22話
ゴキブリは、絵瑠とリの中間地点に陣取り、連慈からの攻撃に備えている。これは、リの命令なのか、ゴキブリ自身の采配なのか不明だが現時点では、連慈達はゴキブリを倒さない限りリを始末できない。また、時間をかけると今度は相手の増援が現れる可能性がある。それを証明するかのように、ゴキブリが積極的に仕掛けてこない。時間については相手に利がある。
連慈は、円匙を槍のように構え、身体を前に倒した。重力が重心を前にずらす。それを利用し、倒れるかのような低い姿勢のまま走り出した連慈は一瞬で最高速度に到達し、ゴキブリに肉薄する。構えた槍を払おうとゴキブリの右中腕が振り上げられた。連慈は、その動作を一切無視し、突っ込む。円匙の先がゴキブリの腹部に突き刺さる寸前で、ゴキブリの右中腕が円匙を払いのけた。出来損ないの銅羅のような音が響く。
連慈はその横に流れた威力を殺さずに、今度は自身を中心とする円運動に切り替えた。逸れた円匙が、今度は空いた右脇腹に吸い込まれる。食い込む切っ先、そこから黄色い体液が染み出す。ゴキブリはキィと甲高い鳴き声を上げ、左足で連慈を蹴り上げる。連慈は避けようと飛び退くが、一瞬遅い。到達した爪先が連慈の脇腹を抉る。連慈は、それでも回転し少しでも威力を逃す。連慈が吹き飛んだのを確認したのか、絵瑠が銃を構える。
「邪魔してんじゃねぇよ!」
怒号。その先ではリが銃を構えている。瞬間絵瑠が口を動かす。絵瑠の周囲の空気がピキピキと張りつめた音を立て、音とともに白い煌めきが漂う。周囲の温度が下がり、空気内の水蒸気が視認できているのだ。そして、発砲音と同時に絵瑠の眼前に氷壁が作り上げられる。
いつもであれば、一発の銃弾など完全に止められるが、時間が足りなかったらしい。ガラスの割れるような甲高い音をたて氷壁は砕け散る。逸れた弾丸が絵瑠の太腿に突き刺さる。弾ける鮮血。絵瑠は頰を引き上げ、歯を噛み締めながら、それでも、ほぼ反射と言っていい速度で今度は土壁を作り上げその陰に編花を抱え飛び込んだ。それに倣うかのようにリも机の裏に隠れる。絵瑠はそれを予想していたのか、続けて詠唱。壁壁から飛び出すと炎弾を撃ち放った。しかし、それは机に到達するよりも先に蒸発するように消えてしまった。机の奥から頭をひょこりと出したリが、愉快そうに口を開く。
「魔法はからっきしなんだけどよ、対抗魔法だけは結構できんだよ、俺」
対抗魔法とは、文字通り発現した魔法に対して、その魔法を打ち消す魔法である。通常は、普通の魔法の方が覚えるのが楽なのだが、この男は心底ひねくれているらしい。
絵瑠が苦々しげに土壁に隠れるのを見ながら連慈は舌打ちする。しかし、それに気を取られている暇はなかった。体勢を立て直す連慈をゴキブリが跳び追う。巨躯にして頑強。さらに素早い。悪夢のようなそれは、先ほどのお返しとばかりに連慈の頭蓋を砕かんと踵で踏みつけてくる。連慈は、それをバク転の要領で避けながら起き上る。ゴキブリはそれを左中腕で掴みかかる。もう一回転し、それを完全に避けると、そこにあったテーブルに飛び乗り、下顎に爪先を突き入れる。完璧なタイミングで完璧な位置に完璧にゴキブリの頭部に叩き込まれる。爪先が振りぬかれ、ゴキブリの頸部がゴキンと音を発し、そのまま頭部だけが後ろを向いている状態になった。
「いい加減黙ってろ、触覚野郎が」
沈黙、ゴキブリがキィキィと奇妙な声を発した。そして、頭部を両腕で持つと前に向ける。ぐらぐらと首の座っていない子供のように不安定さで連慈を見ている。
「そういえば、ゴキブリの頭部を取り、もう一度別のゴキブリの頭をくっつけても生きていたそうだ。豆知識というのも玉には役に立つだろ?」
「うるせぇぇぇぇぇ!」
私の豆知識と同時にゴキブリが連慈を殴りつけた。連慈は、腕を胸高さにまで上げ、銅を庇う。しかし、砲弾宜しく、連慈の両腕の防御に叩きつけられた拳は、そのまま防御した腕を弾くと、そのまま腹部に吸い込まれ連慈を吹き飛ばす。連慈は水槽に背中からぶつかり、その拍子に息をすべて吐き出す。水槽に放射状の亀裂がはいり、そこから水が吹き出した。
背中にガラスを預けた状態の連慈に、追撃の足裏が迫る。連慈は、歯を食いしばりダメージを無視して転がりそれを避ける。水槽に突き刺さる右足。水槽から流れ出す水量が増える。
連慈は痛みに顔を歪ませながら両腕で円匙を振り上げた。咆哮、そして、それとともに円匙が振り下ろされる。伸びきった右足は筋肉による防壁が間に合わなかったのか、引きちぎれるように切断された。
ゴキブリは、足を引き抜こうとしていたためバランスを崩し、今度は腕を使い倒れ行く体を支えようとした。その右中腕を逆袈裟の要領で切り上げる。飛び散る体液。吹き飛ぶ中腕。連慈は体液を浴びないように体を翻し、右部に唯一残った突起、右腕に円匙を突き込んだ。
筋肉が異物の侵入を拒もうと膨れ上がる。筋肉に挟まれる形で停止した円匙。しかし、連慈は止まらない。連慈は円匙から手を放すと、竜巻の如く回転しながら跳躍。円匙に回し蹴りの要領で足裏を叩き込む。筋肉の引きちぎれる音。骨の砕ける音。それが終わるのと同時に右上腕が吹き飛んだ。
右足、右中腕部、そして右上腕を失ったゴキブリはそれでも、連慈を倒すべく翅を広げる。鋼鉄の翅を広げ、そのまま連慈を巻き込もうと向かって倒れこんできたのだ。連慈の歯奥が噛み合う。口腔内から血を吐き、痛みに耐えながらもう一度跳躍。ポケットに手を突っ込むと残った弾丸を両の手に持ち、それを放った。右手より放たれた弾丸が右翅の、左手のは左翅の付け根に激突。肉の焦げる匂いがして、それから金属翅が水面を叩いた。たわんだ金属音が広がる。右側三肢と二翅を失い、バランスが取れず、それでもゴキブリは連慈を狙おうと左腕を動かした。それに追撃しようとした連慈に対して絵瑠が叫ぶ。
「どきなさい! 連慈!」
絵瑠が叫ぶ。絵瑠はリに対して銃弾で牽制すると同時に詠唱を開始させる。
「ひと み よ いつ」
足元の違和感。冷気が上がっている。瞬間、連慈がその場を飛び退いた。
「ふるべ ゆらゆらと ふるべ。凍りつけ!」
それと同時に地面から氷の槍が付きあがる。先ほど水槽から漏れ出した紅い水が凍結し槍状に凍りついたのだ。そして、倒れ行くゴキブリに対し一本突き刺さる。
「きぃぃぃぃぃぃいっぃぃぃぃぃっぃいきぃぃぃぃ!!」
ゴキブリの叫び。それを合図にいくつもの槍が付きあがる。ゴキブリの身体に幾つもの紅い氷が突き刺さり、ゴキブリの身体から幾つもの紅い槍が突き出る。ゴキブリの黄色い体液はそれを伝い水面に奇妙な紋様を浮かべた。ビクビクと蠢くがそれは断末のそれであった。
「ゴキブリの腹部には脳神経節があるのよ、覚えておきなさい」
「俺の頭部の脳も停止するところじゃねぇか」
連慈は独りごちると振り返る。顔を蒼くしたリがいた。やばい、と何度も呟く。脚を震わせ、手で口を覆っている。
「なんてことしてくれたんだ!! あぁぁぁぁ……」
「そいつはこっちの話だ。てめぇには話を聞かせてもらうぜ」
脇腹を抑えながら連慈は、リに向かい歩き出す。表情にこそ出さないが、右足も痛めたようで引きずっており拭ってはいるが口端に血のカスが残っている。内臓にもダメージがあるのだろう。
「もう終わりですぜ。観念して死ね」
恐らくこの男は武闘派ではない。指は白魚のように華奢で拳も武器も握ったことはなさそうである。それは、先程の銃の腕をみてもわかる。まともに訓練をしていれば、もう少し上等なはずだ。では、この男は裏で暗躍するタイプかと問われれば、それはあり得ない。
魔導人形を出すタイミングがお粗末すぎる。もっと早い段階で出すべきだ。ここまで押し込まれる前に、この場を畳み逃走していなければならない。
この男は武辺者でも、兵法家でもない。この男は、圧倒的戦力を笠に腰巾着のように弱者をいたぶるだけの人間だ。人が嫌がる汚れ仕事を本能的に好み、そして、その汚れ仕事に快楽を以って行う人間だ。
男はそれを証明するように、口端を大きく引き上げる。
「なーんてね?」
先程までの慌てぶりが嘘のように、顔面に笑顔を張り付かせている。銃口を連慈を捉えるリ。即座に絵瑠が構える。
「二対一よ。大人しくしてなさい」
「んーんふんふんふなははははははははは!」
突然笑い出すリ。銃口はブレており、連慈を撃つつもりはないようだ。そして、それは余裕の表れであった。
「二対一? 誰が?」
笑顔。追い込まれた者の物ではない。それは、捉えた鼠をいたぶるときの猫の顔。強者が弱者に見せる笑顔。
ゴソリとリの後ろから音がした。リの後ろの扉が開く。そこにいたのは、腕四本、足二本。計六本の多脚の生物。さきほどのゴキブリであった。




