21話
そこには先ほど逃げ去って行ったリが立っていた。
「ここで何やってたかわかるか?」
怒りの染みついた不愉快な笑顔を浮かべ、リは問う。編花が連慈の服を握りしめる。連慈は、小さく息を吐いた。怒りは隙を生み、恨みは逡巡を生む。そして、そのどちらもこの場では不要なのだ。連慈はいつも通りの悪意ある笑顔に戻る。
「あんまり聞きたくはないですがねぇ」
「まぁ、そういうなよ。おまえらがキレる理由はよくわかるんだ」
リは眉間に指を置く。そして、さも申し訳なさそうに表情を浮かべる。
「ハッピーになれる薬を作ってたんだよ。愉快痛快を作る奴をさ。いやぁ、うちの国でもそうだけど、他人の家に工場作っちゃだめだよなぁ」
そういうと苦笑う。絵瑠はそれを見て心の底から不快感をあらわにする。世界には決して交わることのない感情があることを表していた。
「その女…… 殺っちまったみたいだけどよ。その女は香の異能持ちでな」
連慈の身がピクリと揺れた。
「薬で何が大事かわかるか?」
わずかな間。シンキングタイムを準備してくれているようだが、不愉快極まりない。絵瑠はいまだ感情を戻し切れていないのか、歯奥を軋ませるような表情だ。
「わかんないよな。大事なのは、効果の強さでも、効果の時間でもない。効果なんてのは、ほんの少しでいいんだ。大事なのは依存性だ。香の異能臓器を使うと普通の薬の何倍、いや何十倍も依存するんだ。一度やっちまったら、もう逃れられないんだよ」
絵瑠が何の予備動作もなく銃を発砲した。放たれた弾丸は連慈の脇を掠めリの頭に吸い込まれている。しかし、ガキンと金属のぶつかり合う音が響く。突然リの眼前に現れた鉄板のようなものに阻まれたのだ。それは天井から垂れ下がっていた。連慈と絵瑠は同時に天井を見上げる。
それは、翅であった。黒い昆虫翅それが、銃弾を阻む盾のように、リの頭上から下されていた。そこにいたのは、人の形をした異形。薄黒くテラテラと輝く全身に人間的な両手両足、そして脇腹辺りにもう一対の手を備えている。人のような風貌でありながら、まさにゴキブリと形容するにふさわしい体貌。首だけをこちらに向ける。人間的な顔の部品を備えているにも関わらず、その顔は一切の表情がなく、それがさらに不気味さを増している。
「そのガキ、あの女のガキだろ? 取引をしよう。そいつを渡せば、お前ら二人は見逃してやる。異能は遺伝することが多いからな。そいつがいれば俺も姉さんに怒られずに済むだろうし。どうだ? こいつと戦うのも馬鹿らしいだろうしな」
編花の腕の力が緩む。眉根の皺が深くなる。そして、少女はついと一歩踏み出した。絵瑠が思わず息をのんだ。私も反省した。この少女には勇気がないと思ったことを。
自棄からくるものかもしれないが、それでも少女は、自身の身を捧げようとしているのだ。例え、この世界中のどこにも居場所がなくなったとしても、容易に人は自己を犠牲に使用などできない。それをこの少女は、そのか細い身で行おうとしているのだ。この少女はこの場において未だに純粋なのだ。
その行動に対して連慈は、優しく手をにぎってやった。
「下がってろ」
「で、でも……」
編花が手を振りほどこうとしている。そこに絵瑠が近寄ってきた。連慈はリを見据えたまま編花の手を握りしめる。そして、そばに寄ってきた絵瑠にそのまま握らせる。
「くーるあずきゅーかんばーだぜ」
「わかってるわよ」
絵瑠は小さく頷く。編花を握る手は優しく、しかし、銃を握る手はその銃把が砕けそうなほど握りしめている。が、それでもさきほどより落ち着いているようだ。
「あれが何かわかるか?」
「おそらく、まぁ間違いなくだけど。あれは魔導人形ね。遺伝情報に大好きな生物を混ぜたんでしょうね」
絵瑠が鼻で笑う。魔導人形とは、さまざまな生物の遺伝子を元に魔術的に作る人形である。多くは遺伝子を元に強化されており、ほとんどの場合は脳を切除され代わりに指令を与えるコンピュータが詰まっている。
「俺が離れたら連続で打ち込んでくれ。なんでもいい」
「わかってるわ」
「あと、先生に連絡してくれ」
それだけいうと、連慈の足に力がこめられる。そして、発射されるかのように飛び出す。リに向かう、ミサイルと化した連慈であったが、頭上より飛来する影を確認し横に飛び退く。そこにゴキブリの巨体が飛び込んだのはほぼ同時であった。地面に張り付く頭部を、体勢を整えた連慈が踏み砕かんとすべく鉄板入りの踵を叩きつける。が、ゴキブリはそれを両腕の勢いで起き上がり回避した。
期せずして立ち上がる形になったゴキブリ。頭部は連慈の遥か上にある。身長、というのが正しいのかわからないが、二メートルを三十センチほど超えているだろう。昆虫であれば柔らかな皮膜で覆われているはずの腹部は、人間的な、しかも高度に鍛えられた腹筋で覆われていた。背面部に鋼鉄のような昆虫翅を背負った異形は、眼球を左右バラバラに動かした。
「お前は結局なんなんだよ」
連慈の独り言。それが合図になったかのようにゴキブリの右腹部に付いた中間腕が連慈に打ち込まれる。それを、最低限の動きで交わすと、相手の腹部に拳を叩き込む。肉と肉のぶつかり合う音が響く。顔を顰めたのは連慈の方であった。
「ゴムみたいだな」
苦く呟いた連慈。ゴキブリは、上両腕を握り合わせると、それを連慈の頭上から振り下ろす。連慈はそれを避け右後方に飛び退く。振り下ろされた両拳は、連慈に当たり損ね、轟音が鳴り響かせながら床を砕いた。
連慈は、飛びすさった先の倒れた戸棚に脚をかけ跳躍し、ゴキブリの首を裸締めの要領で締める。
「お約束のやっとくか」
連慈の手から放電。青白い火花が飛び散る。遅れて破裂音が発される。連慈体内で生み出された電子は、連慈の指先や掌から射出されると、ゴキブリの頭部に浸入する。ゴキブリの頭部が傾く。
内部は、コンピュータか元々存在する脳かは不明だが、それは完全に撹乱されるはずであった。が、ゴキブリは傾いた首をぐるりと連慈に向ける。
やはり表情は表面的にもないが、その無表情が、無駄だ。と言っているように見える。
「絶縁処理か」
ゴキブリが濡れた犬のように身体を震わせ、連慈は苦々しげにそこを飛び退く。
戦闘を前提とした人形は通常よりも調整が念入りに行われる。さらに、絶縁処理が施されている場合は、その調整がさらに念入りに行われていることが予想できる。つまり、これが強敵であることの証左でもあった。
飛び退いた連慈は、軽業師の様に空中で一回転すると再度戸棚に飛び乗った。それを追うのはゴキブリの左腕。連慈はそれを、視認してはいなかったが、勘だけで横に跳ねた。その脇を、旋風を纏ったゴキブリの拳が掠め、戸棚にぶち当たる。ひしゃげた金属が音を跳ねさせ引き裂かれ、砕かれた研究機材が巻き上げられる。それを見た編花は小さく悲鳴をあげた。
しかし、それに敵対する残りの二人はそれを恐れなかった。拳が叩きつけられたのと同時にゴキブリの右脚が弾ける。絵瑠の放った魔術が直撃したのだ。ゴキブリの体勢がわずかに崩れる。そして、それと同時に連慈も行動していた。ポケットの弾丸を取り出すとリに対して放つ。しかし、それをゴキブリの翅が遮る。ゴキブリの目が左右別々に動き、二人の行動に対して対処してみせたのだ。
そして、ゴキブリは、それを当然というように悠然と立っている。
「無駄だ、無駄だ! そいつにいくらかけたと思ってる!」
リが大きく笑う。それを後目に絵瑠は編花を抱え、元来た扉を見る。しかし、それを予測していたのか、リがゴキブリに命令を下す。するとゴキブリの上半身が膨れ上がった。
そして、それが萎むのと同時に口腔内から、黄色い何かが発射された。黄色いそれは扉に張り付くと、固まってしまった。絵瑠が炎弾を打ち込むが、それは表面だけ焦がしただけで破壊には至らない。
「さぁ、外へは俺の横を通り抜けるしかないぞ」
リは両口端を引き上げた。
「人とゴキブリと後は何掛け合わせたんだよ……」
「カメレオンと…… ふむ、カギムシという生物がいたな。粘液を飛ばして餌をとる」
連慈の疑問に私が丁重に答えるも、連慈が興味なさげに身体の状況を確認した時、イヤホンに一瞬ノイズが流れ、次いで灯の声が聞こえた。
『後十分で到着するって遊人がいってるわ』
「十分だとよ」
「ならば、早くとも二十分はかかるな」
私の返答に異論はないのか、連慈は眉根を顰め、右口端だけ引き上げる。
現状、場所は地下であり、電波が届くとはいえ、中継器をかませている。我々の詳細な場所は把握できていないはずだ。そして、ここまでの経路が生きているかもわからない上に、方向音痴の遊人である。二十分で来ればかなりいい方だ。
「五分で充分だ。俺の手で片付けてやる」




