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降り注ぐ言の葉の花は束ね得ぬ想いに似て  作者: 深海聡
第2章 光ある場所へ

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紐鶏頭は永遠を願う

「冬の女王にご挨拶申し上げます。ミハイル・ラシットと、その娘ペリアにございます。妻の生前には、ひとかたならぬご厚情を賜りまして恐悦至極に存じます」


 跪き、深々と頭を垂れたその人をミランダは万感の思いを込めて見つめていた。


「顔を、上げてください」


 声の震えを抑えるために、息を吸って、吐く。

 何度か顔を合わせてはいても、こうしてまともに相対するのは初めてだ。

 柔らかな新緑を思わせる緑の瞳に、陽に透ける栗色の髪。

 風の一族の特徴を残しながら、癒し手としての力よりも、機を読み、交易の手腕に長けたものが多い一族だったはずだ。

 そんな一族の中で、珍しく強い力を持って生まれたのがミハイルだとファルファラが話していたのが懐かしい。

 ミランダの大好きな“お姉さま”は、とても大切そうにその名前を呼び、人を癒し救う力だと、その人の温かな心と高潔な志を一語一句違わずミランダが覚えてしまうまで、繰り返し語り聞かせた。

 今思えば、あれはファルファラなりののろけ話だったのだろうと思う。

 図らずも、それは深くミランダの心に刻まれたファルファラが幸せだったという揺るぎない記憶で。

 色褪せることなど思いもよらないほど、鮮やかに残された痕跡に胸が詰まる。


「どうぞ、楽になさってください。わたくしのことは、どうぞミランダとお呼びください。ファル姉さまの旦那様ですもの、わたくしにとってはお兄さまも同然なのですから」


 ミランダは控えていたシーターに合図して対面の席を勧めさせ、ミハイルが席についたのを見計らって出されたお茶に口をつける。

 少しばかり無理を言って、公式な場ではなく、ミランダの私室で会う許可をマノリアに願い出た時のマノリアの表情を思い出す。

 苦笑しつつも、当然言い出すだろうとあらかじめ分かっていた様子で、侍女たちに対応の指示を与えてくれたマノリアには感謝しかない。

 漆黒の礼服に身を包み、飾りボタンさえも黒い布で覆って喪に服すミハイルの顔には、隠し切れない憔悴と陰りが見える。

 生まれたばかりの乳飲み子を抱え、唯一の伴侶を失ったばかりの人にしては驚くほど落ち着いていると、聞く気がなくとも聞こえてきた口さがない人々の話でミランダはその近況を知った。

 声の主を探そうとしたミランダを引き留めたヴィオレッタの白い横顔の、震える噛みしめられた唇に乗せられた紅の色が妙にくっきりと記憶に残っている。

 悪意から身を守るためにも悲しみは隠されるのだと、常よりもしっかりと化粧の施されたヴィオレッタの横顔に抱いた感想がミランダの胸を占める。

 同じ顔をしている。

 上辺だけを癒し、取り繕っても、心に残った痛みは消せない。


「領地に下がってからも、毎日妻はあなたのことばかり話していましたよ」


 微笑むミハイルの表情は、嵐に全てを攫われた後に似ているとミランダは思った。

 柔らかな日差しの温もりは、えぐり取られた傷跡の生々しさを際立たせる。

 それでも細められた目に、僅かに引き上げられた口元に、芽吹こうとする草の芽を撫でて柔らかに吹く風の気配を感じる。


「冬の訪れの早いこの地とは違い、我が領はまだ秋の深まりを感じる頃。寝付いた後も、アマランサスの花が見たいと言うので、ドライフラワーにしてもらってリースを作って枕元に置いたのですよ」


 何気ないミハイルの言葉に、代わりのお茶を用意していたジュノーの手元が狂い、ポットのふたがぶつかる音が響く。


「あ、申し訳ございません」


「ここは、わたしが」


「お願いします」


 いつか、ジュノーに安易に贈り物にしてはいけない花について教わったことを思い出して、ミランダは表情を隠すためにティーカップに口をつける。


「そのリースは、どうされたのですか?」


「妻の希望で、共に荼毘にふしました」


 ミハイルの表情に、彼は何も知らないままに妻の求めに応じただけであろうことが察せられて、その場の女性陣全員の表情が一瞬微妙なものになる。

 その空気を察して首を傾げたミハイルに、ミランダはほのかな笑みを浮かべた。


「ファル姉さまは、本当に想っていらしたのね」


 誰を、とは言わず、ミランダは目の前の人に微笑み掛ける。

 優しく、高潔で穏やかな人。

 博識なのに、女心に疎くて時々驚くようなところで鈍感なのも可愛らしい弱点なのだと、花がほころぶように笑った女性の面影が記憶の中で匂い立つ。

 ミランダの表情に反応したように、ミハイルの腕の中で赤子がご機嫌そうに声を上げる。

 ファルファラにとっての、ミハイルにとっての、皆にとっての奇跡。


「触っても?」


「よろしければ、抱いてやってください」


「落としそうで怖いので、守りだけ掛けさせてください」


 まだ首も座っていない赤子を抱かせようとするミハイルを慌てて押し留めて、ミランダはペリアに手をかざす。

 何を思ったのか、その指をキュッと握ったペリアにミランダは笑顔になる。

 甘いようなミルクの匂いのする、フワぷにの感触にくすぐったいような感覚。

 温かで柔らかな小さな手は命そのもので、言葉にならない感情があふれて来るのをミランダは感じた。

 ただひたすらに、幸福を願った。

 失われたものを思い出させる存在でなく、託されたものの重みに潰されることなく、光あふれる道を歩めるように。

 この命は、彼の人の幸福で、奇跡で、願いそのものなのだから。

 いつかその時が来たら、必ず伝えよう。

 どれほど望まれて、心待ちにされてこの世に生まれ落ちたのか。

 美しく、色褪せることのない記憶と共に。


「どうか健やかであれ。その道行に常に希望が共にあるように。穢れを払う浄化を、光の祝福を、闇の守りをファルファラとミハイルの子、ペリアに」


 あふれる思いを言葉にして、術式を編み上げる。

 複雑に編まれた布のようにそれがペリアを覆うのを見届けて、ミランダは座り直すといつの間にか額に浮かんでいた汗をハンカチで拭った。


「緻密で強固な術式ですね」


「心に浮かんだままに行使したので、無駄が多いと叱られそうです」


「いいえ。きっと、妻は涙を浮かべて喜んだことでしょう」


 妙にきっぱりと確信に満ちた様子で、ミハイルは言い切る。

 その言葉の強さに目を丸くしたミランダに、ミハイルは大きな仕事を終えたような気配で笑みを浮かべた。


「娘に冬の女王の守りをいただくことは、妻との最も重要な約束でしたから」


「そこまでですか?」


「はい。私の名誉と誇りにかけて誓わされました」


 冗談めかして少しだけ砕けた口調になったミハイルが肩をすくめる。


「叶えられてよかった」


 叶わなかったことを数えるような間の後、ミハイルは冷めてしまったお茶をぐっと飲む。


「そろそろ、失礼いたします。後日、また改めてご挨拶に伺いたい件がありますので、本日はこれにて」


 ミハイルの言葉に、ミランダは一瞬眉を寄せ、何事もなかったかのように笑みを浮かべる。

 その脳裏を、あの時聞いた噂の続きが掠めていく。


「ファル姉さまは、ミハイル様にとって色褪せることも朽ちることもない唯一の花なのでしょうね」


 思わず滑り落ちた言葉にハッとしたミランダとは対照的に、言われた方のミハイルは顔色を変えることなく穏やかなままの笑みで大切そうにぺリアを抱えなおした。


「風に吹かれる木の葉、あるいは水面の泡のようなこの身にも、譲れないものはございます」


 そう言って穏やかに微笑んだ顔は、もう最愛を失って打ちひしがれた男のものではなく、守るべきものを手にした親の顔をしていて、その瞳に浮かぶ色に、ミランダはここにはいないメルカルトのことを思った。


『己を繋ぎ留めている存在が何なのかは分かっているつもりだよ』


 あの日、耳をかすめた言葉の重みがミハイルの纏う空気に重なる。

 覚悟を持った人間は、強い。

 色褪せぬ痛みを痛みのままに、粘り強く、変わらぬ愛を捧げ続けるのだろう。

 風に弄ばれる蝶のように儚くなった彼の人の願いのままに。


「そうでした。これを、あなたに。妻から、最後の言伝です」


 ふと思い出した様子でミハイルの懐から取り出された包みから、ふわりと花の香りが広がる。


「『ゆっくりと、急がずに咲けばよろしいのです』と」


 白い薔薇の蕾が刺繍されたサシェを、何気ない様子でミランダの掌に載せる。

 触れれば、ひと針ひと針に縫い込まれた願いと祈りを感じる。

 ファルファラの力の、名残というには濃密なそれをミランダは思わず胸に抱いた。

 押し留め切ったつもりの涙が絨毯に落ちて、ミハイルはそれを見ぬふりでそっとその場を辞した。


「ファファ。あなたの言っていたことが、よく分かったよ」


 ミハイルは窓の外に目をやって、小さく呟く。


「あなたの主は、本当に清らかな白薔薇の蕾のような方だった」


 腕に抱いたままだったペリアが手を伸ばし、触れて来るのを笑みを浮かべてあやしながら、ミハイルは雪に閉ざされた世界を見る。

 春はまだ遠く、それでも雪の下には芽吹きを待つ植物たちが眠るように。

 希望は、確かにこの腕にあると思えることを誰にともなく感謝する。

 まどろみ始めた赤子を上着に包みなおして、ミハイルは静かに降る雪の中へと歩み出した。

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