白い薔薇の蕾に手を
「エオル様、わたしお腹が空きました」
控えめな音で自己主張する腹の虫に、ミランダは恥ずかしそうに頬を染めてエオルを見上げる。
『そういえば、私はそのためにあなたを起こしたのでした。館の長、マノリア様が私たちのために食事を差し入れてくださいましたので、いただきませんか?』
微笑んでテーブルの上のバスケットを示すエオルに、ミランダも笑顔になる。
素早くベッドから降りてテーブルに歩み寄ると、バスケットの蓋を開けて目を輝かせる。
「マノリア様のお料理は、とっても美味しいのですよ! あ。でも、わたし、ご挨拶していません……」
『それは私が人探しを願ったので、お忙しくなってしまわれたからです。なので、リラのせいではありませんよ。用事さえ出来なければ、リラが目を覚ますまでマノリア様はこちらにいてくださったと思いますから』
途端にしょんぼりと項垂れるミランダに、エオルが首を振り、笑みを浮かべてミランダの背を優しくあやすように叩く。
その柔らかな振動に、ミランダが心地良さそうに目を細める。
くるくると目まぐるしく変わるミランダの表情にエオルも目を細めて、スッと背中をひと撫でするとバスケットに手を掛けた。
「エオル様。その前に、手を洗わないといけないのですよ。リュフェスタでは水が豊富なので、食べ物を触る前には伝染病予防のために手洗いうがいをするよう、物心ついた頃から子供たちはしつけられます。エオル様も今日からそのようにしてくださいね」
背筋を伸ばし、少し強い口調で指導するミランダは、思いっきり背伸びして大人ぶった子供そのものでエオルはその姿を自分の小さな妹と重ね合わせて笑みを漏らした。
国が変われば常識は変わる。ミランダの可愛らしい〝指導〟に、エオルは心温まる思いで、笑みを深める。
『かしこまりました。では私を、水場にご案内願えますか?』
少しおどけて胸に手を当てて礼をして、顔を上げると目を輝かせたミランダの顔が思い掛けず近くにあり、エオルは思わず目を見開く。
「エオル様の仕草は、本当に美しいですね。なんだか目が離せなくなってしまいます」
クスクスと笑うミランダが不意に、中途半端に下されたエオルの手を取る。
白い柔らかな手に、エオルは自分の鼓動が早まるのを感じた。
着たまま寝てしまったせいでくしゃくしゃになった服をまとい、乱れたままの髪の毛を気にする様子もないミランダは、小さな淑女としては驚きの無防備さと奔放さだ。
側仕えの者が常につくような身分の令嬢ならば、決して許されないような行動だろう。
男とも言えないような年齢のエオルにでさえも、年回りがちょうど良い存在ならば決して気安く触れることはない。
第一、エオルは臣従を誓った身なのだ。
本来なら親しく言葉を交わすことも許されない。
「エオル様?」
動かないエオルに首を傾げるミランダの手を、さり気なく外して歩き出す。
守り方は分かっている。
例え傷つけることになっても、人前で触れてはならない。
『水場は、この扉の向こうでしょうか』
今、拒まなければ。
この胸に全てを留めておけるうちに。
『あ』
「あー。お風呂場ですね。化粧室はお隣のようです。内扉から行けるので、問題はありません」
いや、水場は水場だけどそれはないだろう。
軽く混乱しながら、エオルは自分の迂闊さを呪い、同時に自分の肌の色を感謝した。
褐色の肌は、表情にさえ気を付ければ大抵のことは誤魔化せるのだ。
照れも恐怖も、顔色で感情を悟られないのは有難い限りだ。
今はまだ胸の内を温める種火のようなこの淡い想いを、悟られないうちに隠してしまおう。
「わぁ、豪華ー。雪花のモザイク画ですよ、エオル様も見てください」
エオルが呆然と立ち尽くしている間に脇をすり抜け、内扉を開けて化粧室に入ったミランダの歓声が聞こえる。
嬉しそうに弾むその声を聞いているだけで、笑みが浮かんでしまう自分自身に呆れながら呼ばれるままに隣室に足を踏み入れる。
『これはまた、見事なレリーフですね』
壁一面に、落葉した林とが描かれ、閉じられた三面鏡の面に群生する雪花と一体となった景色が描かれている。
一見寒々としたこの国特有の冬の景色でしかないが、使われている素材が温もりを感じさせる。
「これ、タイルでも石でもないですよね。金属ですらないのに、この光沢。とても不思議で神秘的ですね」
興味深そうに細密な細工に顔を近づけて目を輝かせるミランダに、エオルは目を細める。
『この黒い部分は恐らく樹液を加工して塗り、磨いたものだと思う。雪花の部分は虹貝を薄く削ったものを貼り付けて作ると聞いたことがある。私も詳しい製法までは知らないけれど。……母上は、殊の外こういった細工物がお好きで、よく私にその素晴らしさを伝えようと躍起になっておられるようだったけれど、私はあまり真面目に聞いていなかったものだから、それ程詳しくはないのだけれどね』
もっときちんと聞いて差し上げれば良かったと、後悔の滲む声が在りし日の面影を追う。
そんなエオルの姿に、ミランダも悲しげに目を伏せる。
「わたしは母のために、何もできませんでした。今でも、何ができたのかよくわかりません。父も、どこに行ってしまったのか、わたしは知らなくて……。母は知っていたようなのですけれど、わたしには何も言わないまま旅立ってしまった」
「水は流れ行き、二度と帰らず。時もまた、旅人なり」
「え?」
『そういう言い回しがあると、父上の友人が言っていました』
エオルの言葉に、ミランダが目を見開いて硬直する。
『リラ?』
訝しげに問い掛けるエオルの声に、ミランダは呆然としたまま無意識に言葉を紡ぐ。
「その方の、名は?」
『え?』
「その方は、名を何とおっしゃるのですか?」
血の気が引いて蒼白になったミランダの顔色に、エオルの表情が変わる。
『術師だったから本名ではないと思うけれど、私たちにはメルカルト、と……リラ、顔色が』
元々シワが寄っていたスカートをくしゃくしゃに握り締めて、ミランダはうわごとのように呟く。
「そんな……それでは、でも……だから母さまは? でも、それだともう父さまは……」
『リラ?』
力が暴走する気配に、エオルの背筋を悪寒が走る。
とっさにミランダを強く抱き寄せ、力を抑え込む。
ミランダの制御を離れて暴れ回る力を術式で抑え込みながら、エオルはミランダの耳元にささやき掛ける。
『サフィラ。落ち着いて、私の呼吸に合わせて力を抑えて』
「アハサさま、父さまは……父さまももう、帰ってこないの? わたしはひとりぼっちになってしまったの?」
制御が戻らずに不安定に揺れる力に、エオルは腕に力を込める。
『私が側にいます。ずっと側にいますから』
激しく泣きじゃくるミランダを抱きしめて、思わず口走った内容に、エオルは頭が真っ白になった。
やられた!
実に良い笑顔でほくそ笑む自称メルカルトが、エオルの脳内で快哉を叫び、エオルはこの上もない敗北感を味わった。
「もしもリュフェスタにいる私の娘にお会いになることがあれば、どうか我が娘を守ってやってはいただけませんでしょうか。あれは私と妻の力を共に受け継ぐ、浄化の術者です。必ずや殿下のお役に立つでしょう」
胡散臭い笑みを秀麗な顔に貼り付けて、メルカルトは城から落ち延びようとしていたエオルに言った。
視察旅行にでも送り出すような気楽さで、満身創痍のメルカルトはそう告げた。
「どうぞ、ご健勝であらせられますように」
背筋を伸ばし、一礼。
洗練された仕草は隙がなく、あまりにもいつも通りでそのことが返って胸に迫った。
言葉にならず、頷き返すことしか出来なかったエオルに対して、メルカルトは閉じられる扉の向こうでただ常のように平静な態度を崩さなかった。
焼け焦げだらけの髪は青みがかった黒、煤けていてもなお白さの際立つ肌、瞳は冬の海のような紺碧に銀が散る極めて珍しい色合い。
なぜ、気づかなかったのだろう。
『サフィラ、あなたの父上は私の師であり、父の友であり、至高の術者だった。彼の人を最後に見たのは私が城を出る時だった。その後も戦局を見る限りでは、つい最近までご健勝のことと思う』
エオルは、涙でぐしゃぐしゃになった小さな乙女の涙を拭い、その瞳を覗き込む。
瞳の色は母親譲りなのだろう。記憶にあるメルカルトの色合いよりも灰色がかっている。しかし、特徴的な銀が確かに散っているその瞳も、青みがかった黒髪も、その面差しにまでその面影がある。
『あなたの父上には、男として悔しいことに一生敵う気がしない』
思わずため息をついたエオルに、ミランダはようやく涙が止まったらしくエオルの顔をじっと見上げる。
いつの間にか力の制御は戻っているらしく、エオルは腕の力を緩めた。
もう、自分の気持ちには気づいている。
メルカルトに言われるまでもなく、ミランダのことを全身全霊を傾けて守りたいと思っている自分がいる。そのことを、全くもって嫌だと感じないのだ。
『さぁ、手を洗ってまずは食事をしましょう。お腹が空いていると、気分も不安定になりやすいですから』
そう言ってエオルが微笑めば、ミランダもぎこちないながら笑みを浮かべる。
最後にそっと背中をひとなでして、エオルはミランダに回した腕を解く。
「もう、お腹が鳴りそうです。鳴っても笑わないでくださいね」
心配させまいと笑みを浮かべておどけた口調を作るミランダに、エオルは目を細めて柔らかな笑みを浮かべた。




