閑話 大地は青草に香る
「アハサ! ミランダ嬢から荷が届いたみたいよ」
声と一緒に足取りまで弾ませて執務室に駆け込んできたイレーネに、エオルは手にしていた書類から顔を上げた。
「イレーネ。ノックをしてから静かに入室するようにと、何度言えば……」
自動的に、という表現が相応しい自然さで始まったカーティスの小言に、イレーネは顔をしかめた。
毎度のことながら、限りなく子供っぽく、さしたる中身もない痴話げんかにエオルはため息をつく。
仕事量は全く持って平和でもなく終わりも見えないが、イレーネとカーティスの関係性は限りなく平和で胸やけがしそうだ。
あちこちで家を建て、道を整備し、畑を耕す音が聞こえる。
忙しなく人が動き回る気配に、エオルは頬を緩めた。
打ち壊され、焼け果てた国にも山河があり、人々があれば日常は戻る。
絶え間なく響く音と、大声で交わされる会話、時々響く怒号。
足りないものの方が多いような状況でも、誰もがどうにかより良い明日を迎えようと、汗水垂らして働いている。
手も足りない、資材も足りない、食料も十分とは言えない。
リュフェスタからの手厚い支援があっても、ペレジャの侵攻が残した爪痕は深く、復興は手を付け始めたばかりだ。
それでも、皆の表情は明るい。
仮設の家が立ち並び、十分とは言えずとも、それなりの食糧が行き渡っているのはひとえに、カーティスの処理能力が高いお陰だとエオルは思っている。
あとは復興を見据えて、非戦闘員である文官を大半の民たちと早期に逃がしたことが功を奏している。
組織として機能するためには、手足として働く文官たちと、そこから上がって来る報告をさばき切るカーティスという頭脳、どちらが欠けても、今の活況はなかっただろう。
最悪は、呪いに侵された大地を放棄せざるを得ず、スラーイイという国自体が消滅していた可能性すらあった。
国王ライオット、王妃ヘデラをはじめ、第一王子リオネル、公女ファリルアーナ。他にも、何人もの王族、数えきれないほどの戦闘員、術者、成人を迎えている戦える者は大部分が戦死した。
戦えぬ者、復興に必要な非戦闘員、幼い者、年老いた者。そういう者たちを守るために、皆逝ってしまった。
守られるはずだった者にも、死者は出た。
「あ、アハサ! そういえば、陵墓の鈴蘭が花盛りだって言ってたわ」
カーティスの小言を聞き流しながら、急に思い出した様子のイレーネが、楽しげに笑いながらエオルの方に身を乗り出す。
この国に戻ったエオルは、真っ先に死者を合葬した陵墓の周辺に鈴蘭を植えた。
その可憐な花に反して毒を持つ鈴蘭は、薬草としての一門もある反面虫や動物を寄せ付けず手間がかからないため、陵墓に好まれて植えられる花だ。
しかし、それよりもエオルにとって鈴蘭は、妹ハンダの好んだ花という理由の方が大きかった。
この先もずっと、陵墓は花盛りの頃には一面、白い可愛らしい花に埋め尽くされる。
エオルを呪いから庇い、命を落としたハンダ。
木漏れ日の射す陵墓にひっそりと咲く鈴蘭は、ハンダの思い出そのものだった。
暗い森の中で白く目を引く真っ白な可憐な花は、エオルの心を、皆の心を慰めるだろう。
悲しみと、後悔と、かつてあった日々を奪った者たちへの憎しみと。
過去のものに出来ない、そういう生々しい傷跡を抱えたまま、それでも暗い顔で俯いている人はいない。
誰もに役割があり、叶えたい未来がある。
そうあれという願いを、託されたから。
失われたものの重みを知っているから、だからこそ俯かないし、誰も俯かせないとエオルは決めた。
より良い明日を掴もうと誰もが必死に生きている。
スラーイイは、そんな活気に満ちている。
そのことがエオルは誇らしかった。
「そうですか。咲きましたか」
「一面白い小さな花が咲き乱れていて、それはもう見事だったわよ」
得意げに胸を張るイレーネに、エオルは笑みを浮かべる。
どこまでも我が道を行くイレーネに、カーティスも小言を聞かせることを諦めて、ため息をつくと書類を片付け始めた。
「カーティス兄上?」
「見に行くのだろう? 早くせねば、時間が無くなってしまうからな」
「今から行くの? 良いわね。早く行きましょう!」
途端に目を輝かせてカーティスの手を引くイレーネに、カーティスも笑みを浮かべる。
苦笑に近い笑みは、エオルから見ればただの照れ隠しでしかない。
なんだかんだ言いながら、イレーネのこの持ち前の明るさに、皆救われているのだ。
屈託なく笑うイレーネの周りには、自然と笑顔の人々の輪が出来る。
カーティスの几帳面さ、謹厳さとは一見相容れないように見えながら、互いに補い合って上手くバランスを取っている2人に、エオルは少しばかり感心する。
両親とも、リオネルとファリルアーナとも違う関係性。
エオルはそっと、ミランダのことを想った。
「早く――」
会いたいとは、言葉にしなかった。
言葉にすれば、心のままに今すぐに跳んでいきそうだったから。
目を閉じて、力の流れを感じる。
流れ込む水の気配と、流れていく火の気配。
あの日結んだ絆が、生きているのを感じる。
これを手繰り寄せれば、彼の人を招き寄せられるだろう。
そう。名前を、力を込めて呼ばえば、あるいは存在ごと手繰り寄せられる。
だけどエオルは、そうしないと決めたから。
この国を、ミランダが安心して暮らすことが出来るように整えるまで、そして彼女が冬の女王としての役割を恙なく果たせるようになるまでは呼び寄せないと決めたから。
だから、その名を呼ばない。
会いたいと、決して口にしない。
外に出たエオルがじっとリュフェスタの方角を見つめている様子を見遣って、イレーネは面白いものを見るようにニヤニヤと笑う。
そんなイレーネをため息をついて引っ張ると、待たせていた馬の上に強引に押し上げて、カーティスは自身もさっさと跨る。
「アハサ、先に行っているぞ」
「あ、お待ちください。カーティス兄上!」
「いいねぇ~。若いって素敵ねぇ~」
茶化すイレーネの声が、あっという間に遠ざかる。
気を利かせてくれた体のカーティスと、楽し気なイレーネの言葉に、エオルは熱を持ってしまった顔を掌で隠した。
「私は、そんなに分かり易いだろうか?」
国王と呼ばれるにはまだ幼い少年の呟きを馬だけが拾い、興味なさそうに耳を振り、早く行こうと蹄で地面を掻く。
エオルは深々とため息をつくと、気を取り直して馬にまたがる。
焼け爛れた大地は青々とした草に覆われ、可憐な野の花が咲き、畑にはさまざまな種類の苗木が育ちつつある。
そこを吹き抜ける清涼とした風には青々とした草とかすかにリラの花が香り、エオルはその空気を胸一杯に吸い込んで、力強さを増し始めた太陽に手を伸ばした。




