幕開け
「名前を付けたことがありますか」
それはフェルマーの最終定理を暗算で証明しろという無茶にもほどがある難しい問いではないけれど。
これは単純な問題。
繰り返し。繰り返し。問いましょう。名前を付けたことがあるかについて。
飼っていた動物や植物やなんならぬいぐるみでも構わない。
名前を付ける時、何を思い名付けただろうか。
この質問を発した理由の背景はこうだ。
ー 名は、体を表すという ー
しかし、不思議にも他者に名を付けるのは人間だけだ。
ある意味において、人は名前に支配されているのだろう。
それは付けた者の所有物として。
自分を示す自分の名前は誰かに与えられた首輪のようなものなのだ。
そこから逃げようと試みてもその首輪は外れない。
どれだけ、自分の名前の意味とは逆の生き方をしても、どうしようもなく首輪が締まって元の位置に戻ってしまう。
名付けられたことは、こちらの意思とは全く関係ないモノなのに。
その事実は粘つくように。纏わりつくように。揺らぎもせずに自分の中に巣くっている。
どんな願いが込められたとしても、それは付けた人の一方的な押し付けでしかない。
自分の人生を決められたように感じてしまう。だから、人は別の名前を求めるのだろう。
仲間内では、違う名前で呼ばれるように。
しかし、けれどもこんな事を思ってしまう人は、少数派なのだろう。
だから、単純な問いである。
それでも言葉には言霊がある。
嘘から出た真とかの成句は、これに由来するモノだろう。
付ける人は何を考えて付けたのだろう。
大抵、名を付ける人は、付けられる人の人生を案じながら、自分で考えられる名を付ける。
自分の人生を変えてくれた人の名。
自分の名の一部。
縁起の良い名。
けれど、その中でもある事を考える人がいる。
言霊に込めた思いで、人の人生を固定しようとする人がいる。
自分の人生の中での役割を果たさせようと考える人がいる。
何も知らされず、何もかも分からない内に、選択の余地すらなくて、自分の人生を歪められた人がいる。
今回の物語は、そんな人間達がくるくると終わりに向かって、風車 (かざぐるま) のように廻っていく。
結末は、方向は決して前向きではない。
子供の癇癪 (かんしゃく) によって握りつぶされるような物語だ。
結末が分かっている。物語。
けれど、『役者』が演じ終えた時に、残ったモノを見てほしい。
その判断は、君達がして欲しい。
きっと、答えが出るところへ辿り着くはずだから。
そして、そんな戯言とも妄言ともとれる言の葉を聞いてくれる君達に。
私達も嘯こうと思う。
表も裏もなく。
ただのこのお伽噺を。
悲劇であり喜劇であって、色が何もかも混じって分からなくなった黒色みたいであるけど。
ただ、君達に彼らを知って欲しいから。
嘘かもしれないが、信じてくれる者がいる限りは、彼らは本物であり続けるだろうから。
少なくとも、私達は真実として語る。
堂々と明朗に万感の思いを込めて。
聞いてくれることを信じて幕を開けよう。
まあ、前口上はここまでにして。
さあ。
幕を上げて。
この話の。
―――~始まり~始まり~―――