月の照る夜は君影草を添えて
「リラと私がまだ子どもと呼べるような年齢のうちに出会えて、良かった」
夜の庭園やそれを照らす星明かりに目を輝かせるミランダの手をやや強引に引き、回廊を抜けて最短距離で人払いをされた居室にたどり着いたエオルは、名残惜しそうに美しい景色を振り返るミランダを部屋の中に押し込み、やや乱暴な仕草で扉を閉める。
子どもの力で重厚な作りの木の扉を閉めたせいか、それとも力を調節し損ねたのか、思って以上に重々しい音が背後で響いて、ミランダはエオルを振り返った。
さっきまで至って普通そうにしていたエオルの俯いた頭から、帽子がポロリと落ちて絨毯の上を転がっていく。
それを追いかけようとしたミランダは、背後から素早く伸びた腕に拘束されて驚きに息を詰めた。
「今夜の私には、リラが多分必要だから。リラがいなければ、きっと今夜の私は眠れないほどの痛みに声を殺して泣き、私を探して騒めく闇に怯えて震えなければならなかったでしょう」
「どこかまだ、傷が!?」
エオルの言葉に、弾かれたようにエオルの腕を解かせてその体にペタペタと触れるミランダの慌てた様子に、エオルはもう一度やんわりとした仕草でミランダを抱きしめ直す。
「体に付いた傷は、リラが全部癒してくれたのでもうどこにもありません。でも……」
すり寄せられた癖の強い黒い髪から仄かに石鹸と香油の香りがする。
首筋に顔を埋めるようにして抱きついて来るエオルの体の強張りがゆっくりと解けていくのを、そっとその背に手を添えたままミランダは感じていた。
じわりと、温かなものが染み込んで来る。
静かに声を立てず、エオルが泣いていることにミランダは気付き、胸が痛くなった。
「皆居なくなってしまった。父上も、母上も、ハンダも」
「ハンダ?」
「私の妹で、ハンダ=トゥルバ=カル・アケルナル。今も生きていれば、リラと同じぐらいだと思う。リラは今幾つ?」
「わたしはもうじき、来月には6歳になります」
「じゃあ、ハンダの方がひとつ下だね。ちなみに私は秋には10歳になるから、リラとは大体3つ違いなんだね」
小さく笑いを漏らし、落ち着いた口調、落ち着いた速度で話すエオルの声が、沈んでいる。
それはいつか父が旅立って行った後の母の姿に似ていて、ミランダは何も言わずにミランダを抱きしめてその髪をなで続けた母のことを思う。
あの時母は、何と言って微笑んだのだっただろうか。
ミランダはそっとエオルの手を外し、エオルと向き合う。
ミランダの動きで上げられたエオルの頭にそっと手を伸ばし、癖の強い黒髪をゆっくりとなでる。
「こうしていると、痛みも悲しみもどこかへ行ってしまうんですよ」
「うん、うん」
頰についた涙を乱暴に拭って、エオルは何度も頷く。
「子どもが泣くのは恥ずかしいことじゃないって父さまと母さまが言ってました。だから今のうちに、ちゃんと泣いておきなさいって」
「それでもあまりリラに涙を見られるのは何というか……恥ずかしい。不甲斐ない自分が」
「じゃあ、見ないようにします」
エオルの頭からパッと手を離して自分の目を手のひらで覆って目隠しをしたミランダに、エオルは笑い出す。
「それでもきっと分かってしまうね。きっと私が泣いたら、リラには分かってしまう」
笑いを収めたエオルが、切なげに顔を歪める。
「ハンダもそういう子だった。……妹は、私の不注意で私を庇って死んだ。私に向けられた呪詛を受けて殺された。ハンダは、妹は」
「待って」
エオルの言葉を直感的に遮って、ミランダは自分の行動に驚き、続きの言葉を探しながら瞬きを繰り返した。
「よく分かりませんが、それ以上言葉にしてはいけない気がします」
少しの間の後、おずおずと告げられた言葉にエオルが目を丸くする。
そしてクシャリと、泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「そう、ですね。私は自分自身でこの身を呪ってしまうところだったようです。そんなことは、ハンダも望まない。分かっていても、苦しい。痛いほど、悲しい。心が、心の中で叫ぶ私がいる。後もう少し力があれば、私に何か成せるほどの力があれば。目の前で、私の周りで、大切なものが倒れ欠けていくのを何も出来ずに見送ることもなかったのではないかと、心が痛いほど叫んでいるんです。考えても考えても、答えなど出ない。それが悲しくて辛くて、やりきれない。私は、私は……」
言葉を重ねるうちに、エオルは前髪をくしゃくしゃにし、顔を覆い、そして耐えきれないという様子で歯を食いしばって泣き出した。
ミランダは掛ける言葉を見つけられずに、黙ってその背をなでる。
きっと今まで誰にも言えなかったのだろう。
あふれ出して来るエオルの感情は、深い闇の気配がした。
「アハサ様」
ミランダの呼び掛けに、弾かれたようにエオルが顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔に、ハンカチを押し当てる。
誰かが泣いていると案外冷静になるものなんだと、ミランダはそう思った。
「わたしも母さまを亡くしたばかりです。でも、泣かないって決めたんです。わたしが泣いていたら、母さまが安心できません。だからわたしは、泣かないんです」
「そう……ですね。私がいつまでも女々しく泣いていたら、ハンダに叱られてしまいそうです」
グッと涙を拭って、エオルは無理矢理笑顔を浮かべる。
その笑顔はまだどこか苦しそうで、それでもミランダはエオルに纏わりついていた闇が晴れていくのを感じた。
「私の命は、両親に、兄に、妹に、そして私を守って死んでいった者たち全てに生かしてもらった命。大切に使わなければ罰が当たってしまいますね」
「はい!」
エオルは決意を秘めた酷く大人びた眼差しを遠くに投げる。
「いずれスラーイイに帰ったなら、ハンダの墓陵に鈴蘭を植えてやりたいと思っているんです。あの花を、ハンダは殊の外好んでいましたから」
「春が来たら、きっととても綺麗ですね」
「ええ。きっと、それは新しい幸福となる光景でしょう。人々が憩えるような庭園を設えて……」
そっと思いを噛みしめるように静かに語るエオルが、不意に言葉を切る。
『良かった。もう大丈夫ね、アハサ兄さま』
鈴を転がすような少女の笑い声が、窓から差し込む月光を纏って駆け抜けていく。
「ハンダ!」
『サフィラお姉さま、アハサ兄さまをよろしくね。とても優しい、自慢の兄さまなの。ちょっとだけ泣き虫な、優しい優しい兄さま』
月光を纏って、少女の形をした光が揺らぐ。
『大好きよ、兄さま。ハンダは先にみんなのところに行くね』
弾んだ明るい声を残して、気配がフッと消える。
光が揺らめいていた窓辺に歩み寄ったエオルが、その場に跪く。
『そうか。呪いから解放されたんだね』
月光を受けてキラキラと輝く蜂蜜色の小さな石の欠片を拾い上げて、強く握り込む。
『良かった、ハンダ。ゆっくりお休み。……ありがとう。私の大切な妹』
万感の思いを込めたエオルの呟きに、一陣の風が吹く。
それは優しい月光の気配を含んで、笑いさざめく声をのせていく。
レースのカーテンを揺らして吹き過ぎて行った風を見送って、ミランダは小さく囁く。
「きっと幸せになりますから。2人で」
エオルの掌の中に残された石からは、微かな光の力の名残が感じられて。
でも、解き放たれた力は闇を拭い確かな幸福の芽を残してゆっくりと解けていく。
後には柔らかな月光を弾く、蜂蜜色の石だけがそっと残されていた。




