金銀花は痛みをぬぐう
長い夢から目が覚めたように、体と頭が重い。
眠る前の出来事が思い出せなくて、ミランダはそっと瞬きをした。
風に揺れるレースのカーテンの陰に、人影がある。
「サフィラ」
落ち着いた女性の声に、名を呼ばれる。
そこに込められた力に、息を飲む。
「どうか忘れないで。お願い、サフィラ。彼の手を離さないで。離さないで、彼を」
泣きそうに、繰り返す声はあふれて止まらない後悔と苦悩が強すぎて息が出来ないほどだった。
ああ、分かる。
この人は。
風にレースのカーテンが翻る。
月明かりに照らし出されるその姿。
鏡の中に、見慣れた顔。
何年後かに、こうなるのかと思うその姿。
長いはずの髪は、肩の上で断ち切られていて、それが表すことにミランダは目を見開いた。
「失っては駄目」
闇の中で涙を含んで光る瞳が、遠ざかっていく意識の中で、抜けない針のように心に突き刺さった。
「サフィラ、サフィラ」
遠い記憶の中にある声が、名を呼ぶ。
「私はいつも、遅れてばかりだ。……すまない」
後悔に満ちた声は、懐かしいのに馴染みの薄い声。
記憶にかすかに引っ掛かる低く響くその声は、誰だっただろうか。
やっと開いた目に映る衣は、深い青。
この国で、正式にこの色を纏える術師は限られている。
「父さま?」
「ああ」
「無事に、お役目は果たせたのでしょうか?」
「ああ。無論、恙なく。リナリアの施した術式が、寸でで私の命を守った」
ミランダは、ずっと母に似ていると思っていた自分の容姿が父に似ていることを初めて知った。
涙をこらえ、うっすらと赤くなった切れ長な目元も、中性的な細面の顔も、生き写しとはこういうことを言うのかと思った。
やや骨ばった骨格が、生えるに任せた感じの無精ひげが性別の違いを感じさせる。
片手で顔をひと撫でして、高ぶった感情を落ち着かせようとするように細く息を吐く様子を、じっと見つめる。
まるで現実感がなかった。
ミランダにとって父親とは、存在しないことが日常だったから。
天井に描かれた優美な花の花弁の数を数えながら、ぼんやりと思った。
ミランダは知っている。
ずっと続くと思っていた日常は突然断ち切られるもので、当たり前の明日なんて来ないもので、どれほど必死に願っても、叶わない願いはあるのだと。
「母さまは、最期まで父さまのことを案じていました。だからきっと、喜んでいると思います」
だから、聞き分け良く微笑むことしかできなかった。
他にどうすればいいかなんて、分からないから。
永遠に続くような長い長い夜に、呪いに蝕まれてゆっくりと力尽きていく母の傍らで、呪いを抑え込むための術式に必死に力を注ぎ続けた。
泣きながら謝り続ける母の声が、聞こえなくなるまで。
聞こえなくなっても、ずっと。
やがて朝が来て、闇の力が弱まるまで。
冬の女王がそこにいなければ、力の制御が未熟なミランダを助けてくれなければあの長い夜が乗り切れたか分からなかった。
与えられた役目をこなすことに必死で、悲しみなんてどこかに行ってしまった。
「冬の女王は……」
「役目を終えて、解放された」
静かな声に、あの日消えてしまったはずの涙があふれて来る。
気づいたら、声を上げて泣いていた。
慌てた様子で抱き起こし抱え込む胸に顔をうずめ、しがみつく。
なくしてしまったものの名前も、ひりひりと灼け付く痛みのような感覚も、どうすればいいかなんてミランダにはわからない。
甘く優しい花の香りが、まだ記憶の中でかすかに香っている。
「これを飲んで、眠りなさい」
白と黄色の花の入ったお茶を、匙を使ってそっと口に含まされる。
その花の香りは、記憶にある優しい香りと同じで。
そのお茶で湿らせた布を、泣き腫らしてしまった目元にも乗せられる。
ひりひりと痛んだのども、目元も不思議と痛みが和らいでいくようでミランダはわずかに笑みを浮かべた。
「父さま。目が覚めるまで、ずっと傍にいてください」
改めて腕に力を入れ、しがみついたミランダにメルカルトは小さく笑みを漏らしたようだった。
「ああ。ずっとここにいるから、安心して眠りなさい」
小さな音を立てて、ベッドにミランダごと横たわったメルカルトは、柔らかな笑みを浮かべて目を閉じた。
この温もりだけは、必ず守らなければと改めて胸に誓う。
もう二度と触れることの叶わないたおやかな腕を、思う。
しっとりとした紺青の髪をすく。
なめらかな手触りの髪は、色も質感も、リナリアにそっくりで。
メルカルトは、目を細めた。
全てを使い尽くして支えられた。
全てと引き換えに為された、救われた命、繋がれた未来、託された思い。
もうこの腕に抱き締めることさえ叶わない、最愛の存在。
そこに嘆きが、悲しみが、悔恨がないとは言えない。
なぜ、どうして。
そう問えたら良かった。
問い詰める相手がいたなら、良かったと何度も思った。
運命。
そうとしか、説明出来なかった。
自分自身にも、他の誰にも。
残酷で、無慈悲な運命。
それでも、残された思いは、記憶の中に色褪せない愛は、幸福だった日々は消えることなどないから。
ずっとずっと、抱え続けていく。
「この結末を知っていても、それでも私は、リナリア。あなたと出会ったことを幸いだと、これ以上の幸福はないと、私たちの娘に語り続けよう」
失った痛みを癒すのもまた、失われた日々の記憶で、繋がっていく命で、残された希望を守り続けていく日々だから。
メルカルトは、小さな温もりを抱いて、満たされた思いでそっと目を閉じた。




