閑話 道化師はリリオペの庭で息を潜める 後編
姿勢正しく机の前に座り、書きものをしている少女を前にしてわたしはじっと考え込んでいた。
辺境の貧しい騎士爵の出だと言われたが、にわかには信じ難い。
豊かな胸元と、細い腰はいかにも深窓の姫君のようで、歌舞音曲をたしなむお嬢様だと言われた方がよほどしっくり来る。
静かで落ち着いた立ち居振る舞いは、世間知らずのわたしが思い描く剣を握って戦う荒くれたイメージからかけ離れて見えるのだ。
確かに、華やかでキラキラした感じというよりも、どちらかと言えば、どこか落ち着いて神秘的な雰囲気が目を離せないというのが正しい。
でも、愛し子が生活するあらゆる虚飾が排除されたこの場所で、その在りようはそれだけ本物の重みをもって存在しているようにわたしの目には見えた。
どう見ても、家から逃げ出すために宣伝に宣伝を重ねて状況を作り出したわたしのような、なんちゃって愛し子とは違う生き物にしか見えない。
「よし、決めた」
じっと注がれる視線を黙殺していたファルファラは、わたしが声を上げたことで書きものの手を休めて、こちらを見た。
その様子を見ても、彼女がとても聡明な人物だと分かる。
「わたし、あなたの信奉者になる」
「えっ……」
思ってもみなかったらしい私の言葉に、静かに整えられていたファルファラの表情が、崩れる。
目を丸くして言葉を失う姿は、思い掛けなくあどけない印象で、とても可愛らしくて。
一目置かれる淑女であろうとする姿よりもずっと魅力的で、何だかそれが嬉しくなった。
だから今思えば、わたしは少々調子に乗ったのだろうと思う。
「今日からわたしはあなたの親友で、信奉者で、相棒よ!」
いかにも道化らしく、相手の気持ちなんてお構いなしに押しかけ親友になろうとするわたしに、あろうことかファルファラは驚きから我に返ると、嬉しそうに頬を染め、はにかむように微笑んだ。
「わたくしで良ければ、喜んで」
その笑顔も、声も、きっと一生忘れないと思う。
怪訝な顔をされるか、拒絶されるか、とにかくそんな風に受け入れられるなんて思ってもみなかった。
自分で言っておいてなんだけど、あまりにも嬉しくて、その夜こっそり布団の中で泣いたのはきっとファルファラにもバレてないと思うの。
というか、バレていたら恥ずかし過ぎるから、バレていなければ良いと思ってる。
その後も、言葉を交わせば交わすほど、わたしはファルファラにのめり込んだわ。
今思えば、あれは一種の逃避だったのかもしれない。
だって、恋ならいずれ冷めるかもしれないけれど、友情ならずっと大切に温め続けられるじゃない。
だから、ずっと続くと思い込んでいたかった。
何年経っても、ファルファラが婚約を交わしても、新しい妹たちが冬の館に加わり、私たちの立場が変化してもずっと続くと思っていた。
だけど。
永遠なんて、どこにもないんだよね。
わたしは、ファルファラという木漏れ日の中でひっそりと生きていければそれで良かったんだと思う。
束の間の幸福は、幻のようにいつしかこの手をすり抜けて消えてしまったけれど。
それでも、わたしは、いつの間にか譲れないものを抱えていたことに気が付いたから。
わたしは、誰に何と言われようと、叶えたいと思った。守りたいと思った。譲りたくないと思った。
「ねぇ、ヴィー。あなたにしか、頼めないの」
そう言って微笑んだファルファラを、責めることなんて出来ない。
ずるいと、本当にとてもズルいと思うけれど。
「もしも、わたくしがいなくなってしまったら。……わたくしの大切なものを、守って欲しいの」
いつでも自分のことを後回しにして、誰かのために背筋を伸ばし、前だけを向いていたファルファラの背中は、とても眩しくて。
本当は弱虫な私の、精一杯の強がりをいつでも受け止めて一緒に笑ってくれた。
ねぇ、ファルファラ。
誰かにとっての特別になりたいと、いつだって願っていたわたしのひた隠しにした本心に気付いたのが、あなたで良かった。
わたしの抱え込んだ痛みや悲しみを、あなたは暴くこともせず、わたしから道化師の仮面を取り上げることもしなかった。
だからわたしはやっと、この仮面を捨てて誰かのために生きていけると思うの。
わたしは、あなたの“特別”を守る“特別”になるね。
「ミハイル・ラシット様。どうか、わたしを娶ってくださいませ。あなた様には、領地を、家門を、ファルファラが残した愛娘を守る妻が必要かと存じます」
わたしは、胸を張り、精一杯力強く微笑む。
わたしにはもう、道化師の仮面は要らない。
この先わたしが演じ続けるのは、強かで、しなやかな、そして決して折れることのない淑女なのだから。
「わたしが、わたしこそが適任かと存じます」
喪服に身を包み、憔悴しきったファルファラの夫の元を訪れたのは、彼がミランダに会うために都にやってくる前のこと。
あらかじめファルファラに貰っていた転移陣と晶石を使って、秘密裏に訪れたわたしを、不審と猜疑に満ちた表情を隠そうともせずに出迎えたミハイル様とラシット家の方々を思い出す。
今思えば、あの時のわたしは必死だった。
受け入れてもらえるかどうかは、わたしの頑張り次第だとファルファラも笑っていたけれど。
最期まで、ファルファラはファルファラだった。
その予想は正しくて、そしてその人選も正しかったと皆が認めざるを得なかった。
誰よりもファルファラの近くにいて、彼女を思い、そして何の打算もなく後に残されたファルファラの大切の人たちを守る助けになれるのは、わたししかいないと。
ファルファラの代わりにはなれないけれど、せめて共に険しい道を行く戦友にはなれると思った。
あなたのいなくなったこの先を、一緒に生きていくのはこの人しかいないとわたしもミハイル様も、最終的にはそんな風に思ったんじゃないかと思う。
わたしは、名づけられた名のままに野に咲く菫の花のように可憐に、だけどたくましく生きるのはちょっと無理みたいだと常々思っていたけれど。
そもそも、可憐なお嬢さんなんていう柄じゃない。
きっとこの先わたしは、日の当たらない人生だと口さがない人々に言われ続けるだろう。
わたしはファルファラの陰のようなものだとでも、言うのだろう。
それの、何が悪いのか。
わたしという存在の向こうに、色褪せない輝きとしてファルファラが生き続けるのなら、むしろ本望。
わたしは一度だってその場所を譲ってほしいなどと思ったことはないし、これからもきっとないだろう。
わたしはファルファラのように、自力で輝けるような人間じゃない。
どちらかと言えば、その光の陰で目立つこともなく、光に焦がれながらひっそりと生きるようなその他大勢だと思っていた。
それでも、薄暗い木の陰に咲く藪蘭のように。
この憧れを、思いを、胸の内に秘めながら生きていく。
ミハイル様にとってファルファラ、あなたが永遠に唯一の伴侶なのと同じように。
わたしにとって親友とは、あなたのことだから。
この手から、存在という形がすり抜けて消えても。
思い出で繋がるこの縁をわたしは大切に紡ぎ続けようと思う。
色褪せぬ幸福を願ったあなたの奇跡を抱きしめて、わたしはあなたのいないこの先を生きていく。




