エニシダの枝を手折る
「ロジィ、ロジィ! どこに行ったの?」
高く澄んだ声に、見習いの子どもはホッとした様子で声のする方に走って行く。
「お姉様、こちらです。迷ってしまって」
「あなたはまだ不慣れなのだから、あまり遠くに行っては駄目よ。さぁ……」
挨拶も忘れて去って行った闖入者に、沈黙が落ちる。
跪いたままの地の精霊も、それに背を向けて見知らぬ者に対応しようとしていたエオルも、話し掛けたミランダもしばらく遠ざかって行く声を聞くともなしに聞いていた。
『アーハーサー。あんたって子は!』
その静寂を、突如降って湧いた声が打ち破る。
ストッ。
軽い音を立てて木の間から降ってきた女性に、エオルは分かり易く体を強張らせて飛び上がり、ミランダの手を引いてその人から庇うようにして距離を取らせた。
『イレーネ義姉上こそ、先程の地揺れはやりすぎではありませんか? 私が鎮めなければ、死者が出かねなかったではありませんか』
『ああ、もう! ああ言えばこう言うとか、この子ホントこまっしゃくれてて可愛くないわ』
『可愛くなくて結構です。うちの国の首脳陣はほぼ脳筋で構成されていますので、これぐらいで丁度良いんですよ』
ポンポン言い合う2人の勢いに押され気味になりながら、ミランダは取り残された状態の地の精霊を見遣る。
主語とかその他が抜けているので今ひとつ話しが分かりにくいが、流れからしてまず間違いなく地の精霊が王として祝福を捧げに来たことと関係がありそうだ。
エオルの陰から気の毒そうな目を向けるミランダの予想に反して、地の精霊はどことなく嬉しそうな雰囲気を漂わせている。
『イレーネ殿におかれましては、ご健勝のようで何よりにございます』
『別にわたしはあんたみたいに粘着質な精霊に用はないから』
立ち上がって優雅な仕草で一礼した地の精霊に、イレーネは心底嫌そうに顔を背けてヒラヒラと手を振った。
それにしても、イレーネもまた美しい姿をしている。
腰まである髪は艶やかな黒。小麦色の肌に、女性らしいしなやかで起伏に富んだ体をオフショルダーのたっぷりした白いブラウスとくるぶしまで隠れる深紅の巻きスカートに包んでいる。
くっきりした太い眉に、吊り目がちな目は金色に輝いてどことなく大きな猫を思わせる。
無駄のないスラリとした長身は、身のこなしからしても相当な武闘派であることを物語っている。
腰には白い獣の牙で作られたやや湾曲した鞘に収まった短剣が、金属のベルトで括り付けられているので、いざという時はあの短剣で戦うのだろう。
何故だかその様子が容易に想像出来る。きっと血しぶき一つ浴びない美しい短剣さばきに違いない。ミランダは、ふと遠い目をしてその光景を思った。
唯一の装身具らしい金の耳飾りは、透かし細工になっていて見るからに素晴らしい細工だ。服に比べて、それだけは明らかに庶民の身につけられるものではないのが分かる。
『あちらが落ち着いたと連絡が入ったから、お暇ついでに落とし前をキッチリつけて来ただけなのに、大袈裟な子ね。今頃、働いていた悪事が全て明るみに出て、奴らは当然の報いっていうものを受けているはずよ。囚われていた娘たちもついでに開放しておいたから、それはそれは素敵な状況になっているはずだわ』
『あなたが言うと、どうして問題が大きくなったようにしか聞こえないんでしょうね、義姉上。他国まで来て世直しゴッコとか、事後処理をされる兄上のことも少しは考えて差し上げてください』
あっけらかんと言い放ったイレーネに、エオルは顔をしかめて苦言を呈す。
それに対して、イレーネも引く様子すら見せず傲然と顎を上げてエオルを見下ろす。
一触即発の気配に、ミランダは文字通り空気が震えた気がした。
割って入ることも出来ず、2人に挟まれて大きな体を縮こまらせている地の精霊も気の毒だ。
「エオル様、わたしを紹介してください。あちらの方はご家族なのですよね?」
ただの兄弟喧嘩でしかない遣り取りをしている2人の気を逸らすために、ミランダはエオルの袖を引く。
その何気ない仕草に、エオルの体が大きく跳ねる。
とっさに右腕を庇うように添えられた左手を見て、ミランダは息を飲む。
『アハサ。その肩、痛めてるわね』
『……大丈夫ですから』
息を詰めて呻くように言葉を発するエオルに、イレーネは気遣わしげに眉をひそめる。
よく見れば、確かに不自然な量の汗をかいている。
ミランダは自分のことで精一杯で気付かなかった自分を責めた。
いつ痛めたかなど、分かりきっている。十中八九、テーブルの下に庇われた時だろう。
ほとんど体格の変わらない相手を動かすのは、大人でもコツがいる。とっさの動きでミランダには怪我もなく庇いきれたのは、エオルが自分の痛みを無視したからだ。
『意識したら痛いんじゃないの? さっさとはめ直さないと本当に痛めるわよ』
『貴女っていう人は、本当に腹立たしい人ですね。何で気付くんですか。今のはサラッと流しておくところでしょう?』
『生意気だって弟の心配ぐらいするわよ。だって姉ですもの。……見せなさい』
有無を言わせずに腕を取ろうとするイレーネを押し留めて、エオルはイレーネの手を取って自分の肩に触れさせる。
痛みを与えないように慎重に触れて状態を確認するイレーネの指の動きに、エオルは奥歯を噛み締めて黙って耐える。
『中途半端に外れてるだけだから、きちんとはめ直して癒しの術を掛けておけば大丈夫ね……はいっ』
解説ついでに肩をはめてしまったらしいイレーネに、エオルは痛めていない方の手で声が漏れないように口を覆う。
『……ひとこと言ってください』
『でも、早くはめないとその分筋を痛めるじゃない。それに、わたしも慣れたものでしょ? うちの男共は、訓練だと言っては肩やら他の関節やらを外して、自分たちではめたりわたしや施術師にはめさせたりしているのだから』
『ええ、そのことについては全面的に同意します。義姉上がいらして助かりました。……動きも、問題ないようですし』
やれやれ、といった様子で息を吐き、肩を回して調子を確かめたエオルに、イレーネも呆れたような視線を送る。
『軽く外れ掛けてのは戻したけど、痛くないの? 関節外れても涼しい顔して剣を振るい続けるあの体力お化けよりは、痛がってた分可愛げはあるけど』
『いえ、流石に多少は痛いですよ。あの脳筋たちと一緒にされるのは心外です。正真正銘私は執政官向きであって、武官向きではありませんから。まぁ、この程度なら食事をとったり身の回りのことをする程度、あとは短時間の書き物ぐらいなら何とかなると思います。そんなことよりも、義姉上、私の半身たる乙女を紹介してもよろしいですか?』
エオルの言葉に、イレーネの視線が所在無げに立っていたミランダへと向く。
その目が、スッと細められる。
『そう、その娘がね』
鮮烈な赤に彩られた唇が、蠱惑的な笑みを浮かべる。
目元の泣きぼくろも相まってかなり色っぽい。
色っぽいのだが、細められた目の鋭さが何だか獣じみて迫力の方が優っている。
ミランダにもう少し経験があれば、値踏みされ、牽制されたことが分かっただろうが、この時点のミランダは何となく敵意のようなものを感じる、という感想を抱いて、受ける威圧感に少し腰が引けただけだった。
そんなミランダをイレーネの視線から隠す位置に、エオルがさりげなく体をずらしてミランダを庇う。
『義姉上、大人気ない振る舞いはやめてください。この人を怯えさせて、何がしたいんですか』
かなり本気で不愉快そうなエオルの声色に、ミランダは少しドキッとする。
その様子に、イレーネはふぅん、と呟いて意味深な笑みを浮かべた。
『いい子そうじゃない、ちゃんと守りなさいよ。正式な挨拶は、全てに片がついたら受けるわ』
ニヤリと不敵に笑って、イレーネはヒラヒラと手を振る。
そのまま踵を返そうとしたイレーネを、エオルが引き止める。
『義姉上、少しお待ちください。兄上に言伝を頼まれてはいただけませんか?……スラーイイ、お前が私に望むものを与える代わりに、エニシダの枝をひと枝用意してもらおうか』
『是、此方に』
エオルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、跪いて恭しく黄色い小さな花が枝がしなるほどについた枝を差し出した地の精霊に頷くと、その枝を取って枯れぬように術を掛け、イレーネに差し出した。
『こちらを、兄上に。兄上が座るべきだった座は私がいただきますと、お伝えください。あと、メルカルトが存命であれば、あなたの愛した白薔薇の蕾は私が咲かせますと、お伝えください。あの方はそれで分かるはずです』
『そう、分かったわ。ねぇ、アハサ。闇を甘く見てはダメよ。あなたの一番近くにある光を、求めなさい』
意味深長な言葉を残して、イレーネは今度こそ身を翻す。
現れた時と同じように、音もなく木々の間にその姿は消え、エオルは途端に疲れた様子で乱れた髪をやや乱暴にかき混ぜる。
『ああ、どうしよう、アレ……』
跪いた姿勢のまま、期待を込めた視線を送る地の精霊を見やって、エオルは深いため息をついた。