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アンモビウムは異郷の地に舞う 後編

 それは、息をすることさえも忘れる光景だった。

 粘りつく闇を、紅蓮の炎が舐め尽くしていく。

 凄惨で、鮮烈で、この世のものとも思えぬ光景。

 そう。地獄そのもののような。

 空気が軋むような、声なき叫びが視界を揺らす。

 その叫びを押し返し、焼き尽くさんと、エオルは炎に渾身の力を注ぎ続けた。

 御しきれない力がエオル自身にも跳ね返り、身の内を上がり続ける熱に炙られる。

 それでも、その苦痛にさえ縋り付いて尽きていく力を振り絞る。

 今押し負ければ、ここで退けば次はない。その場で限界以上に力を使い切ったエオルは意識を失い、闇の糧となるだろう。本能に近い、感覚的なもので分かった。

 だけど、苦しい。

 霞む目をこじ開けて前を見据える。

 吹き出す汗が、絶え間なく頬を涙のように濡らして伝い落ちる。

 熱いのに、背を冷気が這い上ってくるような不快感に震える。

 気を抜けば、崩れ落ちそうな足元を必死に踏み締める。

 ほんの瞬きほどの時間が、延々と引き伸ばされていくようだった。

 ふと、根こそぎ搾り尽くされる負荷が軽くなる。

 闇雲に暴れ回っていた炎が、意思を持つように闇の塊だけを包み込んでいく。

 壊し、奪うことしかできない力でも、使い方次第だと笑っていた豪快で大らかな声が、蘇る。

 肩を支える手の大きさに、泣きたくなった。


『しっかりしろ、アハサ。制御を手放したら、みんな焼けちまうぞ』


 ニヤリと笑うその気配はあまりにも鮮明なのに、存在は限りなく希薄だ。

 残像のような名残でしかない存在に、永遠のような一瞬の中で全力で背を押される。


「リオネル兄上」


『ああ。やっと呼んだな。ーーずっと居たんだぞ』


 その名を呼んだ途端、懐に抱いた陽の光を映した大粒の石が粉々に砕けて、封じられた力がエオルに流れ込む。

 存在の全てを使い尽くして、支えられる。

 その重みの全てが、背に、肩に掛かった気がした。

 溢れる感情は、言葉にできなかった。

 だから託された力をありったけ注ぎ込んで、押し込む。


『そうだ。それで良い』


 満足そうな声が響いた瞬間、闇の核を、勢い良く燃やし尽くす。

 どこからか吹いてきた清廉な風に誘われるように、炎が闇を舐める傍から光が花開いていく。

 小さな貝殻を幾重にも重ねたような丸い白い花が、炎が巻き起こす風に揺れてシャラシャラと音を立てる。

 本物の、貝細工のように。

 淡い燐光を纏った花は、透けるような白。

 その中心で、その娘は淡い笑みを浮かべているようだった。

 その表情は、まるでそこがどんな場であるのかを感じさせない、穏やかで安らいだ笑みだった。

 元は複雑に結われていた豊かな髪が、解けて舞い上がる。

 炎を映して煌く髪は、夕映のごとき赤金。

 高く掲げられた腕が緩やかに下され、純白の衣が翻る。

 捧げられる願いは、浄化と安寧。

 命と存在の全てを賭けて願う祈りが、腕のひと振りごとに、足のひと運びごとに紡がれていく。

 儀式を舞い遂げられだけの技量と訓練を積んだ舞姫だけが、舞い切ることを許された奉納舞に、誰もが息も出来ずに見入る。

 本来なら相応の奉納曲がつく奉納舞を、寸分のずれもぶれもなく舞い手の技量だけで複雑な術式が編まれていく。

 いつの間にか炎が消え、舞い手の動きを追うように高く笛の音が空気を震わせる。

 編まれる術式の複雑さが、ぐっと増す。

 違う種類の笛の音が増え、更に太鼓が加わる。

 闇の呪縛から逃れた術者の数だけ複雑さが増した術式の中心で、全ての力をその身に受けて舞い手が舞う。

 一世一代の術式を編む。

 そのためだけに生まれ落ちたかのように、高揚に頬を染めて喜びに輝く瞳の先に目を遣り、エオルは目を潤ませた。

 それは在りし日の光景。

 稀代の舞姫とそれを命に代えて守り抜いた無骨な男の愛の物語の果て。


『ファリィ』


 舞い姫が伸ばした手に、男の腰から抜き放たれた剣が意志を持つかのように飛び、奉納舞の速度が上がる。

 祝福を祈る舞から、呪いを断ち切る剣舞へ。

 群衆が、手を叩き、足を踏み鳴らす。

 宙を跳んで陣に飛び込んだ男が、もう一本の剣を手に、舞い始める。

 剣を打ち合わせ、切り結び、クルクルと立ち位置が変わる早い立ち回りの舞を、ピタリと息を合わせて狂いなく舞う。

 互いが互いの半身であるかのように。

 注がれる熱気が、流れ込む力が、眩い輝きを陣に与える。

 パリンと、微かな音が術式の完成だった。

 二振りの剣が、躊躇なく渾身の力で互いを貫いていた。

 仮初の姿からは、血は流れない。

 剣は音を立てて地を転がり、白い光に紛れて消え失せる。

 地に膝をつき、互いに抱き合う舞い手の姿も、咲き乱れる純白の花が風に散っていくのに伴って消え始める。

 演奏を行なった者も、声援を送った者たちも、誰もいない。

 術は成った。

 皆、浄化されて大いなる輪の中に還ったのだろう。

 だから、もう。


『共に逝こう。……遅くなってすまない』


『よろしいのですよ。約束どおり、ですから』


 ささやき交わすその声が聞き取れるほど近く、エオルは歩み寄って2人をじっと見つめる。

 本当ならば、誓い合うのは未来だった。

 纏うはずだったのは色とりどりの刺繍が施された婚礼衣装で。

 この悲しみに、胸を占める痛みに与えられる名前をエオルは持たない。

 失われたものは還らない。

 奪われたものは戻らない。

 時は決して巻き戻らない。

 だからこそ我らは、その尊さを胸に刻むべきだ。


『わたしの王子様』


 柔らかな声で、舞姫はエオルを呼ぶ。

 眩しいものを見るように、目を細めて。

 そこに確かに込められた家族の深い情に、その温もりに、涙があふれる。


「リル義姉上」


 彼女はいつでも愛しげにエオルのことをそう呼び、リオネルは不貞腐れたふりをしては笑い合っていた。


『おい、俺だって一応は王子なんだぞ』


 咎めるその声音さえも、ここに留める方法があるなら何だってしたいと、エオルは繰り返し願う。

 永遠に引き延ばしたいと願うその時ほど、容赦なく過ぎ去る。

 いつもはただ微笑むだけだったファリルアーナが、リオネルの頬をするりと撫でて応える。


『仕方のない方ね。でも、貴方はわたくしの旦那様なのですから。ね?』


 その仕草に、頬を染めるファリルアーナの表情に、その手を取りそっと口付けるリオネルの眼差しの柔らかさに父と母の姿が重なる。

 ああ、そうかと、エオルは思った。

 わずかでも、願いが叶ったのなら。それもまた幸いなのだろうと。

 今はまだ、痛みは去らないけれど。

 この光景を、きっと忘れずにいようと思った。


『わたしの王子様ーーいいえ、()()。貴方はわたしの希望、わたしの命、わたしの誇り。貴方は天に輝く陽。どうか、遺された愛しき者たちを護り、導いてくださいませ』


『アハサ。後は任せた』


 シャラシャラと音を立てて白い貝殻のような花びらが風に舞い上がり消えていく。

 緩やかに、深々と一礼した2人の姿も、風に舞い上がる。

 空へ、空へと。

 永遠に色褪せない願いと、誓いを残して。

 エオルは闇を祓い、昇り来る太陽を見た。

 闇の帳を払った空は、目に沁みるほどの青で。

 声もなく、その色に立ち尽くしていた。

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