紙器と指揮
だいぶ感情の波が収まった少女は、先を歩いていくツユクサの人の背中を見つめる。
この道の先には、屋敷しかないことが分かるくらいには落ち着いてきた。
先ほどの出来事を思い返す。
木箱の中で聴こえた声や音では、状況が理解できない。
口を開く。気を落ち着かせるために普段通りの言葉遣いで。
「そなたは何者じゃ」
ツユクサの人は振り返らずに抑揚のない声で答える。
「人です」
見れば分かると奥歯を噛み締める少女。
「何のために助けたのじゃ」
少女を一瞥せず放り投げる言葉。
「あのままじゃ買い物ができないと思ったからです」
「それだけか」
会話を拒んでいるような受け答えに少女はくじけそうになる。
「それだけです」
しばしの無言。
情報が足りない。
少女はなおも口を開こうとする。ツユクサの人は計ったかのように声を被せる。
「しばらく黙ってください」
その沈黙は、屋敷に着くまで続いた。
奥にそびえる山に抱きしめられているような屋敷が、二人の目の前に門を開いて建っている。
中からは、何かを呼ぶ声や駆ける足音が絶えず響き渡っている。
ツユクサの人は、そのまま開いている門を通り、中に入っていく。
慌てて追いかけようとするが、肩を掴まれる。
後ろを振り返りながら気づかされる。
今日、自分の屋敷での行動を思い出す。
肩を掴んでいるのは、少女の兄だった。
顔に感情を出さないように堪えているが、口元がひきつっている。
そして、怒られる為に屋敷の中に連れて行かれる。
正座をさせられて怒られるのだろう。
憂鬱になる。
少女は手を引かれながら兄に尋ねる。
ツユクサの人の行動に疑問が浮かんだからだ。
「今日は、客人の予定はあったのでしょうか」
少女の兄は、少し考えるように黙った。
「客人の予定はないな」
それを聞き、少女は首を傾げる。
また謎が増えてしまった。
屋敷の奥に二人の人間が座っていた。
皺が深く刻み込まれた顔。血と死体の山が焼きついた暗い瞳。
けれど、それを乗り越えた者だけが作りだせる圧倒的な威圧感。
手を下さずともその場に膝を付かせてしまう迫力。
そんな雰囲気を押しつぶすように優しさで包んでいる柔和な表情。
この国を治める領主の前にツユクサの人が居た。
「そちは、今日からワシの娘の付き人になるのだが、よろしいか」
ツユクサの人は、真っ直ぐ領主の瞳を見つめて答える。
「構いません」
左手で顎鬚をこすりながら領主は茶化すように笑う。
「いかんせん、向う見ずな所があると思うでの。少し手を焼くかもしれないが」
「身に染みております」
領主は、目を細める。
「どうやら、会った事があるようだの」
ツユクサの人は領主と目線を合わせる。
「姫は、屋敷を抜け出して市場にいたようですよ」
「視察の時に確認済みじゃ」
少しの沈黙。
「市場の一件もご存じですか」
「もちろん。あの子には良い薬になっただろう」
その声からは何の感情も見えない。
「……そうですね」
「お主こそ、姫が屋敷から抜け出した頃から見ておったのだろう」
表情を変えないツユクサの人。
「お主は、此処に今朝早く訪れた。まだ遅れて来るといいながら」
領主は能面のようなツユクサの人を眺める。
「ワシは年寄りだからの。朝が早いのじゃ」
下唇をかみしめるツユクサの人。
「……お見通しでしたか」
領主は、右手に持っている扇子を少し開いたり閉じたりしながら嬉しそうに答える。
「腕は、確かのようで安心したの。姫の事を頼む前に心に留めて欲しいものがある」
扇子で口元を隠す。
「なんでしょうか」
領主は、目を細める。
「姫を信頼してお主の手でしっかりと守って欲しい。ワシらが出来るのはせめて広い屋敷に住まわせることぐらいでしかないからの」
諦念した声音。
「あの子が小さい時、ここは鳥籠だと泣いて詰 (なじ) られたのが懐かしい」
領主はツユクサの人から目を逸らし過去を振り返るように語る。
「私は、『鍵』ということですか」
「そう。あの子が絶対の安全にいるのならここに閉じ込める必要がないからの」
――何も此処に居るものが、弱いと判断しているのではない。
笑いながらも、そう付け足す領主。
「ここにいる者達は総じて優しすぎる。きっと姫を守る際に、斬り合いの余計な物を見せまいと努力して倒れてしまいそうでの。その点、そちなら一瞬で決めて姫に何も見せないだろう」
扇子が音を立てて閉じる。
「皆、こちらが守る為に血を流す所を姫に見せたくないと考えての点での」
息を吐く領主。
「つまり、姫を案ずるがあまりに、自分が倒れてしまってはその自分が『余計な物』として姫に見られるということじゃな」
眉根を寄せて苦笑する領主。
「きっと本人は無念極まりないと感じてしまっては不憫だからの。お主を呼び寄せたのじゃ」
ツユクサの人は、一息を吐く。
「その命。命を賭けて全うしましょう。御屋形様」
領主は、微笑んで右手に持っている扇子を開きながら立ち上がると、大声で叫ぶ。
「今宵は宴じゃ。とことん騒ごうぞ」
トキは鳴き、時が流れて東の国。
月が照らしてなお暗い国。
その国の中央に配されている堅牢な屋敷の廊下の上、足音を殺して歩いている男が居る。
その顔には、これから向かう先に対しての不安に駆りたてられているような悲痛な表情を汗とともに浮かべていた。
その男は、ある部屋に辿り着くと片膝を突いた。
廊下とむこうの部屋を仕切っている襖からは、くぐもった声と女の呻き声が聴こえる。
男は、震えている声を押さえながら襖の向こうに報告する。
「お休みになられているところ申し訳ありません。殿、この国から逃亡を企てた農民の一家を捕らえました。処遇いかがなさいますか」
僅かの逡巡。
障子の向こうから女の啜り泣く声と何かを押し殺すような物音の後に低い声が鋭く飛んでくる。
「そんなもの。見せしめに磔刑にせい。そんな些末な問題を今持ってくるのでない。余は今、良いところなのだ」
その声に片膝を崩しそうになりながらも、慌てて言葉を繋げる。
この報告の為に自分が死ぬわけにはいけないかのような慌てぶり。
「西の国に商いに行った商人が、面白い話があるとのことです」
声が裏返ったような返事。
女の鳴き声と共に低い声が飛んでくる。
「何じゃ。先と同じ類の報告だったら貴様の首を刈り取るぞ」
小さく悲鳴をあげながらも言葉を走らせる。
「殿好みの女を見つけたそうです」
全ての音が止んだ。
「誰が見つけたのじゃ」
「今日、西の国に商売に行っていた商人でございます。なんでも、その女は蝶のように可憐だとか。きっとお気に召すことでしょう」
身じろぐ音が聞こえる。
「ここに連れてこられるか」
「いえ、連れてこようと思ったところ、ツユクサの着物を纏った人間が商人の用心棒を一太刀で斬り捨てたようです」
「ツユクサの着物か……」
女の絶叫と共に襖に緋色の模様が付いた。
男は、その模様に恐れおののく。転がるように逃げて行く。
鞘に刀を納める音がした後に、響く声。
「いよいよ。手に入れることができる。あの男から何もかも」
場所は変わり、西の国。
館では祝え、歌えやのドンチャン騒ぎが始まっていた。
その喧騒の中で、静かに庭に出ているツユクサの人が居るのが見える。
姫はその後ろ姿を見つけて、追いかけるように庭に出る。ツユクサを模した着物に包まれている背中に声を投げかける。
「そなたは呑まないのか。皆は呑んでいるぞ」
「下戸なので呑めませんので」
振り向きながら後ろにいる姫にそう答える。
姫は、少しツユクサの着物を見つめて思い出したように尋ねる。
先ほど、父上が何も言わずに宴を始めたので結局分からなかった事だ。
聞かなくてはいけないことを聞くために。
「そなたの名は何と言うのじゃ」
その問いにツユクサの人は少し驚いた表情を浮かべる。
自分に名があったことを気づいたように。
視線を上にずらしてツユクサの人は答える。
「……『月』です」
「戯け。今考えただろう」
「考えました」
流れるような会話の後の沈黙。しかし、姫の溜息とともに破られる。
「先が全く見えそうにない禅問答をするつもりはない。どうしても応えぬならこちらで好きに呼ばせてもらおう」
姫は改めて品定めをするようにツユクサの人を見る。
「そうだの。お主の格好に秋がないの」
「飽きさせないようにですから」
「無表情で上手い冗談をいうのでない。せめて、笑え」
憮然とした態度で答える。
「すみません」
ツユクサの着物を着た人は眉一本動かさず答える。
「全く誠意が見られないのだが、まあよい」
しばしの思考。
「藍」
「……」
「着物の色がとても綺麗だからの。そこから連想してじゃ。そして藍という草は珍しい草でもあるからの。そなたにお似合いだろう」
しばしの沈黙。
「姫がそれでよいのなら、構いません」
姫は、表情が変わらないツユクサの着物を着た人を一瞥して。
「……まあ、よい」
姫は右手を「藍」に伸ばす。
「よろしくの。藍」
その手を握り返して、姫に応える。
「しばしの間、姫をお守りいたします」
藍は、思い出したように後ろに縛った長い髪を揺らしながら付け加える。
「私は、男ですから」
領主以外の宴に参加していた人物が全員振り向く叫び声が出せる事を姫は、今日知ることができた。
そんな出会いを経て、しばらくの時は移ろう。
姫は、「鍵」を得て、国の至るところに出掛けていった。
巨大な古木が空を抱くように広げた枝に飾られた桜を見に行った春。
山中に流れている渓流に泳いでいる魚を見ようとして、川に飛び込んでしまい、そのまま水遊びをして後日、夏風邪を引いてしまった夏。
鈴虫が鳴いているのを聞きながら、山の頂で十六夜の月を眺めた秋。
雪兎を見るために、カマクラを築き、兎が来るのを白い息を吐きながら待っていた冬。
そんな一年が過ぎていった。
それは、それは、姫はとても楽しそうであった。
利発的な彼女には、理想に近い生活だった。
「鍵」によって籠から出された「蝶」は、その羽を自在に動かして美しく可憐に時に、艶美に舞っていく時を過ごした。