欺と義
二回目の春を迎える頃。
春の陽気はうららかに辺りを漂い時間が進むのがゆっくりと感じられる昼下がり。
姫は、藍を呼ぶ。
空気が、動く音。
足音もなく忍びよる藍。
姫は、ゆっくりと周りを見渡して、藍に言う。
息を潜めて二人以外には聞かれないようにする。
「兄上の様子が変なのじゃ」
姫は首を傾げて、藍に問う。
「変と言いますと、どの辺でしょうか。特にお変わりになったところはないように見えますが」
記憶を思い返してその問いに応える藍。
そんな藍の答えに首を横に振り声を殺しながら言う。
「兄上はいつも堂々とした振舞をなさっておるのじゃが、ここ最近、呆けていることが多いのじゃ」
藍はしばらく考えた上に遠い目をして言う。
「春も半ばですから陽気に当てられるのも仕方がないことでしょう」
姫は自分の体を軽く抱く。
「いや、それにしてはな、わらわに工芸品を寄越してくるのじゃ。いつも、わらわを怒る理由を探しているような兄上がじゃぞ。とても気味が悪い」
眉根を寄せる藍。
「それはとても、気味が悪いですね」
顔を輝かせて藍に言う。
もはや、外に出ることに慣れたように。
「じゃからな、今日後を尾けてみようと思うのじゃ」
藍は応える。
「姫が望むならば何処へでも」
姫の兄は、ゆっくりと歩きながら屋敷を出て行った。
穏やかな空気の中、町の方へ歩いて行く。
姫と藍は距離を取りながら、後ろから慎重に追いかけていく。
姫の兄の背中はどんどんと町中に入っていき、ある店の中に入っていく。
その背中を見ながら、藍は呟く。
「こんな雑な追尾を行っていても気づかれないとは、よっぽどこの店に想いいれがあるのですね」
姫は目を細めて嬉しそうに言う。
「ここは、簪とか色々売っている店だぞ。ここで兄上は工芸品を買っていたのか」
姫と藍は、店に近付き店内の様子と声を聞くことにした。
「正雪 (しょうせつ) 殿、また来ましたね。姫様に贈る物をお求めですか」
柔らかな印象を与える浅黄色の小袖を着た女が、姫の兄――正雪に話しかけてきた。
「い、いや、今日は、その……。こちらを見せてくれるか」
どもりながらも、品物の説明を頼む正雪。
商品を手に取り、髪を揺らして嬉しそうに見せる浅黄色の人。
「ええ、こちらは、今朝がた完成したばかりの漆塗りの湯飲みです。呑みやすいように呑み口を下げるなどの工夫をして、持ちやすいように側面の起伏を緩やかに仕上げたものなんです」
店内の様子を見て口を緩めて藍に問う姫。
「どう思う。藍」
藍は同じように口を緩めながら首を傾げて答える。
「どうでしょうね。姫」
「また来てやがるのか。お前さん、姫さんを溺愛しすぎてないかい」
奥の方から勇ましい声が聴こえたので店内を見る。
姫は、その姿を見て思わず声を上げる。
「簪をくれた店主だ」
藍は、姫の髪に飾られている簪を一瞥すると再び店内を見る。
焼き物の為に竈にいる生活をしているせいか、髪が少し赤みを帯びて精悍な顔立ち肩幅が広く岩のようだった。
笑いながらそんな熊のような体格をした大男がやってきた。
二人は息を吐く。
「勇ましいのう」
「勇ましいですね」
浅黄色の人は、慌てて謝る。
「兄さんが失礼なことを……。すみません」
そんな様子に、正雪は苦笑をする。
「いえ、こやつとは小さい時からの腐れ縁ですから。お気になさらずに」
男は、腰に手を当てて胸を張る。
「おう、この野郎の鼻っ柱を喧嘩でへし折った唯一の男さ」
正雪は鼻で笑う男を見て、肩をすくめながら溜息を吐くように言う。
「父上の誘いを蹴ってこの店をしている男だ」
男は、豪胆に笑う。
「父親の家業を継ぐのが長男の役目だからな。心配していることといえば妹の貰い手が見つからないことぐらいか。お前さん、どうだ一つ」
正雪は呆れたような笑い声を漏らして男をたしなめる。
「妹の扱いが雑すぎるぞ。少しは尊重してやれ」
浅黄色の人は顔を夕焼けのように染めて慌てる。
「い、いえ、私は構いませんが……不愉快ですよね。すみません」
一際大きい笑い声を上げて嬉しそうに肩を震わす男。
「はは、これはいい。それじゃ、俺は窯の様子を見てくるぜ。ゆっくりしてな」
男は悠然とした足取りで、店の奥の方に消えていった。
本当に申し訳ない様子で正雪の前に立つ浅黄色の人。
「兄さんがとんだ失礼を。正雪殿は身分がとてもお高いのにあんな不遜な物言いをしてしまって」
正雪は、何かを悟ったような表情で語る。
声は、小さいがとても響く声だった。
「……小生は、看板が一人歩きしているようなものだ。小生には父上の後も継げぬのだから」
首を傾げる浅黄色の人。
「貴方様は、長男でしょう」
どこか泣きそうな顔をして頷く。
「そうだ。けれど、小生の目は病に冒されているのだ。年を経るごとに色を失っていく。もうほとんど色は見えない。その内に光を失うだろうと医者にも言われた。そんな男がこの国を背負えないだろう」
驚く浅黄色の人。
「そんなことは……」
「目の前で起こっていることを解決する為に、反応することさえかなわぬなら、政治の上でも大変な支障が出るだろう」
少しうつむく正雪。
「……」
「そして、姫にも負担を掛けてしまうことも辛い。小生が継げぬせいで、この国を存続する為の政治の駒になってしまう姫が、かわいそうで、代わることもできないからせめて、ここの品を買って与える事しか出来ぬ女々しい男なのだ」
目線を下げる浅黄色の人。
「……」
哀しそうに肩を竦める正雪。
「情けない話をしてしまった。すまない。今日はこの辺でお暇 (いとま) させていただく。冷やかしになってしまったが、後日先ほど見せてもらった品を買いに伺う」
姫と藍は慌てて店から離れる。
正雪が出ていこうとするその背中に声が投げつけられる。
「少なくとも、私と兄は、そんな逆境を乗り越えて、領主になることを信じております」
少し、立ち止まると顔だけ振り返る。
「……一つ、あいつによろしくの」
店から見えない位置まで移動した二人は、顔を見合わせる。
「兄上がそんな病気を患っているなんて知らなかった」
悲しそうに目を伏せる姫。
「気づかれないように注意を払っていたようですから、気づかないのも仕方ないかと」
「知っていたのか。お主は」
「はい。物を見る時に、顔をさりげなく近寄らせていたりしたことや、姫が巡った景色の感想の話題を避けていた節が見られましたから」
――ボロが出てしまうのを恐れたのでしょう。
「そうなのか」
肩をすくめながらも答える藍。
「ただ、正雪殿はそのことを他人に打ち明ける事を良しとしない性格だと思われますので、あの方をよほど信頼しているのでしょう。そして、姫を大切になさっていることも傍 (はた) から見れば誰でもわかりますよ」
姫は、うつむいて肩を震わせる。
「……」
空は、いつの間にか黒く濁っていた。
藍は、空を見上げて呟くように言う。
「雨が降りそうな天気ですね。帰りましょうか」
時はキツツキが幹を刻むように進む。空気が重く湿っている夏の初め。
姫が、屋敷の廊下を歩いていると、隅の縁側で動く影があった。
その姿は、藍であった。
藍は、何かを作っているようだった。
姫は不思議そうに近づく。
「お主は、何をしておるのじゃ」
声に振り返る藍。
作業で出た木の粉を払い落して立ちあがる。
「傘を作っているのです。もうすぐ梅雨の時期ですから」
姫は首を傾げると、傍らに置いてある傘を指さす。
「お主は、既に傘を持っているではないか」
藍は、苦笑して言う。
「これは、あなたの分ですよ。雪であろうと出掛けていった姫の為です」
バツが悪そうに笑う姫。
「あの時はすまんかったのう」
「いえ、姫が望んだことですから、お気になさらずに」
姫は、藍の傘を見てうっとりする。
「しかし、いつ見ても思うのじゃが、見事な傘じゃな。誰が作ったモノなのじゃ」
藍は、自分の傘を広げて回す。
顔は傘に向けてあり読めない。
「私です。私の母から貰った傘を元に独学で学んだものです」
「お主の母上は何者じゃ」
傘を回す腕を止めた。言葉は吐き捨てるように。
「……私を産んで消えていった。どうしようもない女です」
藍は自分の言葉の強さに驚き、ごまかすように再び傘を回し始める。
「行方は知れません。探すつもりもありませんし、ただ幼い頃に傘を渡してそれきりです」
しばらくの沈黙。そして、姫がためらうようにそれを破る。
「お主を見捨てるのなら、形見になるようなものを託さないだろう」
藍は、姫の方に向き直る。表情は、能面のように真っ白だった。
「子供だましで置いていったものだとしてもですか」
姫は、この時期では珍しく晴れている空を見上げる。
「きっとな。雨の日ぐらいは母上が居たことを思い出して欲しかったのではないだろうか」
そのまま、草履を履いて庭に躍り出る。
「わらわの母様は、わらわが世に生まれるのと引き換えに死んでいった。何も形見になるようなものはない」
着物を揺らして回る。回る。
それは、花を探してさまよう蝶のよう。
「ただ父上は、わらわの事を母様の生き写しのようだと言う。多分、私自身が皆にとっての忘れ形見になっているようでわらわは申し訳ないと思うばかりじゃ」
母は皆の人気者だったらしいと呟く姫。
傘作りの最終段階に入っていく藍。
「正雪殿を始めとして、ちゃんと大切になさっています」
「いや、それでも、不安を抱える事があるのじゃ。母様の代わりになれないのだから」
姫は、歌うように言う。
「一つ約束をしないか。わらわを信頼し、従って欲しい」
藍は、作り上げた傘を姫に差し出す。
「姫が望むならば、何処へでも」
紫陽花の花に空からの滴が落ちて伝わり、絵の具のように垂れて地面に吸い込まれていく。
姫は、傘に守られ濡れない。
梅雨が、始まる。