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アルメリアは海の闇にたゆたう 前編

長くなったので、分けました。

後編も早めに投稿できるようにします。

 果ての見えない闇の中に水が広がっている。

 踏み締めればサラサラとした心許ない感触に、砂の上だとわかり、エオルは息を殺したまま周囲の気配を探る。

 明らかに、この空間には“主”がいる。

 意識を研ぎ澄まして探っても、その気配は遠く、小さい。

 それはあまりにも非力だ。

 すでに何かしらの害を及ぼせるような力を失っているらしい様子に、そっと安堵の息を吐く。

 誰の助力もなしに、これ以上の闘いなど今は無理だ。

 王立学院騎士専攻科ーー一般的に騎士学校と呼ばれることが多いーーに通った半年足らずで得た知識で纏めた経験から、取れる手段を検討する。

 元々精神戦は不得手だ。

 どうしても己の未熟に付け入られる。

 エオルは沈んだ瞳で大きいとは言えない己の手をじっと見つめる。

 あまりにも、非力だ。

 大切なものが砕け、掌からこぼれ落ちていく感触が甦り、胸の辺りがざわめく。

 グッと思わず掌を握りしめた。

 掴めるだろうか、この手で。

 繰り返した問いが巡り、不安が闇になり心を覆う。

 頭をひとつ振って、弱気な考えを払い落とす。

 否。掴まなければならないのだ。

 怯み退けば容赦なく奪い尽くされるならば。

 どんな苦痛を受けようと守り通してみせよう。

 及ばないならば、時を稼ぎ、見苦しく足掻いても必ず踏み越えてしまえば良い。

 私は、見失わない。

 後悔に泣いて終わらせたりなどしない。

 散っていった者たちの志を、思いを、受け継ぐと決めたのだから。

 約束は違えないから約束なのだから。

 僅かに波立つ水が足元を洗っていく。

 塩気を含んだ微風に、ここがごく浅い海辺らしいとあたりをつけて、エオルは再び息を吐いた。

 この光景を造り出した人物の心当たりはひとつ。

 想像していたような血生臭さとは無縁の、しかしある意味想像通りの生き物の気配が皆無な場に、眉を寄せる。

 命の源たる海に命の気配が絶えるなど、何の皮肉だろう。

 それはいっそ分かりやすいほど、寂しい光景だった。

 間違ってもエオルには、彼の人を寂しいと表現することなど出来そうになかったが。


「さて。どうしたものかな」


 気をまぎらわせるために発した言葉が殊の外虚ろに響いて、足元を不確かにさせる。

 とりあえずは、いずれにしてもこの空間の主を探さねばと、エオルは歩き出した。



 それはあっけなく見つかった。

 足を踏み入れた者は自然とそこに導かれるようになっているのかもしれない。


「っ……」


 それを目にしたエオルは、言葉を失った。

 足元の水が赤黒く変わった辺りから、覚悟はしていた。

 どことなく、自分の印象は間違っていなかったという安堵感すらあった。

 しかし、目の前の光景はなんだろう。

 これは、何だと言うのだろう。


「何を、している?」


 理解したくなかった。

 目の前にいる、かつては贅を尽くした豪奢な衣装だったと思われる襤褸布を纏った痩せ細った男が自分自身を切り刻む意味など。

 問い掛けに返される言葉の意味など。

 死にたいと繰り返し泣き叫ぶ亡霊に、出来ることなどたかが知れていた。

 放っておいても、この場はさほど長く保たないだろう。

 亡霊として存在できるだけの執念すら失って、跡形もなく消え去るだろう。

 ただの残骸には、いかほどの力もないのだから。

 見るに堪えない光景に目を背け、それに気づいた。

 ポツンと転がった見知らぬ女の頭が、涙を流している。

 半端に断ち切られた波打つ黒髪が、水に揺らめいている。

 死に絶えた世界の中で、この場の主よりもよほど生きているそれを、拾い上げる。


「貴女は、誰だ?」


 覗き込んだ瞳は深い森の緑。そこに宿る哀しみに、確かな意思を感じる。


「わたしを、彼の下へ」


 掠れた微かな声が懇願するのに従い、亡霊に向き直る。

 女の頭を目にした途端亡霊の姿が変貌し、触れた瞬間、場の様子が塗り変わる。

 装飾の少ないペレジャの服を身に纏った弱々しい印象の青年が、女の頭を抱いて泣きじゃくっている。

 辺りはどこかの刑場を思わせる、砂礫に覆われた草ひとつ生えない荒れ地のようだ。

 エオルはその光景を、心の底から嫌悪した。

 可哀想?

 哀れ?

 痛ましい?

 エオルは心の中で怒りが炎になって吹き上がるのを感じた。

 実際に身体中から炎が燃え上がり、地面を焦がす。

 自らに力がないから、守りたいものを力が及ばず失ったから、彼も被害者なのだから赦してやらなければならないと言う者がいたなら、この胸の奥で消えることのない苦しみと同じ苦しみに焼き尽くされてしまえば良い。

 そんなものは、自分自身は欠けることのない平安を享受し、失う可能性に怯えることすら知らない人間が、偽善に酔うために口にする言葉だ。

 この男は、紛うことなき仇だ。

 その手で罪のない者を殺戮した殺人者で、紛うことなき悪だ。 

 他の誰かにとって別の存在だったとしても、エオルにとってはそれが事実だった。

 同情される理由があれば、何でも、何をしても許される法などないのだ。

 慈悲深さなど、赦しなど、他の誰かにくれてもらうが良い。


「死にたいのなら、生身を切り刻めば良かったのだ。いくらこの場でその身を切り刻んだところで、精神に異常を来してせいぜい狂っていくだけだろう?」


 心を切り刻んだところで、人は死なない。

 仮に衰弱していくとしても、それなりの時を要するだろう。

 復讐を果たした上で死を選ぶなら、それには相当な胆力がいる。

 発作的に命を棄てるなら、強い衝動と少しの巡り合わせがあれば可能だろうが。

 どちらも選ばず、無関係の他者を大量に巻き込んでなお身勝手を押し付ける存在に、エオルは激しい怒りのままに吼えた。


「お前など滅んでしまえ! 魂のひと欠片すら残さず滅びるがいい!!」


 斬りかかるエオルの刃が、大剣に弾かれる。

 黒々と輝く刃に映り込む歪んだ己の顔を見、刃を呆然と辿り更にそれを握る武骨な手を辿る。


『痴れ者が。我が法に於いて、私刑は禁じておるものを何とする!』


『父上』


 軽々と大剣を取り回し一喝するその顔は、怒れる王というよりも、幼い子を叱る親の顔をしている。


『他者を怒りで裁いてはならん。政とは、冷えた頭と熱き心で為すものだ。この、未熟者が』


 こんな風に叱られる時を持てるなど、思いもしなかった。

 掠れた声は返事にならずに喉の奥で消える。


『これは我が残務なり』


 名残を惜しむ気持ちというものを、エオルは初めて向き合うもののようにじっと噛み締めて、王たちの残夢を見た。

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