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降り注ぐ言の葉の花は束ね得ぬ想いに似て  作者: 深海聡
第1章 光の芽吹き

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アゲラタムは青き袖の

 そこは灼け付くような冷たい闇だった。

 痛いほどの冷気が、死の息吹をはらんで吹く。

 いや、むしろこれが死なのかもしれないと、エオルは思った。

 どちらが前で、どちらが後ろなのか。左右、上下さえも分からない。

 ありとあらゆる体の感覚が遠くて、立っているのか倒れ伏しているのかさえ分からない。

 帰らなければ、それだけが心を占める思い。

 待つ人がいる。

 朧に霞んで輪郭さえ失った記憶、感情、存在。

 その中でただひとつ引き留めるのは自分を待つ誰かと、そこに帰らなければという思い。

 それだけが、自分自身を現実に縫い留める杭。

 それにしがみつこうとするだけでも耐えがたい痛みが走る。

 泣き叫んで、手に触れるものさえない闇を掻きむしる。

 いっそ引き抜いて打ち捨ててしまえば楽になれると分かっているけれど。

 それでも、生きなければならないという確信があった。

 それは他の何かを捨てても、どれほどみっともなくても、無様でも。

 手放してはいけないという確信があった。

 世界の全てをバラバラにしてしまいたいほど、痛くて苦しくて辛くても。

 それでも、生きなければならない。

 まだ、成さなければならない義務がある。

 託された、約束がある。

 応えたい、願いがある。


「……だめよ。あの子を…しないで。生きるのよ!」


 切れ切れに、小さな声が聞こえる。

 聞き覚えのないその声は、しかし馴染んだ気配がする。

 ふと流れ込んで来る力に、吹く風の冷たさが弱まった気がした。

 視界に光が、わずかに戻る。

 焼け爛れた荒涼とした大地。

 エオルには、そこがどこだか分かった。


「私は、死に掛けているのか」


 命の気配が希薄な世界に、自分自身の状態に思い至って顔色を失う。

 僅かばかりの水が注がれるが、それよりも世界が干上がっていく方が何倍も速い。

 癒しても癒しても、それが追い付かない。


「身の程をわきまえぬ者の、末路か。……覚悟していたつもりでも、これは」


 割に合わぬと、叫び出したかった。

 他に担えるものがいれば、投げ出してしまいたかった。

 背を向けて逃げ出したとしても、さほど責められもしなかっただろう。

 それでも、自分自身にだけは言い訳出来ないことを知っていたから。

 背を向け、逃げてしまえば、決して自分自身を許すことなど出来ないと知っていたから。

 このまま命が尽きるとしても、自分自身に恥じぬ行いを成し切ったと思える。

 ただ、惜しむらくは自分に力がなかったこと。

 あと数年時があれば、備える時間があれば。

 でもそれは、考えても仕方のないことだ。

 過ぎた時を、誰も巻き戻すことは出来はしないのだから。

 だからこそ、今を我らは尊ぶことが出来るのだから。


「きっと、泣くだろうな。……私のリラ」


 何気なく、手を伸ばす。

 その手を、青い衣をまとった手が、グッと引く。


「こんの、馬鹿弟子が!」


 歪められ、怒りに朱を帯びた顔が迫る。

 よく見れば病的に青白い肌に、落ちくぼんだ眼の下には黒々とした隈が貼り付き、頬から顎にかけては無精ひげが生えている。


師父(せんせい)?」


 相当な無茶をして駆けつけて来たと分かるその姿に、もう尽きたと思っていた気力が戻って来る。


「……幻じゃなくて、本物ですか?」


「これが幻であってたまるか!……私を、殺す気ですか? こちらでもようやく闇の爪痕を消し切ったところへ、スラーイイが駆け込んで来て主様の命運が尽き掛けていると、この世の終わりのように大音量で泣き叫ぶものですから、うっかりあの者を消し飛ばさなかった私を褒めていただきたいものですよ!」


 エオルは、全力でぼやき始めるメルカルトに、感動した気分が急速に醒めるのを感じた。

 何と言うか、自分の周囲にいる大人たちは人の顔を見るなり、言いたいことを言い始める人間たちばかりだと思う。

 これだけ切羽詰まった状況なのだから、もうちょっと何か情緒があっても良いのではないかと思うのは間違っているのだろうか。


「ああ、本物ですね。良かった」


 大人ぶってわざと突き放した言い方をするエオルに、メルカルトも表情を改める。


「もう、大丈夫ですよ。ひとりで、よく頑張りましたね」


「……はい」


 ひとりなんかじゃなかったと、そう言おうと思ったのに、思わず零れ落ちたのは涙と肯定を意味する返事だけで。

 周りにどれだけ人がいても、頼っても大丈夫な保護者のいない状況に、ずっと張りつめていた気持ちが緩むのをエオルは感じた。


「もう、大丈夫ですから」


 そう言って抱きしめてくれる腕に、エオルはそっと身を委ねて目を閉じた。

 巌のような父に比べると細身の体躯は、それでもがっしりとした大人の骨格で、成長期の頼りない体つきのエオルをしっかりと受け止める。

 青い衣に刺繍されたふわふわと頼りなげな花弁を連ねた花の、花輪が視界に広がる。

 永遠を表す花の、花輪。

 終わりなく、巡る命。

 師の胸元を守るその意匠は、刺し手がこの世を去っても色褪せぬ願いで師の命を守り抜いたのだろう。

 花輪の意匠を好んで身に着ける男の存在を、ずっと理解できないと思っていたけれど。

 それがこの男なりの色褪せぬ想いなのだろうと、今のエオルには理解出来る気がした。



 焼け爛れた体に、柔らかな雨のような癒しの力が満ちて来る。

 僅かに目を開けると、焼け焦げた衣を纏い、満身創痍でどちらが要治療者なのか分からないような顔色のメルカルトがいて、目元を手で覆われる。


「今は眠っていなさい。後は私が引き受けるから」


 低くささやく声に、自然と瞼が重くなる。

 チラリと見えたメルカルトの目元に僅かに光るものがあったのを、エオルは見なかったふりをして、安らいだ気持ちで目を閉じた。

 数年ぶりに見えた師は、土と火と、僅かに薬草の匂いがした。

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