柿と鍵
彼女は、市場の野菜を見ていた時に、周りの音が一切止んだ事に気がついた。
後ろに人が立つ気配がしたので振り向く。
両腕を掴まれた。そして、持ちあげられる。
自重と手首を掴まれた痛みで顔をしかめる。
網に捕らわれた蝶。
用心棒は下卑た笑いを口に含めながら、商人の所まで連れて行こうとする。
少女は、泣き叫ぶが、周りは水を打ったように静かだ。
皆この蝶のような少女を助けたいが、いかんせん用心棒は勇ましかった。
用心棒は、商人の居る小屋に辿り着くと手首を縛り、無理やり口を開かせ、猿ぐつわを噛ませた。
そのまま少女を木製の箱に押し込む。
そして、用心棒達は逃げるために店を片づけようと奥に行こうとした。
欲望のままにただ蝶を捕まえた。
そんな商人は、一連の様子を見て頬を歪める。
――小銭の音。
「そこの柿を一つ貰えますか」
商人は、この現状を見て物を買う神経を疑った。
眉を潜めながら振り向く。
買い物客は、ツユクサの薄い柄が入った藍染めの着物を着ていた。雪駄を履いている。黒い下地に白い桜が舞っている番傘を差していた。
季節感が全く統一されていない格好だった。
後ろで一つに縛った髪は腰に届きそうで。顔つきは白い伊万里 (いまり) 陶器のように綺麗だった。
その作りものめいたその男とも女ともつかない人は首を傾げて指を差す。
商人は、その指差す先を追いながら先ほどの言動の真意に遅まきながらに気づく。
この小屋には、柿はおろか食べ物すら売っていない。
雑貨品しか売っていないのだから。
そして、黒い番傘にツユクサの着物という目立つ格好をしながら、その存在に声がするまで気付かなかった。
そのツユクサの人が、首を傾げながら指差す先は――
――幼い蝶を閉じ込めた木箱。
商人は、嘲笑 (あざわら) いながらその答えとして指を鳴らす。
その音を聞いた用心棒の一人は、返事としてツユクサの人を腰に提げた鉄刀で斬りつけた。
――はずだった。
ツユクサの人は、何のこともないかのようにかわした。
その所作は鉄刀の風圧で舞うかのような落ち葉の雅やかさ。
そして、ツユクサの人は距離を測るように差している番傘を前へ倒して構える。
それを見て用心棒達はせせら笑う。それぞれの得物である鉄刀を構えて踊りかかった。
用心棒達は和紙で出来ている傘を突き破ろうとした。
傘を切り捨てた後に陶器のような顔を抉ろうと考えていたのだろう。
折れる音。
それは、用心棒の鉄刀。
茫然とする用心棒。
その目線の先には信じられない光景。
それは表面だけ和紙で張られただけの鉄傘だった。
そして、ツユクサの人は傘の柄を抜く。
連結が離れる音とともに鮮やかな刀身がきらめく。
その瞬間。地面の砂が舞った。
片方の用心棒は片耳の半分を殺がれ、もう一人は、右手全ての指が切り落とされていた。
柄のない鉄傘と刃の折れた鉄刀が地面に落ちる鈍い音が響く。
その音に隠れるように肉片の落ちる音。
赤い霧が広がる。
遅れて用心棒達の悲鳴。
自分の得物を取り落として怪我した部分を押さえながら、あるいは隠しながら広場から――正確にはツユクサの人から逃げて行った。
切られた時、自分達を見るツユクサの人は、自分達の命などそこら辺の虫と同等だという視線をしていた。
羽虫がたかってきたから払ったような態度。
きっと、もう少し踏み込んでいたのなら首が刈り取られていたのだろう。
いや、手心を加えられていた。
それほどの実力差。
表情一つ変えずに、命を刈り取る事ができる人間だと肌で感じた。
商人も慌てて追いかけるように小屋の品物を置いて逃げていく。
残った小屋の中。
ツユクサの人は、懐から懐紙 (かいし) を取り出して、傘の柄に収まっていた刃に付いた血を拭う。
黒い鉄傘を拾い上げる。
連結させる音。
傘を差す。
その動作に人を斬った動揺が全く窺えない。
ツユクサの人は静まり返った広場を見渡して、頬を掻く。
そして、目の前の小屋に改めて柿がない事を確認した後に、ある店に足を向ける。
果物を売っている店。その中から柿を選ぶ。
「柿を一つ下さい」
呆然自失していた店主は慌てて値段を言い、ツユクサの人は小銭で払い、先の商人の居た店に戻る。
展示している片付ける途中の雑貨品を興味深そうに眺めた後に。
木箱を蹴りあげた。
宙に飛ぶ木箱。
落ちる音が間隔をあけて二つ。
ツユクサの人は、その一つに近付く。
猿ぐつわを外す。手首の縄を外す。少女は言う。
「あほか――――――――――― !」
広場に響く罵声。
いきなり叫んだ事で噎せたようにせき込む少女。
ツユクサの人は、眉を潜めて柿を差しだす。
それを見た瞬間、少女のお腹が鳴いた。
緊張が解けて涙を流す少女は、ひったくるように奪い柿を貪る。
その様子を眺めるツユクサの人。
少し落ち着いた少女を立ち上がらせてどこかへ歩いていく。
市場の音はやがて戻っていく。
戸惑いながらも再開していく。
そんな嵐のような時間だった。