マリーゴールドの咲く庭で
全てにはきっかけがあるという。
それは物語でも現実でも変わりなく、正しく事実だろう。
恋物語ならば、あるいは冒険活劇ならばそれは感動的で、華々しいフィナーレの始まりだろう。
しかし、全ての人がそういう華々しい始まりを体験するとは限らない。むしろ、そうでない人の方が多いだろう。
だからこそ物語は、あらゆる人々に熱を持って歓迎されるのだろう。
それはどうやら、方向性が悲劇性を帯びる方向であっても人々にとっては甘美であるらしい。
私は、だから人間が嫌いだ。
可哀想にとささやく人間に、必ずしも善意がある訳ではない。
むしろ悲しげに、痛ましげに作られた表情の下で自分自身の慈悲深さに酔いしれ、相手と自分を引き比べて優越感に浸る。
相手が哀れであればあるほど、そういった人間は気分が良いのだ。
今まさに親族面をして、猫なで声で年端もいかない幼子を連れ去ろうとしているケバケバしい服装の女はその類で間違いないだろう。
だから私は、人間が嫌いだ。
それはもちろん、自分自身を含めた人間全般が。
涙をこらえ、精一杯の笑みを浮かべる小さな背をそっと支える。
親族を頼ることだけは出来ない。この人たちは、息をするよりも自然に人の尊厳を奪えると、今の私は知っている。
この人たちがいなければ、あるいは母親は今でも命があったかもしれない。
もしそうであれば彼女が私に授けたシナリオに沿って、こうしてこの人たちを追い返すために気を張って渡り合うこともなかっただろう。
だから寄る辺のない子供がその人の手を取ったのは、自然な流れだったのだろうと思う。
肌を刺す悪意と敵意に、温もりを求めた子供は、天性の感の鋭さでその場でただ一人異質な空気を纏う人物を見定めたのだろう。
私の手の中からするりと抜け出していく体に、手を伸ばして、私は手を握りしめた。
私が出来ることはあまりにも少ない。
「わたくしは既に冬の館に行くことが決まっていますので、一緒に行くことは出来ません。ですが、そちらの従僕を一人、貰い受けることは出来ますか?」
母の口調を真似て、子供が精一杯の背伸びをしているように、出来る限り可愛らしくお願いをしているその口調に隠された痛切な感情。
子供に歩み寄り目の前に立ち止まった私に、それまで目を伏せ、空気に徹していた少年が思わずといった様子で視線を上げる。
豊かな大地の色の瞳に、興味深そうな光が閃く。
石のように無機質だった表情が、たったそれだけで劇的な変化を見せて、私は思わず表情を緩めた。
なるほど、この少年は良き理解者になりそうだ。
「この者が良いです」
「その者よりも、身の回りの世話を出来る侍女の方が」
「いいえ、この者が良いのです。冬の館には侍女は連れて行けませんので、この者には護衛騎士の見習いとしての養成を受けさせます」
一方的な選択の言葉に反して、少年に手を伸ばす。
緊張をはらんだ真剣な視線で、少年を見つめる。
一瞬の間の後、少年は流れるような美しい仕草で跪き、小さな手を取り額をつけると異国の言葉で小さくささやくように、誓いの言葉を紡ぐ。
『我が命、我が血、我が魂を賭して御身を守る剣となり、盾となることを誓う』
『汝に精霊の加護があらんことを』
私の中から、大きな力が引き出されるのを感じる。
少年の体が純白の輝きに包まれ、周囲に集まっていた人々からどよめきの声が上がった。
当の少年も驚きに目を見張り、引き結んだ唇を震わせる。
それは彼の母語で返ってきた祝福の言葉か、それとも小さな乙女の扱う力に対してか。
「シビュラ」
小さく呟かれたのは、神に仕える者に対する尊称。
少年の目に、涙が光る。
その光景を見守っていた人々の壁が、静かに割れる。
私も、人の動きに合わせるように愛し子の背後に立つ。
「愛し子様、お迎えに上がりました。どうぞ我らと共に冬の館にお入りください」
清らかな白の衣に銀糸の刺繍が施された式典用の同色の外套を纏い、緩やかに頭を垂れる年配の女に、私は笑みを浮かべる。
「どうぞわたくしをお連れください。既に支度は出来ております」
鮮やかな微笑みを浮かべた幼子の背を、私はそっと押す。
この小さな乙女は振り返らず、まっすぐ歩いていくだろう。
その背を守るのは、褐色の肌の少年。
私には、居なかった。
チクリと刺す感情に、私は目を伏せる。
使いの女は、私に深々と一礼して、静かに三歩下がり踵を返す。
その姿を見送り、迎えの馬車が見えなくなって私は、愛し子の去った古ぼけた小さな家を振り返る。
温かな家族の気配が名残のように残る家の庭に、マリーゴールドがまばらに咲いている。
一面に育てられていた薬草や花が失われても、この花だけは根強く生き残っている。
この庭は、私の心に似ているかもしれない。
「私には、誰もいなかった」
吹き荒れる極寒の風を纏って、私はその場を離れた。
花言葉にちなんで題名をつけているので、興味があれば調べてください。