ベルフラワーを一揃い
「あー。これは思った以上に酷いですね」
本来の道筋で部屋まで戻り、扉を開けて部屋を覗き込んだミランダは困って眉を下げた。
ガラスや陶器など、脆い素材で出来たものがかなりの数、砕け割れて散乱している上に、外れかけた絵やら、倒れた本棚から落ちた本やら足の踏み場もない状況にどこから手をつけたものか迷って視線を彷徨わせる。
『確かに酷いのですが、兄上たちが喧嘩した時はこの比ではありませんでしたから、ある程度までは修復出来そうですけどね』
慣れているから大丈夫だと、遠い目をして呟いたエオルにミランダは苦笑する。
ただ、何気なく呟かれた〝兄上たち〟という言葉に、その人たちがもうこの世にいない可能性に思い至って、ミランダは思わずエオルの表情を伺った。
何の含みもなさそうな平静な表情に、考え過ぎかと内心首を傾げながらミランダはエオルの視線をたどり、その先に埃や破片にまみれて完全に残骸と化したサンドイッチを見つけて呻いた。
『サンドイッチをほとんど食べられなかったのは、返す返すも残念でした』
明らかに落ち込んだ様子のミランダに、慰めるように背を軽く叩きながら同意するように何度も頷くエオルに、ミランダは笑みを浮かべる。
優しい感触に、ほんのりと胸が温もるのを感じる。
「また材料さえ揃えばいつでも作れますので、またエオル様と一緒に食べたいです。マノリア様にドレッシングの材料を伺っておかないと」
『……また作ってくれるんですか? サンドイッチを、私のために』
「はい。まだナイフは上手く扱えないので、わたしが作れるのはサンドイッチぐらいですけど、今度マノリア様にスープの作り方も教えていただこうと思っているので、上手に出来たら味見をしていただけますか?」
おずおずと上目遣いでエオルに訊けば、エオルはこの上もなく嬉しそうに破顔した。
ミランダの手を取って、キュッと握り込む。
『心して、味わわないといけませんね。楽しみですが、ナイフの扱いにはくれぐれも注意してください』
無意識なのか、意識しているのかはよく分からないが、エオルはミランダの手の感触を確かめるように握り込んだ手で撫で摩る。
『柔らかい手だ。私は剣を握るので、剣ダコだらけで感触が悪いと妹には不評だった。頬に触れるといつも、兄上の手はザラザラして痛いと怒られたものです』
エオルは何かを噛みしめるように、唇を噛みしめて目を閉じる。
ミランダが声を掛けるよりも早く、何かを振り切るように目を開けたエオルはミランダをしっかりと見つめて微笑みを浮かべる。
『さあ、人が来る前に片付けてしまいましょう』
「そうですね」
微笑むエオルは明らかに無理をしていると分かったけれど、王子との会食を断ることが出来ない以上、今はそれに触れるべきではないとミランダは気持ちを切り替える。
まだ握られたままだった手に力を入れて、握り返す。
「食事の後に、お話しをしてください。エオル様のこと、わたしのこと、色々話したいのですが、いかがですか?」
『はい。色々、話しましょう』
本当に、あなたという人は。そうエオルが小さく呟いて、涙を堪えるように顔を歪める。
ミランダはおどけて袖をまくる仕草をしながら、足を踏み出した。
「お片付け、腕が鳴りますね!」
エオルは無邪気に笑うミランダに、眩しいものを見るように目を細めた。
くしゃくしゃでドロドロで埃まみれのミランダとエオルを発見した愛し子たちが叫び、慌て、風呂に2人纏めて入れてしまおうとしてエオルの渾身の抵抗に遭ったり、それを尻目にさっさとミランダがお風呂に入ったり、見兼ねたミランダが無防備に扉を開けたせいで阿鼻叫喚に拍車が掛かったりするまで、あと半刻ばかり必要とする。
「髪がまだ半乾きだけど、このまま結ってしまうわね。サラサラで良い髪だけど、扱い大変でしょう?」
薄い金の髪を複雑に編み込み、ごく薄い灰色の瞳をすがめて真剣にミランダの髪をいじっていた純白の簡素な衣をまとった愛し子が、納得した様子でひとつ頷く。
10代半ばぐらいの朗らかな笑みを浮かべたヴィオレッタ〝お姉さん〟が、鏡台の鏡越しに微笑み掛けて来る。
愛し子の生活には侍女が存在せず、身の回りを整えるのまで自分たちで助け合ってこなす。
それが権力と切り離された純粋な〝力〟を持つ者たちの集団である館の昔からの在り方だ。
自分たちのことは自分たちで。
だから自然と、指先の器用なものは髪結いや針仕事を請け負うことが出て来る。
「今までは母さまが結ってくれていたのですが、これからは、自分でしないとですね」
「そうね。私たちも、いつも支度を手伝ってあげられるとは限らないし。あ、今日みたいな特別な日は別よ?」
いたずらっぽく微笑むと、ヴィオレッタは鏡台の端に置いてあった雪花が彫り込まれ、螺鈿を施された木彫りの小物入れを手に取った。
小物入れだけでも優美な品だが、その中に何が入っているのか知りたくて、ミランダはそわそわする。
「耳飾りと、首飾りと、髪飾り一揃い。マノリア様からの贈り物です。楽しんでらっしゃい、って仰ってましたよ」
「わぁ、可愛い。ありがとうございます! マノリア様にも、後ほどお礼に伺うとお伝えください」
歓声を上げて喜ぶミランダから小物入れを受け取ると、ヴィオレッタはベルフラワーのガラス細工を房のように下がるようデザインした髪飾りを手に取り、編み込んでハーフアップにした髪にそっと刺す。
イヤリングとネックレスは、小さな花が一粒だけついているごく控えめな品で、まだ幼いミランダの負担にならぬよう、でもその可愛らしさを存分に引き立てるよう配慮された品だった。
その分、房のように髪飾りにつけられたベルフラワーは、動くたびに揺れてミランダの耳元でチャラチャラと軽やかな音を響かせた。
「さあ、立って一回りして見せて。……うん、完璧ね」
ごく薄い青のドレスの裾がふわりと舞う。オーガンジーを幾重にも重ねて作られたスカートは、光を含んでミランダの姿を灯りで照らされた室内に仄白く浮かび上がらせる。
ハイウエストの位置に結ばれたサッシュは光沢のあるサテン地のロイヤルブルー。後ろで大振りなリボンになり、両端は長めに垂らされてふわふわとミランダの動きに合わせて揺れている。
着崩れしにくいシンプルなカットのデコルテに、胸元は少しギャザーを寄せて光の波を集める。
ベルの形に膨らませた袖、指先には、海の泡を集めたような短い白レースの手袋。
仕上げに淡いピンクの口紅をさして、ヴィオレッタは満足そうに頷いた。
「どこから見ても、完璧な淑女よ。我ながら良い出来栄えだわ」
「これが、わたし?」
目の前の鏡を覗き込んで呆然と呟くミランダに、ヴィオレッタが笑みを深める。
「さて、お姫様のエスコートは王子様にお願いしないとね。ファル! そっちはどう?」
扉を開けて主室を覗き込んだヴィオレッタは、エオルの支度を手伝っていたファルファラに声を掛ける。
「こっちはもう終わっているわ」
おっとりと答えたファルファラが扉を開ける。こちらも純白の衣に身を包んでいるのは同じだが、緩やかに波打つ黒髪をシンプルに結い上げ、伏し目がちな深い青の瞳は長い睫毛に縁取られていかにもしっとりした印象の美少女だ。
あと数年もすれば引く手数多と思われるが、既に決まった相手がいることを示す家紋入りの銀の腕輪を左手にしている。
あと数ヶ月もすれば嫁入りだというのは、支度をしながらヴィオレッタが話してくれた最新情報だ。
そんなファルファラの背後から遠慮がちに姿を見せたエオルに、ミランダは目を奪われた。
瑠璃紺の絹地に織り込まれた吉祥紋様の地模様に、詰襟の首回りと袖口、合わせ目を銀糸で縫い取ったその刺繍の見事さ。しっかりした布地の筒袖の長衣に、白絹のストンとしたズボン。頭には長衣と同じ布地のタッセル付きの丸い縁なし帽が乗せられていて、見事に異国の王子様だ。
そのまま物語に出てきそうだ。
「あーあー、見合っちゃって。減るわよ、主に時間がだけど」
「ヴィー」
「良いじゃない、多少茶化したって。私もお相手が欲しいわ!」
お姉さん2人の茶々ーー主にヴィオレッタの茶々に、エオルがハッと我に返ってファルファラの背後から出てミランダの手を取る。
ファルファラの背に隠れていた全身が現れて、ミランダはエオルの腰にもサッシュが巻かれていることに気がついた。
ごく薄い青のサッシュの下にベルトも締めているようで、見事な拵の短剣を吊るしてある。
『リラのドレスと同じ色ですね』
自分の腰に巻かれたサッシュを示しながら弾んだ声で嬉しそうに言うエオルから、目が逸らせない。
袖を通すだけで気後れしそうな豪華な衣装を、何の気負いもなく着こなすエオルはやはり王子様なのだとミランダは思い、ドレスを着ただけで夢見心地な自分との違いに少し胸が痛かった。
しかし、続けられたエオルの言葉に、ミランダは耳まで赤くなる。
『ああ、やはりあなたは精霊そのもののようだ。清く、眩くて光と水で出来ているのではないかと私は思わず触れずにはいられませんでした』
気負いなく零れ落ちてくるミランダに対する賛美の言葉に、ミランダは応える言葉が見つからずに視線を彷徨わせる。
「エオル様も、そのお衣装、誂えたようにお似合いです」
『ええ。どうやらイレーネ義姉上が置いて行ったようなんですよ。あの人も、大雑把なのか細やかな気配りが出来るのか未だによく分からない人なんですよね』
クスクスと楽しそうに笑って、エオルはミランダの手を引く。
『ずっとこうして他愛のないことを話していたいですが、お待たせするわけにもいかにないでしょう。そろそろ、迎えが寄越されるでしょうから、行かねければいけませんね』
何を思っているのか、少し難しい表情になって憂鬱そうにため息をついたエオルは、ミランダの髪飾りに気付き、そっと触れる。
途端に憂鬱そうな表情が嘘のように、笑顔になる。
めまぐるしく変わるエオルの表情に、ミランダは目を瞬いた。
『よく似合っています。こうして見ていると、リラの花のようにも見えるのが、不思議ですね』
うっとりとミランダを見つめるエオルの瞳は甘く、その様子に2人を見守っていたファルファラは笑顔に、ヴィオレッタは渋面になる。
「どこからどう見ても糖度過多な会話よね、これ。砂吐きそう」
「ああ、ハイル様にお会いしたいわ」
どこからどう見ても小さな恋人たちにしか見えない、対の服装をしたエオルとミランダを見て、ファルファラとヴィオレッタは、それぞれ意味合いの違うため息をついた。




