アンモビウムは異郷の地に舞う 前編
砂がちな荒野の上に、闇が蠢いている。
それは半ば人の形を残し、半ば粘りつく闇に絡め取られ、怨念と怨嗟に染まりきっていた。
「何という……」
思わず呟いたのは誰の声だろうか。
誰もが込み上げる嫌悪と生理的な恐怖に言葉を失った。
圧倒的な死が、そこには形を持って存在していた。
手に、背筋に、額に、じっとりと嫌な汗が滲んで来る。
それは命全てを吸い尽くす呪いだった。
そして、呪いでありながら、人としての名残を残していた。
「……誰も出てはならぬ」
呻くような声で命じるソスランの声に、絡みつく呪縛が解ける。
「触れれば、命を失うぞ。あれは、そういうものだ」
「私が知る頃よりも、更に禍禍しい気配が強まっています。どれほどの命を吸ったのか」
流れ落ちる汗を拭いながら、エオルが震える声で応じる。
その言葉が、途切れて消える。
飲み下しきれない無念さに、エオルはきつく拳を握り締めた。
「……それほどに、何を憎むというのか。我らの何を、それほどまでに」
言わずにはいられなかった。あの日から耳の奥で響いて止まない言葉を。
ささやかで幸福な日々、善良な人々、穏やかに移ろう季節。
全てを一方的に踏みにじり、奪っていったペレジャの軍勢とそれを率いる昏い瞳をした王。
忘れることの出来ない痛みが、胸を焼く。
今もまだ、耳の奥で響いている。血を吐くような、悲痛な叫びが。
刻み込まれた傷は、まだ癒えることなく深い闇の底から腕を伸ばして呪いの内に絡め取ろうとしてくる。
その感触を振り払うために、エオルは頭を振る。
エオルの様子に、ソスランは周囲を見渡す。動揺を抑えきれない様子で、精鋭揃いのはずの騎士たちがざわめきを隠せずにいる。
状況は、悪い。むしろ最悪だ。
筆頭護衛騎士のグラディオルと目が合い、頷き交わすと、ソスランはエオルと並んでいた馬を半馬身分前に進めた。
すれ違いながら、エオルにそっとささやく。
「それは考えても、答えなど出ぬだろうよ。この場で成すべきは、あれを打ち滅ぼすことのみ。この背に負う命を、これ以上損なわせないことのみだ」
すべきことなど、最初から分かり切っている。
心が定まった様子で、ソスランの背がスッと伸びる。
エオルはその伸ばされた背を見つめながら不意に、退くことも、折れることも自分自身に許さない覚悟が、その肩をずっしりと押さえているようだと思った。
しかしその恐ろしいほどの重みが、不安定に揺れていた場を、ソスランという存在を重しにするようにして安定させる。
エオルはその背に、王者の風格を見た。
彼は、振り返らない。
前を行く者が斃れても、背を守る者が脱落してもまっすぐに前を向き続ける。その覚悟を感じ取った騎士たちが無言で盾を構え、術師が障壁を展開する。
「覚悟せよ、我が忠実なる騎士たちよ。この剣は!」
「我が民のために!!」
「この盾は!」
「我が民のために!!」
打ち鳴らされる鎧が心を昂らせ、揃えられた声に熱がこもる。
「我らは楽土の守り手たらん!」
「応! 応! 応!!」
「抜剣! 術式展開!」
ザッと、一斉に剣を抜き放ち、ソスランは蠢く闇を見据えたまま小声の早口でエオルに指示を出す。
「エオル殿。我らはこの後初手で浄化を放つ。その前に、障壁ギリギリに浄化の炎を壁のように展開出来るか? こちらに被害を出さないために、余波を防げる程度の出力で頼みたい」
キリリと引き締められた横顔を、汗が伝う。
空気が震える。
力が、引き絞られ高まっていく。
まさに、号令を掛けようとソスランが口を開いた瞬間。
「光よ冷厳たる雨となりて、同胞を捕らえし闇の縛を清め祓いたまえ!」
幼い声が、その緊張を裂く。
ソスランが展開していた以上の大規模術式に、場に収束しつつあった力を根こそぎ奪われて何名かの騎士たちがその場に崩れ落ちる。
同時に、視界一杯に白い光が弾けて色という色を洗い流す。
「うっ! 光の大規模浄化だと?!」
思わずマントをかざして光から顔を庇ったソスランの横をすり抜けて、エオルが馬の背を蹴って跳ぶ。
その目は光の中心を見据え、力の限り差し伸べられた指先が光の中に吸い込まれる。
フッと吹き消されるように消えた光の中から人影がこぼれ落ちて、2つに分かれる。そのうちの小さい影をエオルが受け止めて、着地すると同時にその存在を確かめるように強く抱きしめた。
大きな方の人影は自力で着地して、そのまま立ち上がる。
くすんだ色合いの外套から、ほつれた黒髪が風に吹かれて舞う。
「ファルファラ!」
後方から駆けつけてきた術師が、勢いのままに立ち上がった人を抱き寄せる。
「ハイル様……」
フラリと力を失った体をそのまま抱き上げて、足早に後方へと下がる。
その様子を見届けて、未だ着地したままの姿勢でうずくまるエオルに、ソスランは視線を向けた。
「エオル殿?」
様子のおかしいエオルに、ソスランは近づこうとして動きを止める。
「アレは、どうやら私が討ち果たすべきモノのようです」
そっと抱え込んでいたミランダの体を大地に横たえてユラリと立ち上がったエオルの腕が、小刻みに震えていることに気づいて、ソスランは思わず吐き出そうとした息を詰めた。
「リラが闇の一部を祓ってくれたことで、ようやく感じられました。……あの闇の中心には、私の一族に名を連ねる者の力の残滓を感じる。恐らく、封じきれずに……。だから、アレは私に引き寄せられて来たのでしょう。だから、だから」
俯いていた顔を上げて、エオルは前を見据える。
その頬を伝う涙を拭いもせずに、小さく呟く声をソスランは言葉を挟むことすら出来ずに聴いていた。
「この痛みを、苦痛を、私が断たなければ。そうでしょう?」
あふれる涙を、燃え上がる炎が消し飛ばす。
「リル義姉上。……今、終わらせます」
腰から抜き放った剣に紅蓮の炎を纏わせて、エオルが跳ぶ。
その姿が、一際濃い闇の中心に吸い寄せられるかのように見えた。
その瞬間。
ソスランは確かに、エオルを迎え入れるかのように手を差し伸べる少女の姿を見た。




