8話
光が木々の隙間から溢れ、夜露に濡れた下草がキラキラと光っている。最近めっきり少なくなった雀が、数羽鳴いている。そこは、コの字型に建っている研究所の中庭であった。
研究所へ入るための裏口のそばには、建築現場等にあるような簡易のプレハブ小屋が設置されており、その中庭を隠すようにコンクリートでできた塀がある。研究所を取り囲むように立っているその壁は、当然研究内容の安全性のためであり、高さは四メートルほどある。
そして、その場所で、連慈は、頭一つ分高い遊人と対峙していた。
遊人の上半身は裸で、下半身は寝間着の短パン、そして頭にはきっちりヘルメットを被った姿である。その肉体は、無理やり筋肉を皮膚下に押し込めたような体躯をしている。しかし、決して太すぎるとも、当然痩せているとも見えず、また、それらに比して下半身が細いなどということもない均整のとれた肉体である。
一方の連慈は、相変わらず奇抜なパーカーをトレーニングウェアとしている。発達途中の肉体らしく、遊人と比べれば満足のいく肉体をしていない。がしかし、同世代でいえば、その筋肉量は多い方であろう。脂肪のつきにくい体質であるため、未だに戦闘において筋量がものをいう場面で押し切られることはあるが、それを速度で押し切るだけの下地ができつつあった。
遊人は、連慈に対し正面をみせ、軽く握った両手をだらりと、しかし、即応できるようにたらしながら、連慈を見ている。連慈は、遊人に対し半身に構えている。左手を肩の高さで前にだし、右手を軽く握った状態で胸そばに添える構えをしたまますり足で円を描くように連慈の左方向へ移動する。
距離は二メートルほどを維持している。その距離が、わずかにでも縮めばどちらかが、あるいはどちらも動くであろう。早朝独特の澄んだ風が二人の間を吹く。
「いつまで続けるよ、これ」
挑発する遊人。連慈は、それにつっかかる。上半身の重心を前にずらす。地面を這うような低さになった連慈は、そのままスピードに乗り、距離を詰める。そして、遊人の直前で伸びあがるように体を持ち上げ、左脇腹にフックを打ち込む。それを左肘で防いだ遊人は、合わせるように、連慈の左脇腹に掌底を打ち込んだ。
避けきれない、と踏んだのか、連慈は肘を間に入れる。
と、次の瞬間、遊人の指それぞれに意思があるかのように動き、連慈の腕を掴む。万力の如き握力が連慈の腕を締め上げた。
「くっそ!」
連慈は、反射的に反抗しようとする左腕を何とか止める。見留めるのは遊人の右脚。しなるように襲いかかるそれを、左脚でブロック。ギチリと、連慈が歯を食いしばる。連慈曰く、遊人のそれは鉄バットらしい。
連慈は、腕を動かし遊人の拘束から逃れると距離を取る。遊人はそれを追いかけず、左腕を振ると、打たれた肘の辺りを確認する。
「よくしたじゃん。反応。こっちもなかなか良かったし」
遊人が褒める。基本的に遊人は褒めて伸ばすタイプだ。
「うるせぇ」
先ほどの攻防において、一切のダメージがなかったらしい遊人とは対照的に、連慈は左目に涙を浮かべている。握られた腕には、赤い指の跡がくっきりと残っており、また、左脚は見えてはいないが、痛みがあるのか軽く前に出すと何度か地面を叩いている。
折れてはいないらしく、その運動が止まる。そして、再度確認するかのようにガシリと踏み込む。息を大きく吸い込んだのと同時に再度走り出した。
○
「もう終わりだ」
何合、何十合と打ち合った二人に声をかける。上がる息を噛み殺している連慈と、汗の一滴もかいていない遊人。トレーニングに勝敗があれば、それは一目瞭然であった。
遊人が涼しい顔で振り返った瞬間、連慈の携帯電話が鳴りだした。連慈は、痛む足を引きずるかのように電話まで歩くと着信を確認する。
「絵瑠からだ」
つまり、豊明宅にて、朝食の準備が出来たということだ。これが、豊明からであれば、緊急のミーティング。それ以外からであればそれ以外だ。
豊明宅は、研究所付近の高層マンション最上部に位置している。自動ドアをくぐると、連慈は若い女のコンシェルジュに挨拶した。以前は、円匙を穿いた少年を訝しそうに見ていたものだが、それもなくなり、優しそうな笑顔で挨拶を返す。
「何が悪かった?」
エレベーターに乗り込んだ途端、連慈が私に問いかける。先程の訓練のことらしい。
「お前と奴では、心技体のどれもかなわん。戦闘になったことが間違いだ」
「トレーニングでそこを間違いにしてどうすんだよ」
「ならば、まずは時間をかけすぎだ。先手を打ち、次に畳み込まなければ、あの手の相手は沈まん」
「あの蹴り受けろってのかよ」
連慈が脛を見る。そこは、トレーニング後には赤く腫れ上がっていた。おそらく、今はさらに腫れているだろう。
しかし、以前はその三倍ほど腫れていた――最初のころは数度に一度はひびが入っていた――ことを考えれば、これが訓練の賜物なのかもしれない。
「ローを見てから受けるまでの時間差を考えれば、直突きが出来ただろ」
「あのバランス崩した所で打ち込めるか」
「打ち込む必要などない。要はバランスとタイミングを崩せば良いのだ。脇腹に打ち込んだ右腕を変化させ、投げてもよかったかもな」
その手段は、連慈と遊人の――文字通り――力の差では不可能だろうが。
「まぁ、一番は電気でも流し込めれば……」
そこで、到着を知らせるチャイムが鳴り、エレベーターが開く。連慈がエレベーターから下りる。
エレベーターを降りるとすぐに扉がある。最上階には、豊明宅しかなく、当然豊明宅にはきちんと正面玄関が設置されているわけで、連慈と私はこの扉、そしてこの空間の存在意義を見出せてはいない。
そして、その扉を開けたところで、豊明宅の玄関扉が開いた。
「遊人は?」
エレベーターの到着音を聞いたのだろう、制服姿の絵瑠が顔を出す。髪はいつも通り後ろに縛っているが、後で身支度するつもりなのか、雑に束ねているだけだ。
「研究所でシャワー浴びてる。つか、俺もシャワー貸してくれ」
「いいけど。それより、遊人にはきちんと服来てくるように言った?」
先日、絵瑠は半裸の遊人に学友の前で声をかけられ、交遊関係に大きな疑いをかけられたらしい。
「遊人は、研究所にいるんだな?」
「へ? 多分まだ、あの材質不明のヘルメットを外すか被るかしてるんじゃないですかいね? あれ、すげぇ時間かかるみたいですし」
ふむ、と唸ると声の主、豊明が奥の部屋から顔を出す。折り目がしっかり入ったグレーの細身のスラックスに、ノリの効いた白光沢のワイシャツを着ている。そして、ポケットから取り出すと携帯を操作し始める。
「灯か? うるさい、黙れ。それより、遊人がシャワー室にいるから俺の部屋に寄越しておけ」
電話の相手は何かを喚いていたようだが、豊明は無視して携帯を切る。
「二人共、任務だ。朝食をとったら、学校へ向かえ。そして、昼に戻ってこい。学校には早退の連絡はしてある」
「任務でしたら、今日は休みでも……」
二人の出席に関しては、豊明による多額の寄付のおかげでかなり優遇されている。
「私もそう思ったが、ダメだ。朝食が無駄になる」
連慈の目線の先には、絵瑠の作った――最近やっと美味いの際に立った――朝食が湯気を立てている。
「朝食なんかすぐに食い終わりますぜ?」
阿豆内研究員の早食いは折り紙付きだ。
「ふむ。しかし、もう一点ある。今日の一時限は古文だろ?」
連慈と絵瑠は、同時に眼球だけで左上を見つめる。
「そうですが……」
「古文は、抜き打ちの試験があるそうだ。まぁ、今抜き打ちではなくなったがな。終わり次第私の部屋にこい」
そういうと、ジャケットを手にかけ豊明は玄関の扉を開けた。
「休みでもよかったのにな」
「自分の研究所の研究員が、古文の試験で逃げ出したなんて噂されるのが恥ずかしいんじゃない?」
遊人は、ポリポリと頬をかく。逃げ出すというあたりに思い当たる節でもあるのであろう。そして、それと同時に、豊明が猫よりも無音で再入室してくる。そして、奥に入っていったかと思うと、また戻ってくる。
「お前らの弁当は、私と遊人の朝食とする」
宣言。二人が顔を見合わせるのも気にせずその間を通り抜けると、エレベーターに乗り込む。エレベーターの降下する音がわずかに聞こえてきた。
絵瑠と連慈は視線の視線が合い、絵瑠が少し困ったように笑った。連慈は、それを見て右眉を上げてこたえると、すぐあがる、と伝え、私を玄関の壁に立てかける。そして、浴室へ向かった。




