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現実的短編集

ありがとうの行方

作者: 水波 洋

「ありがとうございましたー」


 気だるげな店員の声に見送られてコンビニを出ると、春の日差しが目に沁みた。こんな陽気ではやる気も抜かれるというものだろう、とそう思って、やっぱりすぐに考え直した。春だろうが冬だろうがやる気に満ち溢れているコンビニ店員なんて見たことはない。彼らは年中気だるげなのだと結論づけた。

 今日は朝から虫の居所が悪かった。歯磨き粉がなくなりかけで、絞ったら二回分近く出てしまった。シャツに袖を通してからボタンがほつれているのに気がついた。階段を駆け上がったところで快速電車に逃げられた。中年女性が割り込んできて席を逃した。カウンター席で昼食を取った際、隣の男性客がクチャクチャと音を立てて食べていた。

 ツいていない日、というのはあるものだ。そういう風に自分を納得させるしかない。とはいえ、一度積もった苛立ちは避雷針無しには下がらない。


 改札を抜け、少し離れた川沿いの駐輪場へ向かう。平日の微妙な時間だけあり、駅前の通りを外れるとほとんど人気がない。

 駐輪場の砂利を踏み歩き、自分の自転車の前に立った。鞄の中から鍵を探り当て、解錠して引っ張り出そうとする。ところが、自転車は出てこない。

 見ると、隣の自転車のハンドルがわたしの自転車に引っかかっていた。その自転車は、後から無理やり隙間にねじ込んだのだろう、後輪が駐車列から不自然に出っ張っている。

 なんとか引っ張り出しそうとするが、上手くいかない。自転車というものは、骨組みだけのような形状の分、隙間に詰め込むのは楽でも、それを出すのは難しいのだ。

 力任せに引っ張ってみたら、逆に自分がよろめいた。その拍子に、パンツの膝のあたりをタイヤに擦り、汚れがついてしまった。


 ふと、わたしの心になにか悪いものが湧いた。今朝から募った苛立ちが、わたしの思考を支配したのかもしれない。

 わたしは自分の自転車が止めてある隣の駐輪列へ向き直り、一台の自転車のタイヤを蹴飛ばした。

 八つ当たりの餌食になった哀れな自転車は、隣の自転車を巻き込んで倒れた。隣の自転車はそのまた隣の自転車を巻き込んで倒れた。そう多くは倒れないだろうと思っていた自転車たちは、予想に反して驚くほど見事に倒れていった。

 結局、わたしの一撃でほとんど一列丸々の自転車が横倒しになった。

 わたしは、胸の痛みと高鳴りを同時に感じた。

 悪いことをしてしまった。わたしの心は慌てふためいた。やってやった。わたしの心は高揚した。

 少しだけ息を荒くして、わたしは自分の自転車を出すことにした。早く立ち去ろうと思った。

 自転車を列から出そうとする。隣の自転車がまだ引っかかっている。ガシャガシャと乱暴に振りほどき、なんとか自転車を引っ張り出した。かごに載せた鞄と買い物袋の座りが悪い。何度か調整する。

 もたもたしているうちに、足音が聞こえてきた。顔を上げると、入口の方から黒いスーツ姿の若い女性がこっちへ歩いて来るのが見えた。

 女性はそのままわたしと同じ列へ入ってきた。わたしは顔を伏せて出口へ向かった。

 ちょうどすれ違いそうになったところで、女性は足を止めて、わたしが倒した自転車の列をじっと見つめた。

 心臓が跳ね上がった。

 横倒しに巻き込まれた一台の自転車を女性が引っ張ってみるが、がっちりと挟まれてビクともしない。

 女性はため息をつくと、身体を硬ばらせる私の横を通り過ぎて、ドミノ倒しの開始地点へ向かった。そうして、私が蹴り倒した最初の一台に手をかけ、起こした。次にその隣の自転車を起こした。そのまた隣の自転車に手をかけた。

 私は堪らなくなった。

 自分の自転車をその場に停めて、女性のところまで戻って自転車を起こした。女性は一瞬驚いたように固まったが、すぐに手を動かして言った。


「ありがとうございます」


 わたしは自分が恥ずかしくなった。女性の目を見るのが怖くて、顔を背けて無言で自転車を起こしていった。

 横倒しの自転車は重たかった。ペダルやハンドルが絡んでわたしを拒絶した。女性の自転車にたどり着くまでに、蹴倒した時の何十倍の時間がかかった。

 女性が自分の自転車を起こしたのを横目に、改めて駐輪列を見る。まだ三分の一ほどが横倒しのままだ。私はそのまま残りの自転車も起こすことにした。

 わたしが作業を続けていると、今度は女性がわたしの横にやってきた。


「優しいんですね」


 思わず目を向けると、女性はにっこりと笑い、自転車を起こし始めた。

 わたしは、一層自分が情けなくなった。顔も身体も熱くなって、目が潤んだ。顔を伏せたまま、無言で自転車を起こした。


 結局、最後の一台は女性が起こすことになった。


「お疲れ様でした」


 はにかみながらそう言った女性の手は汚れ、就活生なのだろうか、真新しい黒のパンプスとスーツスカートの裾は、ところどころ土がついていた。

 女性が自分の自転車を押して戻ってくるまで、わたしは動くことができなかった。


「ありがとうございました」


 すれ違いざまに頭を下げつつそう言って、女性は去っていった。


「お疲れ様」「ありがとう」

 わたしには、その言葉を受け取る資格はなかった。

 女性の言葉は、わたしの周りを戸惑うようにしばらく巡って、どこかへ霧散していった。

 彼女の労いと感謝の言葉はどこへ行ったのだろうか。受け取るべき相手の存在しない言葉は、どこへ消えていくのか。


 わたしはしばらくその場に立ちすくんでいた。無邪気な笑顔が、まぶたの裏でいつまでもわたしに向けられていた。

全編フィクションです。

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