ナイトクイーンは月明かりの庭で
ぼんやりとした闇の中を、月の光で出来た道を踏んで歩く。
その頼りない感触に、ミランダはこれは夢なんだろうと思った。
どこかの水辺を、青草を踏んで歩く。
その感触も匂いもまるで実物のように濃密なのに、意識して捉えようとすれば途端に幻のように霞んで消えてしまう。
知らないはずの景色、匂いも感触も、ミランダのものではないような気がする。
そんな夢だった。
誰かに手を取られて導かれるように、知らないはずなのに迷いなく足が進んでいく。
美しい景色はまるで壊れやすい硝子細工のようで、ミランダは知らず知らず息をひそめた。
心の中で、二度とは見ることができないこの素晴らしい景色を味わい尽くしたいと思う心と、今ここに”呼ばれた”意味にすくむ心。
この場に、ミランダがいる意味など限られている。
ずっと心の奥底で恐れていた時が来た。
美しい幻となって現れたのは、決して避けて通ることの出来ない残酷な結末だ。
分かっている。
分かっている。
たぶん、分かっていたつもりだった。
傍にいてと、すがることすらできない別れを、ミランダはもう知っているのだから。
『ハイル様』
夜のしっとりと湿度を含んだ空気に、濃密な花の香りがする。
濃密なのに、余韻すら残さず消えていく甘やかな香りにくらりと視界が揺れる。
か細くなっていく繋がりに導かれるように、ふらふらと歩みを進める。
引き留めようとしても、ほどけて消えていく感触に、足が震えそうになるけれど。
呼ばれているから。
呼ばれていると分かっているから、行かなければならない。
夜の闇の中に、白い花が光を含んでいるかのようにほのかに浮かんで、幸せそうに微笑むその人を浮かび上がらせる。
すらりとした少し線の細い長身に寄り添うその人のことを、ミランダは見間違えようがなかった。
「ファル姉さま」
緊張で、声かかすれる。
名を呼べば、その人は柔らかな仕草で振り返り、ゆったりと満ち足りた笑みを浮かべた。
穏やかで静謐で温かな、そんな夜だった。
月明かりに照らされて夫婦が覗き込むのは、その腕に抱かれた小さな命。
柔らかで小さな手が、おくるみの中から伸ばされる。
その手に指先を握らせて、ファルファラは声を上げて笑っていた。
『ミランダ様。どうか、この子に……わたくしの娘に、祝福を』
真っ白なおくるみに包まれた赤子を大切そうに抱き、ファルファラは花がほころぶように微笑む。
真っ白な、飾り気のない服は愛し子のお仕着せにも似て。
ミランダは、目の前が歪むのを感じた。
堪えきれない大粒の涙が、零れ落ちる。
こんなにも幸福に満ちた光景を寿ぐことができない。
繋げても引き留めてもほどけて消える感覚が、全てをかき乱す。
目を開けても、零れ落ちる涙でもうファルファラの顔が見えない。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ハンカチで優しい手がいつものように拭いてくれる。
そっと頬を包む手の温もりと、しっとりとした感触は何も変わらないのに。
仕方がないわね、とでも言うようにファルファラはミランダの頬に手を当て、笑みを浮かべる。
気配だけでその表情が分かるほど、ずっとそばにいた。
『忘れないで。この子の名は、ぺリア――』
かすかな名残が、するりと解ける。
奇跡とは、終わりがあるものだ。
それをファルファラはよく知っていた。
急速に遠ざかる夢の感覚の中で、ファルファラは例えようもなく幸せそうに、微笑んだ。
そこにはひとかけらの後悔もなくて、そのことが却ってミランダに痛みを残した。
零れ落ちる涙の感触に、目を開ける。
夢の名残と共に、途切れた絆の感触を確かめる。
幸せそうに頬を染め、奇跡なのだと笑ったその笑顔が、声が、まだ目に耳に残っている。
握った手の柔らかな感触も、まだ覚えている。
それでも、もう、いないのだ。
万が一、運良く命を繋げたならまた戻って参りますと微笑んだ彼女の言葉を、祈るような思いで聴いたあの日が、まるでついさっきのように感じられるのに。
この世のどこにも、ファルファラは存在しない。
それは、彼女の命綱とも言えるミランダとの絆が切れたことからも間違いない。
「姉さま……それで、良かったんですね」
夢の中の、ファルファラの満足そうな笑顔を思う。
手に触れたシーツの感触が妙に冷たくて、その冷ややかさにすくみそうになる。
違う、これは違うと、理由もなくミランダは無意識に真っ白な布に爪を立てながらファルファラを思った。
『……ごめんね。それでも私、後悔できないの』
困ったように眉を下げて、ミランダの手を握りながら微笑んだファルファラの言葉を忘れることが出来ない。
そう、あれはほんの半年前だ。
子が出来て、夫の領地で産むのだとファルファラはミランダの前を去っていった。
そのことを責めるつもりはない。
運命。
そういう言葉を使えば、説明は有無を言わせず簡単になる。
2度、奇跡が起きた。
それでも3度目はなかった。
他人からすれば、たったそれだけのことだ。
湧き上がってきた涙を、ミランダは歯をくいしばって耐える。
これ以上泣いたら、目が腫れてしまう。
そんな顔を、人に晒すことなど出来ないから。
いつでもそばにいて、盾になって庇ってくれた人はいない。
長く息を吐いて、心を落ち着ける。
その息が途切れるかどうかで、不意にシーターが音もなく部屋に入ってきた。
体を起こしているミランダに目を止めて、静かに礼を取る。
「どうしたの?」
「お休みのところ、申し訳ございません。ミランダ様に急ぎ面会を求められている方がいらっしゃいまして」
シーターの言葉に、ミランダは涙の名残をぬぐい、居住まいを正す。
「こんな時間に、どなたかしら?」
「ミランダ!」
悠然とした風を装って呟いたミランダの元へ、バタバタと駆け込んで来た人に目を見張る。
そのままベッドに飛び込み、抱き着いて来た温もりに、堪えたはずの涙がこぼれた。
「ヴィヴィ姉さま」
ガシッと、強い力で抱き締められる。
頬に、濡れた感触が流れ落ちる。
自分の涙ではないその感触に、ミランダは思わずヴィオレッタにしがみついた。
無理矢理蓋をしたはずの感情が、あふれ出す。
2人で声を上げて泣く。
周囲の目も気にせず、ヴィオレッタの勢いに押されるようにミランダも声を上げて泣き出す。
その様子に、シーターは黙って背を向けると開け放たれた私室の扉を閉め、その前に立った。
悲しむことは必要だ。
俯いたシーターの足元にも、静かに雫が落ちる。
人生は理不尽なことばかりだ。
それでも、ファルファラは後悔なんてしなかったはずだと確信を持てる。
『後悔なんてしないわ』
清々しい笑顔で笑った顔が、心に焼き付いている。
「シーター。こちらにヴィオレッタはお邪魔しているかしら?」
ふと顔を上げれば、マノリアと、その後ろにヴァネッサとジュノーもいる。
「はい。先ほどお見えになり、今はミランダ様とご歓談中です」
礼を取るシーターに、マノリアは僅かに笑みを浮かべた。
「そう。ミランダ様はすでにご存じだったようね」
冬の女王となったミランダに対して敬う言葉を発しながら、マノリアの浮かべる表情は幼子を気遣う保護者のもので、シーターはそのことに安堵する。
「恐らく、絆の喪失に気付かれたのかと」
「ええ。あの感覚は、決して忘れられるものではないわ」
マノリアの手が、左手に嵌められ、黒い布で覆われた腕輪を触る。
その仕草に、侍女たちは返す言葉が見つからず沈黙した。
「……十分に悲しむこともまた、必要なことよ。方々調整して来るから、あなたたちはこちらで待機していなさい」
「「「はい」」」
3人に背を向けて王城へと向かうマノリアの後ろ姿を見送って、侍女たちは深々と礼を取る。
ファルファラの代わりなどいないけれど、それでもこうして気に掛けてくれる人がいる。
そのことに彼女たちは心から感謝した。
「ねえ、ヴィヴィ姉さま」
「ん?」
ひとしきり泣いて、無事に目が開けられないほど腫れあがった後、ベッドに横になったままミランダとヴィオレッタはぼんやりと思いにふけっていた。
その沈黙を破って、ミランダは夢の話しをする。
「夢の中で、ファル姉さまとお会いしたんですよ。ファル姉さまは小さな赤ちゃんを抱いて、それはそれは幸せそうに微笑んでました」
「そっか」
「あれはきっと、ご挨拶にいらしたんだと思うんです」
「うん」
「だからわたしは、後悔しちゃいけないんです。ファル姉さまは月の下で、真っ白に咲き誇る花のように綺麗で、本当に綺麗で……」
ミランダの言葉に、ヴィオレッタが頷く。
「私もファルファラって、妙に白と月が似合うなって思ってたのよね。それこそ、月下美人っていう感じ」
「月下美人?」
訊き返したミランダに、ヴィオレッタは何かを思い出すように目を細める。
「南部の方で咲く花なんだけど、夜に咲いて、朝までにしぼんでしまう花でね。とってもいい香りがして、でも儚げで」
ヴィオレッタは、ふと笑みを浮かべた。
「本当に、儚いわね」
寂しげな微笑みは、ミランダが知らなかったヴィオレッタの表情で。
黙り込んでしまったヴィオレッタに、ミランダはそっと抱き着く。
その背中に手を回してあやしながら、ヴィオレッタは目を伏せて何かをじっと考え込んでいるようだった。
短い夏が過ぎ去り、あっという間に秋が深まって冬が来る。
そうして春が来れば、ミランダは8歳になる。
長くて短い日々が、過ぎ去っていく。
そのことを思いながら、ミランダは背中を丸めて少しだけまどろむことにした。




