ライラックを纏って
優しい声が、呼んでいる。
月光の射す窓辺でから忍んで来たその人は、流れるような仕草で手を取り、抱きしめ、口付ける。
「殿下の供に加えていただき、夜明けと共に出立することになりました」
ああ、これが終わりなのかと、心の中で呟く。
時折、こうして夢の中に忍び込んで来る〝最後〟に、私は何度も泣き叫んだ。
止めることも避けることもできない未来を、夢に見る。
未来視は特別な力だと言われ、この力を持っているだけでも巫女姫として下にも置かない扱いを受けるらしい。
でも私は、一度もこの力を幸せだと感じたことがない。
私がこうして見るのはいつでも大切な人を失う瞬間で、私の力では、この未来を変えることが出来ないと絶望感と共に突き付けられるから。
「どうしても行くのですか? 私は、私があなたを望むことをお許しいただけるのでしたら、他には何も望みません」
「それでは私があなたを守れない」
星明かりの中でも明らかな意思を宿して煌めいている暗赤色の瞳を見つめ返して、私は全ての言葉を飲み込んだ。
覚悟を決めた目をした彼の意思を、今まで覆せたことなどないから。
どんな言葉を掛けても意味がないと、分かってしまった。
きっとこの人は、命を賭して私を守るだろう。方法があるなら、死して後も私を守るだろう。
その心根が、愛しくて悲しい。
「共に生きられるのなら、この身を守る方法などいくらでも考えます。殿下にもお力添えをいただけばよろしいではありませんか。多少の時間が掛かっても、私は構わないのです。あなたを失うぐらいなら、私は……」
「私は生きて帰ります」
最悪を想定する私の言葉を遮って、彼は静かに約束する。
いつもならば安心と信頼を持って応えるその言葉に、今回ばかりは頷けない。
どれほど願っても、この先が見えない。この先に、この人がいる未来が見えないのだ。
「アハサ、お願い」
『もしもの時は、この身を捨てても魂は必ず共に在り、守り続けると誓う』
なだめるように口付けられて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
そしてどれほど止めても、この人は行ってしまうということにも。
変えられないのだ。
頭から血の気が下がり、指先から冷え切っていく。
この先、繰り返し繰り返し、忘れられなくなるまでこの光景を夢に見るのだろう。
目覚めれば思い出せない悪夢は、いつでも死の臭いがする。
私はいつでも、その時を前に立ち竦むしかない。
繰り返し夢に見ながら、意識から消えてしまう悪夢にいつだって無防備に全てを奪われていくのだ。
頬を伝う涙を拭う手を感じて急速に遠ざかる夢に手を伸ばし、私の意識は闇に呑まれた。
「リラ、リラ。目を覚まして」
優しく体を揺すられて、眼が覚める。
何か重要で、でも覚えていたくない苦しい夢を見ていた気がする。ミランダは、重いまぶたを持ち上げてゆっくりと目を開けた。
心配そうに覗き込んでいた顔が、ホッとしたように笑顔に変わる。
ミランダは柔らかな笑みを浮かべる少年の表情に、定まらない思考で見惚れる。
触れそうで触れない程度の距離に椅子を置いて座っている少年の姿に、ミランダはハッと身を起こした。
「傷は? 傷は、もう痛まないのですか?」
『傷はもう良いようです。痛みはありません』
姿勢正しく椅子に腰掛け、微笑むエオルの様子に不自然な様子はないかミランダは視線を走らせ、額に汗ひとつないことに納得したように頷いた。
『それよりも私は、あなたが私を見忘れなかったことに安堵しているのですよ』
思い掛けないエオルの言葉に、ミランダは瞬きをする。
「術士が真の名を交わした相手を忘れるなど。ましてやあなたはわたしを名の下に縛れるほどの力がある方。決して忘れられる人ではないのですよ」
不思議そうに首を傾げるミランダの言葉に、エオルが目を見開いて硬直する。
まっすぐに見上げて来る、何の含みもない様子のミランダの視線から逃れるように目元を覆って俯く。
『他意がないと分かっていても、その言い回しは……』
何も分かっていない様子でエオルの顔を覗き込むミランダに、エオルは目元を覆っていた手を口元にずらし、そっとため息をついた。
『無自覚ですか?』
恨めしげな表情に、ミランダはますます首を傾げる。
何かおかしな事を言っただろうかと反芻している様子のミランダに、エオルは再度ため息をつく。
『これからあなたが過ごす場所は権力に近い場所です。どのような勘違いが後々響いて来るか分かりませんので、言葉選びはくれぐれもご注意ください。特に男性には、忘れられない人だとか、言ってはなりません』
「ですが、エオル様。あなたがまとっている気配というか、空気というか、あなたのそばにいると心地良いのです。こうして触れていると、肌触りの良い、ふんわりしとものに包まれているようで安心します」
真面目な表情で苦言を呈するエオルに、ミランダは納得出来ない様子でベッドから身を乗り出すとエオルの手を取る。
転げ落ちてしまわないように咄嗟にミランダを支えて、エオルは閉口した様子で口を引き結んだ。
ミランダにじっと見つめられて、困り切ったエオルの眉が下がる。
『私はタオルケットでも毛布でもなく、あなたと年回りのちょうど良い男子なのですが、分かっていない……でしょうね』
「……嫌ですか?」
ポツリと呟いたミランダの言葉に、エオルは思わずミランダを見つめ返す。
「エオル様は、わたしがそばにいたら嫌ですか?」
一瞬の間の後、言葉にならない叫びを漏らしたエオルが、何か言おうとモゴモゴ口を動かし、葛藤に疲れた様子で項垂れる。
『今の私は護衛見習いなのですから、ご迷惑か問うのは私の方なのですけれど、あなたはそれを喜ぶような方ではないのですよね』
困った方だと続けられた言葉に反して、エオルの口調と眼差しは柔らかく包み込むような優しさをたたえていて、ミランダは自然と笑顔になる。
『私の目には、あなたは銀色の光を纏って見えるのです。触れれば清らかな水が満ちて来るように、力が満ちて来る。あなたと共に在れば、見渡す限りの荒野を緑あふれる大地に変えることだって出来そうに感じるのです。それに……あなたは、リラの花のような香りがする。故国の山麓に咲くリラの花は、あなたの纏う光のような青みがかった銀の花を咲かせるのですよ。あなたに、見せたかった』
少しばかり興奮気味に語ったエオルの口調が、勢いを失って噛みしめるような調子でフツリと途切れる。
白銀の山を抱くように咲き誇る銀の花。どれほど美しい光景だったのだろう。
神代の力の満ちた大地でなければ、それはきっと見ることの叶わない光景。
「だからエオル様は、わたしをリラと呼ぶのですか。リラというのは、エオル様の一族が守ってきた神域に咲く花の名前なのですね」
『あなたが私の呼び名に意味を残してくれたように、私はあなたの呼び名に本来の響きを一部でも残したかった、それだけのことです』
他意はありませんと微笑むエオルに、ミランダは腕を伸ばして抱きつく。
拒むことなく、ミランダの背に腕を回してしっかりと抱き返したエオルに、ミランダはささやく。
「いつかあなたの国に、リラの花を見に行きたいです。連れて行ってくれますか?」
ミランダの言葉に、エオルは小さく頷く。
閉じられた目から静かに涙が一筋伝っていくのを、ミランダは見ないふりをしてエオルの背をそっとなでる。
「いつか、必ず」
誓いを立てるように紡がれた言葉に、ミランダは目を閉じる。
少し早い鼓動に耳をすませて、生きている喜びに顔を綻ばせた。




