アキレギアの葉を擦る
「ミランダ、まだ制御が甘いですよ。もっと収束させてください」
手を翻してミランダが放った冷気を霧散させたファルファラが、容赦なく雪玉を叩きつけながらミランダを指導する。
「わぷっ」
もろに顔面に雪玉が当たって慌てるミランダに困った様子で眉を下げて、ファルファラは再度雪玉を放つ。
「障壁を張って!」
ファルファラの声に、慌ててミランダが手をかざす。
そこを狙いすましたように、雪玉が当たる。
「遅い! それでは自分の身すら守れませんよ!!」
汗ひとつかかず息ひとつ乱さないファルファラの鋭い叱責が飛ぶ。
その様子を見ていたエオルが、メルカルトの傍らに歩み寄り、声を落として話し掛けた。
「師父、ミランダにこの訓練を施す意味はあるのでしょうか? どう見ても、私にはとっさに防御のみでも応戦出来るように訓練するのは難しいように見えるのですが」
困惑とも憐憫とも取れる、複雑な表情を浮かべたエオルに、メルカルトも声を落として応じる。
「言いたいことは分かります。サフィアは…その……私とリナリアの娘とは思えないほど、術の行使に不安があります。術の持続など、長時間の集中力が必要なものは並以上に、むしろ私も感心する程度にはこなしますが、こういう咄嗟の判断が必要な速さを要することは苦手なようでね」
「それでも師父は、ミランダ本人が身を守れる能力を早急に身に着ける必要があると考えていらっしゃると?」
「ええ。サフィラは、どう見ても格好の餌食ですからね」
メルカルトの言葉に眉を寄せて、エオルは黙ってメルカルトの言葉の続きを待つ。
「術者の常識が分かっている者なら、サフィラには決して手を出さないでしょう。はっきりと分かるほどの力が常に漏れていて、更にこれもはっきりわかるほどの“色持ち”ですからね」
「……どう見ても、青の一族ですよね」
「ええ。あなたが持つ赤と黒の色よりも、伝承だけでなく現役の術者としても多いですからね。知識がある相手なら、あるいは並の術者なら決して喧嘩を売らないでしょう。どう見ても“古い血”を濃く受け継いでいる、直系の“青の姫”に手出しするのは自殺行為だと皆知っていますから。……しかし、相手がそういう基礎知識を知らない相手で、力の関知すら出来ない相手だった場合」
「……ミランダを思い通りにしようとする、ということですか?」
ゆらりと熱気を立ち昇らせたエオルの額を、メルカルトは軽くはじく。
「落ち着きなさい。まだ起こってもいないことを想像して心を乱してどうします。何が起ころうと、サフィラは守り切ります。傷ひとつ付けさせない。……そう。何が起ころうと、ね」
切れ長の目が細められて、剣呑な光を宿す。
エオルを叱りながら、既に準備完了して手段まで選ばない様子のメルカルトに、モノ申す気力からごっそり奪われる。
この師匠がやる気満々なら、エオルに出る幕はない。
思わず肩に入っていた力が抜けて、息を吐く。
「既にそういう動きがあるのですか?」
「本音としては、このままサフィラをスラーイイに伴いたいのですがね。冬の女王の力を得てしまったサフィラをこの地から離せば、リュフェスタは未曽有の寒波によって多くの者が命を落とすことになりかねない。本来、冬の女王とは厳し過ぎる冬を和らげるための人柱であり、この地の守り手で、年端もいかないリュフェスタの民でもない幼子が担うようなものではないのですよ」
気を取り直して掛けられたエオルの問いにはあえて答えず、メルカルトは手持無沙汰な様子でむしり取った葉を弄びながらため息を吐く。
「だからこそ、記録を紐解けばわかることなのですが、冬の女王は初代は王家の姫、その後もほぼ王族か建国以来降嫁も受け入れたことがある高位貴族の子女が担っているのを」
「フレアが歪めてしまったということですか?」
「ええ、ある意味ね。それが悪いことだったとも言い切れないのですが」
「と、言いますと?」
意外な答えに、エオルの片眉がピクリと上がる。
「王女は降嫁し、王女の孫にあたる人物が春の館に愛し子として上がっているのですよ。確か、名前はロザムンドだったかな。今のリュフェスタ王家の“力”では、冬の女王になった場合、精霊化が進んで恐らく子は望めなかったでしょうから、フレアが冬の女王になったことで、王女の子が生まれ、この国には今、将来有望な癒し手が生まれていることになります」
「それは、確かに重要な事ですね」
「ええ。水の浄化と、風の癒しは似て非なるものですから。王女の子孫が優秀な癒し手ならば、リュフェスタ王家か王女の降嫁した家か、どちらかに緑の一族の血が流れているのではないかと推測できるんですよね。実際に、そのロザムンドとやらは金の髪ではないそうですが、力の影響で現れた緑の瞳だと、下働きたちが興奮気味に噂をしていたので。下々の者たちの噂は、意外と侮れないのですよ」
どんな方法でその噂話を聞いて回ったのか。
この目立つ師匠が気軽に噂話を集めて回る様子が想像出来ず、エオルの表情が微妙なものになる。
間違いなく、何かしら裏技とか、術の行使によって普通の人間では出来そうもない無駄な技術力の高さによって解決されているような気がする。
器用なのか無駄なのか、分からない緻密で力を大量消費する、制御が難しい何かを涼しい顔で行っているメルカルトの姿が思い浮かび、エオルは遠い目になった。
この師匠に関しては、考えるだけ無駄なことが多過ぎる。
基準とか、常識とかが一般的ではないのが通常運転なのだから、あきらめが肝心だ。
「何と言うか……師父は、相変わらず何でもこなしてしまわれますが、目指されている方向性が不明ですよね」
「そうかな。至って単純だし、明確だと思うけれど。私はただ、降り掛かって来る火の粉を払っているだけだよ」
穏やかに微笑むメルカルトに、改めてエオルは実感した。
この人だけは、敵に回したくないし、敵に回しては駄目だと。
「お前は、喪っては駄目だよ。世界が相手でも、守り抜けるだけの狡猾さを身に着けるべきだ。私は……そういう意味では、とんだ非才の身だね」
誰もが欲しがるような大きな力をその身に宿して、それでも、目の前にいるこの人は恵まれているのだろうかと、繰り返し誰にともなく問う。
「守りたいものが守れない力など、あるだけただの足枷でしかない」
零れ落ちたその言葉は、忘れることが出来ない重さと苦みを含んでいて。
その瞳の奥に隠された狂気にも似た炎が、揺らめいている。
「私は、強いられた犠牲を忘れない。……時の果てまで追い掛けても、代償を支払わせたくなる己を繋ぎ留めている存在が何なのかは分かっているつもりだよ」
その視線の先にあるのは、雪にまみれて笑い転げるミランダの無邪気な笑顔。
「私は、あの笑顔を守るためなら今度こそ、喜んで破滅すら受け入れるかもしれない」
呟いた言葉は、どこにもない何かを見つめているような、そんな危うさを感じさせる。
伴侶を失うことは、術者にとって半身をえぐられるのと同じこと。
誰かがそう言っていたことを、思い出す。
そう表現した人は、堪え切れずに後を追ったとも聞いた。
特別で、かけがえのない、決して切れない絆。
それは時に例えようもなく幸せで、言葉にならないほどの悲劇と残酷さをもたらす。
「……人は本当に、たまらなく愚かな生き物ですね」
静かに笑みを浮かべるメルカルトの手に目をやって、その手がただれていることにエオルはギョッとする。
「触れれば肌がただれる毒草に、勝利を呼び込む効能があると思い込むのですから。こんな風に、ね」
深められたメルカルトの笑みも毒を孕んで昏く、エオルの背を悪寒が駆け抜けた。
手をひと振りする間に、毒は洗い流されて、浄化される。
何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべるメルカルトの表情にも、見間違いだったかのように危うい陰りは消えていて、エオルは思わず背後を振り向いた。
「父さまぁ。上手く出来ません……」
しょんぼりと項垂れるミランダに、メルカルトが相好を崩す。
「毎日続けることです。苦手なことが、一朝一夕に出来る訳がないでしょう? 頑張れば、努力は必ず結果に結びつきます。ただ、時間は掛かりますから、あとはサフィラがどれだけ頑張り抜けるかですね」
ポンポンと頭を撫でながら、メルカルトは目を細める。
その手には、傷もただれもなく、エオルはその様子をじっと見つめていた。




