思ったよりも温かい手
暗い地下牢へ放り込まれたディートは、壁に背を預けぼんやりと周囲を見渡した。
石造りの狭い牢の中には、他の人の姿はない。
頑丈な柵の向こう側にもいくつか牢があるようだけれど、明かりが足りずよく見えない。
ついさきほどまで繰り返し尋問されていたせいで、身体だけでなく精神的にも疲れ果てていた。
身じろぎすると、肋骨がずきりと痛む。
折れているかもしれない。
ディートには、もう、立ち上がる気力すら残っていなかった。
アシュパラを浴びてからいくら時間が経過しても異状をきたさないディートの様子は取調官を大いに不審に思わせたらしく、疑いは一向に晴れなかった。
それどころか、このままでは数日中に処刑されるとまで言われた。
処刑。
そんな馬鹿な話があってたまるか、と思うけれど、そんな理不尽な話はこの世にいくらでも存在していることも知っている。
――自分は本当に死ぬんだろうか。
こんなにもぼろぼろで、牢に閉じ込められているというのに、いまいち現実感がなかった。
たとえ現実感を抱いていたとしても、逃げようとするだけの体力も気力ももはや残ってはいないけれど。
エミナを悲しませてしまうかもしれない。
帰ると言ったけれど、このままではそれは叶いそうになかった。
エミナに助けられなければ三年前に失っていた命とはいえ、こうしてもう一度失いそうになると容易には受け容れ難かった。
それでも、これが運命なのだと言われたら、逆らう術はない。
ナディ、俺、もうすぐそっちに行くことになるかもしれないよ。
と、心の中で幼なじみに話しかける。
投げ出した足の上に乗せていた手が、ぱたりと床に落ちる。
触れた床は、冷たくてぬるっとしていた。
変な臭いもする。
カサカサとなにかが動く音が絶え間なく聞こえてくるけれど、精神衛生上、聞こえないふりをするほうが賢明かもしれない。
「はぁ……。なんでこんなことになってるんだろうな、俺」
踏んだり蹴ったりの一日を振り返り、ため息をつく。
体中の痛みは少しも治まる気配がない。
尋問のせいで悪化したのは間違いない。
怪我には慣れているけれど、痛いのはやっぱり辛い。
痛みのせいか頭がぼうっとしてしまい、命乞いの算段すらできない。
なんとはなしに、視線を自分の右手へと落とす。
この手を伸ばした先に、あの女がいた。
灰色の髪の、イエシル人。
金の瞳の記憶が甦る。
あの時、何故、自分が彼女へと手を伸ばしたのか、ディートはよくわからなかった。
両親やナディが死んだのはイエシル人のせいだ。
アーイエシルが頭上に現れさえしなければ、みんな死なずにすんだ。
いくら恨んでも恨みきれない。
だから、彼女を助けたいと思ったわけではないはずだった。
じゃあ、なんで。
答えは浮かんでこない。
ただ、彼女の金の瞳を見た途端、その瞳に魅せられたように、惹きつけられて、それで――。
そこまで考えたところでこちらへ向かってくる足音に気づき、ディートは顔を上げた。
揺れる明かりがこちらへ近づいてくる。
反響する軍靴の音は軽い。
牢の前で立ち止まった軍人の姿を見て、その足音に納得する。
「本当に生きているのね」
現れたのは黒い軍服に身を包んだ痩身の女性だった。
軍人にしては柔らかい声だ。
「イエシル人と通じているから、アシュパラを浴びても死なない方法を知ってるんじゃないかって疑われてるんですか? 俺」
「もしくは混血か、ね」
「俺が!? アーイエシルが現れたのは、たった三年前ですよ? 俺はもう十五です。それに混血なんて実在するんですか? アシュパラのせいで、相手は死んでしまうんじあ……」
「そうかもね」
「そうかもね、って……。え?」
呆れるディートの前で、ガチャリと牢の錠がはずされる。
「あなたの身柄は、わたしたちイエシル殲滅部隊第三分隊が預かることになったわ。隊長に挨拶してもらってから話を聞くことになるけど、ひとまず傷の手当てと着替えが必要そうね」
「ちょっと待ってください。どういうことですか?」
「どうもこうも、今言ったとおりよ。あなたはわたしたちがアーイエシルと戦うための戦力になる可能性があると判断された。適性や体質などについてはおいおい調べさせてもらうことになるわ」
「戦力? まさか。俺は喧嘩すらろくにできないんですよ?」
「じゃあ、このまま処刑される?」
「それは……」
それは、嫌だ。
ディートは言葉に詰まる。
その様子を見て女性がひとつ頷く。
「つまり、そういうこと。あなたに他の選択肢はないわ。諦めなさい」
「脅迫ですか?」
「それこそまさか、よ。救いの手を差し伸べてあげたのよ」
「じゃあ、さっきのあのイエシル人はどうなったんですか? あの子にも救いの手を差し伸べるんですか?」
「まさか。あれは捕虜よ。収容所から逃げ出したから連れ戻しただけ。気になるの? 安心していいわよ、生きているから」
生きているからといって安易に安心できないことを、ディートは身をもって知ったばかりだ。
おそらく自分が受けた尋問はまだましなほうだろう、とディートは思っている。
「無事なんですね?」
ディートの問いに対する答えは、なかった。
「さあ、行きましょう。立てる?」
立てない。そう言いたかったけれど、せっかくの機会をふいにするほどディートに自虐の趣味はない。
「……なんとか」
強がって、壁を支えになんとか立ち上がる。
ずるずると足をひきずるように牢を出たディートに向かって、女性が手を差し出した。
「イエシル殲滅部隊第三分隊所属、ロザニー・ミュレッティよ」
「ディートです。ディート・ティエン」
握ったその手は、思ったよりも温かかった。




