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春の妖精の宿る木蔭で

『ずっと側にいます』


 お祭りの日、見目麗しい役者の演じた王子様が静かに泣く姫君に優しく囁いたのと同じ言葉を囁く優しい声に、苦しいほど渦巻いていた感情が唐突に消えてなくなってしまった。

 役者の張りのある耳に心地良い低音とは違う、まだ幼さの残る高めの声。

 あやすように抱きしめられた手もミランダの手とそれほど変わらない。

 同じ年頃の女児に比べて、遺伝なのか少々体格に優れているらしいミランダの背丈は、同年の少年と比較して平均的な体格のエオルと並ぶとほぼ変わらない。

 既に武術の心得があるらしいエオルは、身のこなしや仕草こそ大人顔負けの部分があるが、まだその身は本格的な成長期に入る前の少年だ。目に見えてミランダよりも強そうな要素などない。

 それでも、ミランダは人の温もりに優しく包まれることに、母親が倒れてからのこの数週間の間で初めて安らぎを感じた。

 母はあまりに短い間に、いなくなってしまった。

 今までも何度か倒れていた母の、最期は呪殺だとミランダも周囲も思っている。

 最初の前兆は父親がどこかに――今となってはスラーイイの危機にエオルの父の元に駆け付けたと分かっているが――旅立った半年程後の時期だった。

 治療師をしていた母親は、いつも通り店を開け、通常通り業務をこなし、夕闇の迫る閉店直後に倒れた。

 胸を押さえた蒼白な顔の母は、最初心臓の病ではないかと周囲に思われた。

 ミランダが何を言っても、普段ははっきりとものを言う母が、薄く微笑んだまま何も答えなかった。

 あの時点で母には分かっていたのだろう。自分自身の最期がどういったものなのか。

 そして、異常な死に様を晒すことにより、自分の娘を欲深い自身の肉親から守る者が誰もいなくなることを予測していたのだろう。

 特別な力を持たない市井の人々は、力の絡む異常事態には敏感だ。

 人々を癒す、母が使った力のような神聖視される有益な力は崇められる。しかし、一度それが呪いのような災いを呼び寄せるものだと思われれば、忌避の対象になる。

 それを責めてはいけないと母は言った。

 皆、自分自身と自分の大切な存在を守るのに必死なのだからと。

 母が亡くなってから迎えが来るまで、一昼夜。

 誰一人として気に掛けてくれる人はいなかったから、母の遺体をミランダには分からない術式があらかじめ書かれていたシーツに包んで力を流し、術式を発動させた。

 気を失うようにそのまま母の眠るベッドの傍らに設えた寝床に倒れ込み、ミランダは眠った。


「ごめんね、サフィラ。お母様の勝手であなたを一人にするわ。――それでも、あの方を、あなたのお父様をわたくしは支えていたかったの」


 息を引き取るまで、繰り返し謝り続けていた母の言葉が耳の中で響いている。

 ミランダは無力な自分を責めた。悲しみ方もよく分からなかった。

 ただ、自分の足で立たなければならないと思った。

 冬の館に入り、誰も頼らずに生きなければならないと思った。

 何よりも、母に言われた通り祖父母をはじめとする欲深い肉親に利用されてはいけないと思った。

 いつの間にか、傍らにいた柔らかな笑みを浮かべる女性は、驚くほど冷たい空気を纏っていて、でもなぜかホッとするような気配を纏って輝いていた。


「わたくしが、あなたを守ってあげる。この力を使って良いわ。でも、時が来たらわたくしに代わって、わたくしの負う義務を果たしてね。わたくしの愛し子」


 母と度々話していた彼女が誰なのか、今なら分かる。





「エオル様、サンドイッチに仕立ててみましたが、お味はいかがですか?」


『ええ、美味しいです。リラは料理も上手なんですね』


「ただ挟んだだけですから、料理と言えるようなものではありませんけれど。母の手伝いはいつもしていましたから下ごしらえか盛り付けぐらいでしたらできます。そんなことより、オラニエのジュースのお代わりはいかがですか?」


『……本来でしたら、私が給仕をすべきなのですが。ああ、いえ、いただきます』


 嬉しそうな様子のミランダに、ぼやいてはみたものの言葉を継ぐことを諦めてため息を一つ落とし、エオルは困ったように微笑みながらミランダの給仕を受ける。


「食事は同じ食卓で食べたいのです。従者だとエオル様は言いました。わたしも、あの時はそうすることでしかエオル様を助けられませんでした。ですが、わたしはエオル様にはわたしと同じものを見て、同じものを食べ、同じ時間を分け合える人でいて欲しいのです。エオル様、ど」


 ミランダの言葉を遮ろうと口を開きかけたエオルは、窓の向こうの木々から鳥が一斉に飛び立つのを見て椅子を蹴って立ち上がった。

 突然襲って来た足元から突き上げるような衝撃に椅子ごと倒れかけたミランダを、エオルは椅子から引き離して抱え込み、テーブルの下に滑り込んで2人を包むように結界を張る。

 途端に壁に掛かっていた絵や、背の高い本棚が倒れかかって来てミランダは息を飲んで硬直した。


『この波動、イレーネ義姉上か? このままじゃ石造りの家屋全てが倒壊するぞ』


 激しい揺れに、天井から細かい砂のようなものが落ち始めて、エオルは表情を強張らせるとミランダが知らない言葉で聞くに耐えないような調子で悪態をついた。


『大地よ、アハサ=イラ=ラトゥ・アケルナルが命じる。鎮まれ!』


 苛立った様子で床を拳でエオルが叩いた途端に、揺れがピタリと収まった。

 インク壺も、花瓶も、ランプさえも割れて溢れてぐしゃぐしゃに散乱している。

 そこに紙やら布やらが加わり、部屋の中は見るも無残な惨状を呈している。とっさにエオルがテーブルの下にミランダを引きずり込んで結界を張らなければ、今頃は何か分からない破片にまみれているか、家具や本の下敷きになっていただろう。

 肩で息をするエオルを、ミランダは呆然と見つめる。


「エオル様、今のお名前……何か、来ます」


 放心状態で呟きかけたミランダは、自分たちの方に向かって近づいて来る大きな力の存在に、顔を青ざめさせた。

 エオルはミランダの言葉に我に返った様子で、自分が犯した致命的な失敗に珍しく取り乱す。


『まずいですよ、リラ。私、今、思わず正式名を使って術を行使しました』


「正式名……捨てられたという方のお名前ですか?」


 エオルはミランダの言葉に応える余裕すらない様子で、膝の間に頭を埋めるようにして頭を抱える。


『絶対来る、間違いなく来る。……アレが来る。今度捕まったら絶対、間違いなく誓約を押し付けられる。今の私ではそんな力、抱えきれないって分かりきっているのに、サラジャの十三姫より酷い押し掛けぶりで、アレはもう怪談とか怪奇現象とか、むしろ呪いそのものでしかないのに拒む術もないってどういうことなんだ?』


「エオル様、外に何かいます」


 譫言のように呟き続けるエオルに、ミランダはその言葉を必死に聞き取りながら所在無げに座り込んでいたが、近づいて来ていた気配がすぐそこにあることに気づき、エオルの腕に手を掛ける。

 ミランダの言葉にハッとしたエオルは埋めていた頭を勢いよく起こすと、心底嫌そうに呻き声を漏らす。


『……もう、来ましたか』


 肩を落としたエオルが、フラリと立ち上がる。足元に散乱する物を跨ぎ越して、重い足取りで歩き出す。

 少しばかり歪んでしまった大窓を開けて、バルコニーから外に出て行こうとするその背中にミランダは声を掛けた。


「わたしも行きます」


 ミランダの言葉に、エオルの頭が振向こうか振り向くまいか葛藤するように揺れた。

 震える足に力を入れて、ミランダは立ち上がる。

 一人で出て行こうとしたエオルにやっとの思いで縋り付くと、エオルは戸惑うように瞳を揺らした。


『あなたを巻き込みたくない』


「置いていかないで」


 縋り付く指先に力を込めるミランダに、エオルが折れた。

 そっと服から手を外させて、代わりにその手を取って引く。


『決して私から離れないで』


 俯けていた顔を上げると、エオルは既に何かを決めた様子で唇をキリリと引き結んで前を見据えていた。

 エオルはミランダを抱え込むとバルコニーの手すりを蹴って、地面に降り立つ。

 夕闇が迫る地面に、俯きがちな白い堅香子の花が咲いている。

 その花に囲まれるようにして、それは跪いていた。

 褐色の肌、縮れた長い黒髪、漆黒の瞳。筋肉質の体は、揺らがない強さと決して折れないしなやかさを秘めている。


『我はスラーイイと呼ばれる大地の精霊。新国王陛下にご挨拶申し上げる。御世の、万歳、万々歳を祈念申し上げる』


 両手を大地につけ、額を大地に擦り付けるようにしてエオルに敬意を表する大地の精霊に、エオルは顔を引きつらせた。

 今、何か聞き捨てならないことを聞いた気がする。

 国を統べる王がこぞって欲しがる大地の精霊の祝福を受けながら心底嫌そうなエオルの表情に、何だか色々台無しだとミランダは軽く現実逃避をする。


『もしや先程の命令の行使により、私は汝の主人と認められたのか?』


『――是。先程の力、傷つきし我ら地の精を癒すにふさわしい。名による契約を結びし王の血を引く者よ。我はアケルナルの名を負うそなたを大地の王と認める』


 言い切った大地の精霊に、エオルは頭を抱える。

 ミランダは、そんなエオルを気遣わしげに見た。


『最悪だ』


 呻くように言ったエオルの視界に、白い服の端が映る。


「どなたですか?」


 エオルが声を発するより先に、ミランダが誰何する。


「あのぅ……。春の館への帰り方がわからなくて。ごめんなさい」


 紅茶色の髪に、若草色の大きな目を瞬かせて、見習いを示す簡素な白いワンピースを纏った女の子がおずおずと話し掛けて来る。

 さながら、春の妖精のような柔らかで明るい色彩の子どもは、ふっくらとした頰がとても愛らしい。

 どうやら地の精霊が見えていないらしい彼女に安堵の息を吐いて、ミランダは微笑みを浮かべた。

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