第37話 魔物という存在
目が覚めると、私はお借りしている部屋のベッドに寝かされていた。
起き上がりながら息を吸い込むと、まだ鼻の奥底から独特なにおいがせり上がってくる。ただ、その強さは幾分かはましになっている……と、思いたい。レースのカーテンの向こうはすでに暗くなり始めており、部屋の中は揺らめくランプの光に照らされている。
「起きたか」
「あ……おはようございます」
私が声の方を向くと、少し離れたソファーに座るランディさんが膝に本を載せたまま、こちらを見ていた。どうやら私が目覚めるまでの間、待っていてくれたようだ。
「文様はおそらく消えた。あとで確認しておけ」
「ありがとうございます」
淡々と告げられた言葉に私は安堵した。
あれだけ不味いものを口にしたのに意味がなければ大損だ。
それにせっかくランディさんが集めて来てくれた材料で効果が得られなかったとなっても、なんだか申し訳ない。
しかしほっとしたところで、ふと別のことが思い浮かんだ。
「あ、そういえば……ひとつお聞きしたいんですが、ランディさんは竜を狩ったと仰いましたよね? 竜ってこの世界だと悪い存在だったんですか?」
「竜か?」
「私の国だと実在は確認されていないんですが、物語の中にはよく出てきていました。けれどそれは凶暴だったり、神聖だったり、地域差が激しくて……こちらの世界だとどういうものなのかと思いまして」
「……竜というのは『馬』と同じくらいの分類だ。馬もそれぞれ種族により農耕や運搬、競技など得意とする方面が異なるうえ、地域差も大きいだろう」
「そんな雰囲気なんですか?」
なんだか想像していたよりこの世界ではずっと身近な生物のようだ。
「ニュアンスとしては微妙だが、ほかに思いつかない。竜族には凶暴な竜もいれば大人しく意思疎通が可能なものも存在する。今回倒したものは瘴気から生まれた魔物の一種で、言葉が通じるものではない。堕竜と呼ばれる種類だ」
「魔物は瘴気から生まれるんですか?」
「その場合もある。魔物から生まれる場合もある」
「へぇ……」
魔物が出ることがあるのはお弁当を売っていたときに聞いたことがあるけれど、まだ目にしたことがないので姿かたちはよくわからない。物騒な響きなので出会いたいとは思わないが、日本にはいない存在だったので、危険を回避するために知識を持ちたいという意味では興味はある。
けれど、それを深く尋ねる前に……私には根本的にわかっていないことがある。
「そもそも瘴気って何ですか?」
おそらく毒気を示すことは理解できるけれど、具体的にはよくわからない。地球での瘴気の概念は、病気の原因がわからなかったときに使われていた言葉であった……と、思う。
「瘴気はこの世に生まれる負の感情の集合体だ。可視できるほど濃い瘴気は魔物を生み出す。魔物は瘴気を生み出すこの世そのものを憎み、破壊衝動を抱き活動する」
「負の気持ち? それは特別強い感情……でしょうか?」
「それも含むが、怒りや悲しみ、憎悪や嫉妬など日常で感じる些細なものも原因ではないかと言われている。だから魔物は世界から消えることがなく、戦時中などは魔物が大量発生する傾向がある、と」
魔術を知る以前ならその答えに対し、私は何を質問すればよいのかすらわからなかったと思う。けれど現在の私は強く願うことで魔術が使えるというように、この世界では感情も力として具現化することを知っている。感情がそのように干渉するのであれば、理屈はどうであれそういうこともあるかもしれないとふんわりと納得する。
なにより、魔物という存在や瘴気が見えるという時点で日本とはやはり別世界なのだ。
「ただし一般人が生み出せる瘴気程度なら、普通の野獣より少々強い程度だ。魔物は倒せば済む。だから瘴気が生まれる原因を探すよりは、瘴気の新たな浄化方法を探すほうに重きが置かれている」
「浄化方法もあるんですね」
「ああ。今のところ瘴気が濃い場所が見つかれば巫女や神官が浄化に向かっている。だが、あまり重要視はされていない」
「それはどうしてですか?」
「強烈な魔物が生まれるような極度に濃い瘴気がそう発生しないからだ。加えて強力な魔物は瘴気ではなく魔物自体から生まれ、代を重ねるごとに強くなることがほとんどだ。それゆえ遠征が組まれることも少ない」
「……そう、なんですね」
強い魔物も存在はしているが、おおよそ私が『魔物』という言葉から受けているイメージよりも危険性は低いのだろうか?
ただ、絶対安全というわけではないのなら、私も少しくらい何かができるのではないだろうか? 以前メアリーと対峙したときに生まれた力であれば、浄化のような作用も生まれないだろうか? あの力については『必死だった』ことしか覚えていないけれど、それでも嫌な気を跳ね飛ばした。だから、使える力かもしれない。
「それほど深く考えなくていい。そもそもこの世界の人間もそれほど深く考えていない」
「え?」
「先ほども言っただろう。ほとんどの魔物は野獣より少々強いといった程度だ。狩ることを生業にしている者や討伐することで得られる魔石を売買している者もいる。中には強い魔物と対峙することこそ誉だと思っている者までな」
「ええっと……そういうものなのですか?」
「凶暴な魔物が生まれないように監視し、討伐できる戦力の維持が国に求められていることも事実ではあるが、一般人が気にすることではない。瘴気の発生を抑えるなどといって感情統制をすることなど不可能だ」
残念ながら私にはまだピンとこないけれど、それでもアズトロクロア王国での生活を思い起こせば、魔物の言葉を聞いてもそれほど慌てふためくさまを見たことがない。
そう考えれば、ランディさんが言っていることも自然だった。
というか、私は何も言っていなかったのに、ランディさんは私の考えを読んだのだろうか?
「……この世界の常識ってまだまだ私の知らないことだらけですね。今聞いた短い時間のお話だけでも、もの凄く頭が混乱しそうです」
「お前が寝ていた時間を短時間と言えるのかは微妙だが」
「え、そんなに寝ていましたか……!?」
口の中の味で大した時間は経っていないと思っていた。
しかしよくよく考えれば外が暗いのだから当たり前だ。
ただでさえ忙しいランディさんをこの場に長く留め置いてしまってどうする、私……!
「もうピンピンしていますので! ご迷惑をおかけしました」
「急に起き上がるな、まだ寝ていてかまわない」
「いえ、これ以上寝ているとベッドに根っこが生えてしまいますので!」
「なんだそれは」
怪訝な表情を浮かべられているけれど、私はベッドから飛び出した。
「ほら、この通り!」
「……お前は人の言うことが聞けないのか」
「それ、ランディさんは言ってはいけない言葉だと思います」
その私の反論を見計らったかのように部屋にノック音が響いた。
「旦那様、ヴァンス様がお越しです。客間にいらっしゃいますが……」
イリナさんの控えめな声は、私がまだ寝ているかもしれないと気を遣ってくださっているからだろう。けれどこのランディさんの表情を見ると、その気遣いをいいことに聞こえないことにしてしまうかもしれない。だって、来客はギルバードさんなんだし。
だから私は代わりに声を張り上げた。
「すぐ行きます!!」
いや、正確には『行かせます』か『引っ張っていきます」なのだけれど。
ランディさんが余計なことをという目をしていたけれど、せっかく来てくれたギルバードさんを放ったらかしにするのは申し訳がない……という立て前のもと、私はさっさとドアに向かった。
しかし遅い時間にいったい何の用事だろう?
そんなことを思いながらランディさんを引っ張っていくと、客間には両手で持たなければいけないほどの大きな木箱をそばに置いたギルバードさんが立っていた。
「よう、久しぶりだな。っていうか、本当にいたんだな」
そうして浮かべられていたのは満面の笑みだった。




