないけれど、今は考えるべきじゃない。
落ち着け、落ち着け、私……!
そう思ったとき、背中に大きな衝撃が走った。
「っ、なにするんですか!」
「力みすぎだ。いつも通り無駄に前向きに自信を持てばいい」
「そんな簡単にでき……!」
「できる」
無茶苦茶なことを言われているとは思う。でも、肩から力は抜けた気がした。
「俺も手伝う。別にひとりでやれと言っていない。まずいようなら止める。だが、お前もできることを増やしたいなら、やってみるといい」
その言葉は私の思考を一時止めた。
そして二、三度瞬きした後には、驚くほど落ち着いていた。
「無理にどうこうしようとしなくていい。あの力は万能薬に近い。力だけ纏えばなんとかなる」
「はい」
私が行う動作自体は、先ほどと同じだ。
体内に、魔力が集まるように強くお願いをする。これだけだ。
すると先ほどは集中できなかったのに、身体の中心から力が溢れるような気がした。
「いくぞ」
ランディさんはその言葉と共に私の肩に手を置いた。
力に集中しているので、私はまだ目を開いていない。目を閉じているほうが余計な情報を排除できるためか、落ち着ける。
魔力の流す方向が示されて、どうすればいいのかが自然とわかる。ランディさんが手伝ってくれているからだろう。
そして目を瞑っていても、スイさんの呼吸が徐々に落ち着いてきたのがわかった。
「……応急処置はこれくらいか」
そうしてランディさんが私の肩から手を離し一歩後ろに下がったところで、私も目を開いた。
スイさんは顔を伏せたまま、両手で身体を支えて深呼吸を繰り返し、息を整えていた。
私はそんな様子を見て安心したものの、同時に違和感を覚えた。
今日のスイさんの服装は、いつもとはまったく違っていた。
普段のスイさんは町娘らしい服装なのに、今日は首回りが大胆で、さらにスカートにも大きくスリットが入ったワンピースを着ている。いや、これはドレス……かな?
こんなの、スイさんは持ってたのかな……? 旅人の荷としては嵩が高くなるし、真昼間から大通りを歩くような格好じゃない。舞踏会にでも行こうというなら話は別だと思えるんだけど……。
今日はどうしてこんな服装なんだろう……?
「あの、スイさん……お水、飲めそうですか? まだ動くのが辛かったら、クッションや毛布も持ってきますよ」
動きたくなくても、固い床では辛いかもしれない。そう思って尋ねるも、スイさんは首を横に振った。
「……て」
「え?」
その言葉はうまく聞き取ることができなかった。
スイさんの声は掠れている。首は振っていたけれど、やっぱりお水は用意したほうがいい。
でも、私が立ち上がろうとしたときスイさんは再び息を荒くし始めた。
「スイさん……!」
「私、平気、だから、逃げて、やっぱり、まに、あわな……」
「大丈夫じゃないでしょ!」
今度は先ほどよりもしっかりした声で私に言ったが、まったく大丈夫ではないのは一目でわかる。
それなのに逃げろとは……って、え? 逃げてって……なに?
「ここか、ら、逃げて、抑えてる、私、もう」
「逃げる? どういう」
「まに、あ……く」
何を言っているの、それより休まないと……と、私が口に出し始めたのと、後ろから伸びてきたランディさんの手によって思いきり引っ張られ、後方に投げられたのはほぼ同時だった。
突然のことに驚き尻餅をついてもなお、急にどうしたのかと尋ねる時間もなかった。
顔を上げた瞬間に私が見たのは、ひどく淀んだ黒い霧を纏ったスイさんの姿だった。
びりびりと、肌を指すような空気が店内に充満する。
「ランディさん、スイさんの様子……」
「見ればわかる。おかしいことくらい」
確かにそうだ。でも、何が起きたのかはわからない。
治したはずなのに、どうしてこんなことになっているの? ランディさんだって応急処置は終わったって言っていた。
しかしわからないことだらけの中で、スイさんが自分がこうなることを知っていたことだけは理解した。だからこその『逃げて』だ。
でも、今の状態を見たうえで逃げるなんてできることじゃない。
こんな状況、放っておけるわけがない。
それに『逃げて』というメッセージをわざわざ私に伝えに来たスイさんは、本当に私に逃げて欲しいだけじゃないと思う。本当にスイさんから逃げることで彼女の希望が叶うなら、そもそもスイさんは私のもとにやって来ない。だってスイさんなら私に逃げるように言う前に、自分が遠くに行ってしまいそうだもの。
そうしなかったのなら、何か理由があるはずだ。
その理由を聞くまでは、少なくとも離れられない。
しかし黒い霧に包まれたスイさんに、先程までの苦しそうな様子やいつもの柔和な笑みは見られなかった。
今のスイさんを彩っているのは妖艶な笑みと凍てつくような瞳だ。
スイさんの姿をしているはずなのに、ドレスも相まってまるで別人のようだとしか思えない。そして今の雰囲気とドレスはとても合っているけれど、その雰囲気がどこか怖い。ドレスから覗く胸元には黒い花の入れ墨が見えた。
そんなことを考えている間にもスイさんから漂う空気は寒さや冷たさを増した。そしてそれは、徐々に昨日魔物から感じた空気と同一のものだと感じられるものになる。
スイさんは口角を上げ、艶を含む声を響かせた。
「……『もう一人の私』が私の邪魔をしてくれたのは腹立たしいことこの上なかったけれど、そのおかげで、私が望んでいた『聖女様』に会えるなんて。私は祝福されているわ。これは感謝しないとね」




