青空の旅人
『空を見上げよう』
歌が聴こえる。
『青い蒼いこの空を』
随分と懐かしい歌だ。これは確か俺がまだ子供の時に流行ったやつだ。
『この空をどこまでも。この空はどこまでも。僕らを優しく包んでくれる』
「目を開けよう。立ち上がろう。僕らの旅はまだ終わらない。始まっていない旅は終わらない。」
懐かしい。こんな昔の歌を聴いた事も驚きだが、歌えた自分にも驚きだ。
あぁ、そうだ、目を開けよう。せめて自分が成した事を見届けよう。
チャリオット・イングは数少ない錬金術師の才覚を持っていた。大抵の人間が学んで習得する知識を、翠の目と黒髪という典型的なフォルクス人の特徴を持った凡庸な青年は、勘で理解し高等な術式をあっさりと組み立てる。
故にその進路は当然であった。
この創練世界ミネルズにおいて錬金術は生活の礎。だった。
つい数年前までは。
5年程前に起きた「混沌」の襲来により、人々の文明は数十世紀後退した。混沌に犯された土地はただ黒く塗りつぶされた「空間」となる。触れれば何者をも塗り潰す黒。
そこから滲み出てくる「使者」が混沌を広げ、広がった混沌が再び使者を生み出す。
その循環により、世界の3分の2は混沌に呑まれた。
人々は戦った。
その為に強力な武器が必要だった。
強い武器を作るには優れた錬金術師が必要だった。
イングは混沌へ対抗する為に徴兵され、そして兵器開発に携わった。
それが3年前の話。
「そろそろ出番か…」
呟いたイングは膝まで届く紺のロングコートとロングブーツ、頭にはピケ帽を被っていた。彼が所属するフォルクス軍の制式の軍装だ。
手にしている武器はフォルクス軍で正式に採用されている熱量式剣銃兵器FBシリーズだが、現在の主流はファイアレイピアⅣ。洗練された刺突刀身を持っている最新式だ。
対してイングが持っているのはファイアハンガーⅢ。FBシリーズ共通の湾曲した柄と大きめの護拳と幅広で片刃の刀身が特徴的な代物だ。
速射性と軽量化に重点を置いたレイピア系とは違い出力と装填弾数を重視し、発射される熱量弾も散弾となっている。
3m程の体長の黒い頭の無い人影とそれに対峙するフォルクス軍の5人の兵士。
戦いはすでに2時間に及んでいた。
使者の数はたった1体でこちらは20人であるのに、だ。
理由は単純である。部隊の半数以上がこれが初陣の新兵であるからだ。事前に指示されていた通りのヒット&アウェイを忠実に守っているが守りすぎてなかなか決定打を与えられないのだ。そのうえ、ほとんどの兵がは恐慌状態に近い心理状態にあるらしくまともに熱量弾を当てている数がそもそも少ないのだ。
そうこうしているうちに今戦っている人間が引いていく。だが、次が出てくる気配がない。
気になって新兵達が隠れているはずの廃墟を見やれば【戦闘続行困難】のハンドサインを必死で繰り返している。
「弾切れか。まぁ、あんだけ無駄玉バカスカ撃ってればな」
1人で納得しながらイングは飛び出していた。弾丸が尽きたら接近戦、などという無謀を新兵がやらかさない内に自分が出なければいかない。元々自分の任務は新兵達の援護であり、彼らが危険に際した時代わりに戦うのが役目だ。
他の場所からも2人飛び出してきた。
たかだか2年か3年しか戦っていない自分でもこの部隊では古参という事になる。
飛び出してきた2人も同様だ。1人は背が低く、細めた目は慣れた狩人の眼光を放っている。もう1人はフォルクス人には珍しい金髪とゴーグルを掛けているのが特徴だ。
「足を止めてくれ」
金髪が言う。
「任せろ!」
「俺の射線からは外れてくださいよ?」
意気込む背の低い方にイングが釘を刺す。
2人共最近この部隊に出向してきたばかりだが、その実力は折り紙付きだ。
使者がこちらを向いた。
人間で言えば胸の辺りに亀裂が入っていく。そこが開いた時口であれぼA型、目であればB型と分類している。
この個体はまだどちらか判別できておらず、無闇に手を出しては危険という事で新兵達に一撃離脱を徹底させていた。
「ウォーミングアップは済んだのか?残念、ちょい遅いぜ!」
飛び出してきた2人のうち背が低い方が一気に加速した。両手に構えたファイアレイピアⅡを連射しながら使者の横を通り過ぎ、後ろへ。
金髪の方はその場で立ち止まると膝射の姿勢を取った。武器はファイアハスタⅡ、長い刀身に比例した長射程が特徴の俗に言う狙撃銃だ。
イングは最初の1人の後を追うように使者に接近。特に狙いを付けずにトリガー。この距離ならファイアハンガーの散弾はほぼ上半身全体に当たるはずだ。効果は確認せず離脱。
亀裂が開く。そこには乱杭歯が生えていた。。A型だ。
開いた口に対し狙撃され、使者が一瞬怯むが攻撃の隙には使えない。
とりあえず距離を取る。
A型の特徴は怪力、そして咆哮。
まず人間が下手に一撃もらおうものならバラバラに砕ける。冗談ではなく、ただの一振りで人体が四散するほどの怪力をこいつは持っているのだ。
反面、そのリーチは手が届く範囲でしかなく、動きも速いが小回りに難がある。
イング達3人はそれぞれ判断するとA型の正面を避け、後方と左右に展開した。
正面の範囲に入らぬよう常に動き回りながら攻撃を加え続けた。
結果として10分ほどで決着はついた。
新兵達の攻撃でダメージの蓄積もあった為に比較的楽な戦いであったと言える。
犠牲者は新兵が1人。
このレベルの部隊では上々だ。
補給基地で温かいお茶を啜りながらイングは呑気な程に辺りを見回していた。
混沌に対する総力戦。
世界規模で一定の周期で行われるこの戦いは決して無駄では無い。
混沌から土地を奪い返す事は今のところ出来ていない。しかし、今以上の侵略を許す事もしていない。
大多数の人間は今の現状を打破すべしと躍起になっているが、イングは別に無理をする必要は無いと思っていた。
「勝てないのなら勝つ必要は無い。ただ負けなければいいだけだ。」
そう思い防衛部隊の仕事にも従事してきた。
もとは前線で武装や弾薬の供給を円滑に行う為に配属されたのだが人員不足を理由に気がつけば戦地に立っていた。そしてそれに慣れてしまっていた。
いつの間にか階級も少尉とやらになっている。
技術士官である自分は本来「技術少尉」と呼ばれるはずであるが、公式書類にもチャリオット・イング少尉と記載されている事を見ると、気付かぬうちに前線士官となっていたらしい。
あの2人が来るまではこの新兵だらけの小隊の小隊長も任されていた
「あ、いたいた。これさっきの戦闘で使った弾薬の」「俺はもう隊長じゃないよ」
「へ?あ、すいません!」
「隊長はあっちな」
慌てた様子の小隊補佐官を苦笑して見送りイングはまたお茶を啜った。
人の命なんて重すぎる。俺は俺だけを護る。その結果として今のところ他人を助けているだけだ。
幸いな事にあの背の低い方も少尉だったので色々理由を付けて小隊長の立場を譲り、今は1人の隊員として戦っている。
「お、いたいた元隊長。」
「ちゃんと俺には名前があるですけどね、狙撃手さん」
「そうかい、悪いな元隊長」」
「お前ら下らない冗談は後でしてくれ。時間の無駄だ。」
金髪の狙撃手ーシュミット・マイヤー曹長とのやり取りを遮ると現隊長であるビテル・グラン少尉はイングの前に仁王立ちになった。
「それで、チビテル隊長用って」
「ビテルだ!ぶっ殺すぞテメェ!」
しまった本音が出た。そしてこの小隊長、本気で俺の首を絞めてきやがる。
全身で降参の意を示し、必死で抵抗する。
その様子を見ながらシュミットは笑いながら
手をいている。
「ごほごほ…すんませんでした、ビテル隊長。それで用ってのは?」
「任務の更新があってな。今から出るぞ」
それは唐突な話であった。今は次の作戦までの待機時間である。
「それってどれぐらい時間かかるんですかね?」
場合によってはこの新兵達は次の作戦を彼らだけで遂行することになる。それは避けたい。使者1体に20人かかりで2時間など、先ほどはまだ余裕があったから良かったものの、次からの作戦では他の部隊の荷物にしかならない。
「大丈夫だ。俺達の隊は次の作戦、補給拠点、つまりここの警備だ。このメンツがいなくてもまぁ、保つだろ」
シュミットが苦笑しながら言うが彼も新兵を残すことに何か思うところがあるらしく歯切れが悪い。
「心配ない。この近辺に太陽光変換施設があるらしくてな、そこが使い物になるかどうかを調査して来いとの事だ。」
「それなら調査隊の連中を出せばいいんじゃないですか?」
「次の作戦の為に全部偵察と斥候に出てるよ。ほんで、施設に近い部隊のうち術士がいるのがウチだけだったみたいでな。」
ビテルは言いながら立ち上がるように促す。
先ほどから幕舎の外でエンジン音が聞こえていたのだが、まさかこのまま行くつもりなのか……
ここらで1つ錬金術について説明しよう。
ミネルズの魔術形態で錬金術を実行するのに必要なエネルギー源は実に単純であった。
熱量である。
錬金術を使う者は皆、己の体内で生成される熱量をエネルギーとして術を行使する。
が、錬金術を行う為の熱量の調整は人間の演算能力を超えたものが必要とされた。その為に遥か昔は錬金術は一部の限られた天才達の特権であった。
それを革命したのが電脳結晶の登場だ。
体に埋め込む事で必要な熱量の調整を自動で行うオーブは瞬く間に普及した。もちろん万人が使えるという訳でも無く、体質の合致などが必要になったが昔と比べると錬金術はるかに多くの人間が扱えるようになっていた。
そして錬金術の普及により様々なモノが発明された。
太陽光変換施設もその一つ。
錬金術士が必要とする熱量を術士本人ではなく太陽光を用いようという発想だ。変換施設で作られた熱量は様々な生産設備に送られ、人々の生活を支えた。
この施設の多くが混沌との戦いで失われた事で人間の技術水準は一時後退せざるをえなくなってしまったのだ。
施設に入ってすぐ、3人は問題に直面していた。
「ストップ。この先は危険ですね、一旦さっきの階段まで戻りましょう。」
イングが制止した通路には一面に水が溜まっていた。とはいえ、精々がくるぶし程度、別段問題はないはずだが。
「なんで危険なんだ?この先の扉開けたら水が押し寄せてくるとかか?」
シュミットとビテルは怪訝な顔をしている。
変換施設について錬金術に携わる人間には広く知られているが、普通の人間は太陽の光で水を沸かす場所、くらいの認識しか持たれていない。
「設備を動かす為に電気が使われてるんですよ。もし、この先で漏電していたら水を伝って感電……下手すりゃ死にますよ。」
「マジかよ。」
通路に溜まった水を戯けた風に眺めるシュミットの様子に溜息を吐いてビテルが尋ねた。
「だが、この先にいかないと施設が使えるかどうかわからないんじゃないのか?」
まさにその通りであった。
施設の状況を確認するため、手っ取り早く制御室に向かうつもりが早くも壁に衝突である。
しかも、設備の構造上この通路を通らないと制御室には辿り着けない。
「こっちがダメならサブが…いや、でもさっき隔壁が降りてたから多分向こうも無理ですね。」
代替案もここに来るまでの通路の状況からほとんど潰されている。
「面倒だな。戻って報告するにしても、さすがに手土産の1つでも無いってのは、ん?どしたイング。」
「気になる事があるなら報告しろ。俺達じゃこの施設の事はよくわからないんだ。」
「いえ、ちょっと……」
2人に促され、イングは施設入った時から感じていた違和感を口に出した。
「普通に考えて真っ先に隔壁が閉じるべきメインの制御室への道へは行けるのに普段使わないサブコントロールの隔壁は降りてる、事故に備えて強度があって錆びる心配の無いヴェルニコン製のパイプ、もしくは水槽が壊れている…」
「おい、冗談じゃねぇことを言うなよ?それはつまりよ」
「【何か】があったという事か」
ビテルが言ったその時であった。
通路の向こうから水音が聞こえてくる。溜まっているだけだった水を何かが移動してくる。
「東の方の諺曰く口は災いの元」
珍しく遊んでいるような口調のビテルであったが、目は笑っているはずもなく。
3人は音を聴くと同時にそれぞれ武器を抜き全速力で走っていた。
爆音!
不意に側方の壁が爆ぜた。
ビテルは通過した後、シュミットとイングは通過する前だったので爆発に巻き込まれる事は無かったが代わりに見事に分断された形になった。
爆ぜた大穴から案の定使者が湧き出てくる。
乱杭歯を覗かせたA型が3体。そして、その後ろに不気味な単眼を輝かせたB型が佇んでいる。
A型が近接戦ならB型は遠距離戦である。
その単眼から放たれる熱線は大概のモノを溶かし尽くし、その射程は500m近いと言われている。
A型に比べれば貧弱だが、ある意味A型以上に危険である。
3体のA型はそれぞれに標的を定め襲いかかってきた。
狭い通路であり、それぞれが動き回る事を考慮すると必然的に射撃が封じられた形になる。
「面倒な真似を!」
正面で腕を振り回す使者相手にイングはなかなか善戦していた。
「だけど残念だったな」
機を見て接近。
左手で肩口に担ぐように構えたファイアハンガーを振り下ろす。いくらA型が鈍重とはいえ大振りな攻撃は避けられてしまった。したしこれは別段当てるつもりはない攻撃だ。振り下ろした姿勢のまま切っ先を上げる。狙いはその馬鹿でかい口。
トリガー!
ばら撒かれた散弾をモロに食らってよろけたのを見ると、イングは一気に床を蹴った。上げていた切っ先をそのまま前に突き出すだけの簡素な刺突。剣はA型の大口の少し上、人間で言えば盆の窪を貫いた。
「でぇぇりゃぁぁ!」
体重をかけてその薄気味悪い体躯を引き裂いてやる。使者の筋力に押し負けて止まった所でイングはさらに引き金を引いた。
1発、2発、3発。
散弾は使者の体内を荒れ狂いズタズタに食い破る。
近接攻撃からの零距離射撃はツェンタウアコンボと呼ばれる高等技術であり滅多に使う人間はいない、使える機会もなかった。
使者が完全に消散したのを見届けてから辺りを見渡す。ビテルとシュミットも単体のA型風情に遅れをとるはずもなく、それぞれ敵を倒したところであった。
「B型はどこに消えた⁈」
ビテルが壁に開けられた大穴を覗き込んでいる。放っておけば今にも飛び出して行きそうな勢いだが、闇雲に動き回っても時間の無駄にしかならない。その事をビテルも重々承知しているか痕跡を探すだけで留めていた。
「どっちにしろ、使者がいるんならここは使えないだろ。ビテル、とっとと帰ってやった方があいつらの為だ。」
言いながらシュミットは既に来た道を戻ろうとしている。
「俺も賛成。下手に長居して閉じ込められでもしたらシャレになりませんよ。」
シュミットに賛同してイングも道を戻る。使者があとどれだけ潜んでいるかわからないこの状況では探索を続ける事は余りにリスクが高すぎる。ここを使おうと思ったら完全武装の2個小隊ぐらいで調査しなければ危険だろう。
「……どうせ任務は使えるかどうかの確認だからな…使えないとわかった以上は時間の無駄か。よし、急いで戻ってやろう。あと50時間はほどあるからお前らも休息しといた方がいいだろうしな。」
「賛成、いい加減眠くて仕方ない」
ビテルの決定に異論があるはずもなく、3人は駆け足で着た道を戻っていった。
始まった作戦の最中。
兵士達はあまりの状況に絶望していた。今まで行われてきたどの作戦よりも敵の数が多い。そして……
「糞が!なんで効いてねぇんだ!」
既に100発以上の熱量弾を消費したビテルが喚いた。つい数十時間前までは効果を発揮していた熱量弾が殆どダメージを与えていない。
それは他の兵士も同様で、フォルクス軍だけではなく、参加している各国の軍で起こっていた現象であった。
「接近戦は通じるみたいだけど……お前ら!無理はするな!少し退いて退路の確保をしておけ!」
イングが前方で密集体型を取っていた小隊員達に声をかける。
補給拠点にまでかなりの数の使者が押し寄せている。これは前線はほぼ間違いなく崩壊したと見ていいだろう。
辛うじて剣での攻撃は通じるが使者に剣の間合に近づく事は技術とかなりの度胸を要する。新兵ではまず近づけないし、慣れた兵士でもあまりやりたがらない。
『ビテル!ここはもうダメだ!捨てて逃げるぞ!』
通信機からシュミットの声がする。
見張り台からの援護射撃に徹していた彼は今、基地を包囲しつつある使者のそのあまりの数を視認し生き残る事を優先しようと考えた。
『ダメだ。まだ3つの大隊がこちらに向かっている。ここを落とされると彼らは完全に取り残された事になる。』
「だからって俺達が死んだら意味無ぇっつぅの!」
効力を無くしたファイアハスターを構えなおしシュミットは狙撃を再開した。たとえダメージにはならなくてもまだ注意を逸らすぐらいの役には立つ。まだ退けないならその時が来るまで少しでも多く生き残らせてやらねばならない。
「少しは収まったか……」
これで何体目だろうか。15体を越えたあたりから切り捨てた数を数えるのを辞めている。
ビテルは使者の消散を確認し、次の敵を探し走った。
味方大隊の撤退を確認するまではここで時間を稼ぎ続けなればいけない。物陰に隠れていたB型の単眼にファイアレイピアを突き立てつつその視線は既に次を定めていた。走る、走る。走り様に手近な使者は片っ端から斬りつける。
少しでも自分に。
貴重な部下を失う訳にはいかないのだ。
他人の命は重すぎる。目の前に転がってきた隊長補佐官の首を見てイングは激していた。
彼はまだ17であった。彼には故郷に家族がいた。今まさにA型が手にかけようとしているその隊員は生還し家業を継がねばならない。故郷には恋人もいると言っていた。
「逃げろ!」
振り下ろされようとしていたA型の腕を斬り捨ててイングは叫んだ。
死にたくは無い。だが、目の前で死なれたくもない。
自嘲するほどに安い正義感で彼は全ての味方を救おうと動いていた。
第一の異変に気付いたのはビテルが最も早かった。彼が冷静に積極的に敵の集団を駆けていたからである。
「急になにが……?」
使者の動きが止まっていた。
今まで攻撃を行っていた個体も、そうでない個体も。さながら出来の悪い悪魔を模した彫刻のように。
第二の異変を確認したのはシュミットであった。
「逃げろ!混沌だ!」
使者の大群、その一角が寄り集まり何か黒い塊になった。
それが何なのかなど、分かりきっていた。
この世界を蝕む害、混沌。触れたモノを蝕みやがて同化する飽食の化け物。
通信機に向かってその存在を叫んだシュミットは普段の冷静さを欠いていた。
「ここはもうダメだ!使者の奴らが混沌に化けやがった!じきにアレに呑まれる!急いで」
通信機は不意にそこで途切れた。
「シュミットォォォォ‼︎」
突如空中から現れた混沌に見張り台は飲み込まれていた。
それは一瞬の事で、中の人間に何が起こったのか知覚する暇もなかっただろう。
「撤退だ!走れ!」
イングが叫んでいた。
「撤退ってどこに⁈あんなのからどうやって逃げれば⁉︎」
「とにかく走れ!ここに入れば間違いなく混沌に呑まれて死ぬぞ!」
周りの使者が動きを止めたのはその為だった。今や使者は形を無くしたただの何かでしかない。
その何かが互いに互いを吸収しそして空間を呑んで肥大していった。
「ビテル!聞こえるかビテル!」
通信機は何の応答も返さない。
予想は簡単にできた。ビテルが使者の群れに突っ込んでいったのを見ていたから。
「ふざけやがって……」
やり場の無い憤りを抱いたが、それをぶつけるモノは無い。
それよりも今は動ける新兵を連れて少しでも遠くに逃げる事が先決であった。
そして最後の異変が起こる。
それに気付いたのはイングの支持に従い逃げ出した兵の1人、正確にはその兵士を見た兵士であった。
補給基地から東へたった3kmほど走り、その兵は立ち止まった。後続の兵の大半は気が抜けてしまったのだと思いその兵を無視した。だが、1人の兵は疑問に思い声をかけた。
「おい、気を抜くにはまだ早いぞ。もっと遠くに……遠くに逃げるんだ。」
「……は、はは…逃げ、る?なに、何を……」
声をかけられた兵は震えていた。
「……だったんだ」
「? おい、今なんて?」
「むだだったんだって!言ってんだヨォォォォォォ‼︎‼︎」
錯乱して掴みかかってきたそいつを振り払おうと腕を掴み、そして、【理解した】
「あ、あああぁぁぁ……」
同胞に首を絞められながら漏れる慟哭は仲間の変わりようを嘆いたものではない。
周囲にいた仲間にも【理解】は伝播していく。
ここだけではない。遠く離れた彼らの故郷の人々も。
この世界の住人全てが。
イングとて例外ではなかった。
部隊の大半はたかだか2kmほどしか補給基地から離れていない。
理解に襲われ動けなくなった隊員達を近くの廃墟までなんと運び込み、座り込んだたころで再び強烈な悪寒に襲われた。
「くそ、くそくそくそくそ…!」
混沌、そして使者。
今まで世界にとっての害悪だと思い戦ってきたもの。それは世界のリセット装置だった。
この世界の容量が不足したのだ。このままでは致命的な破綻を起こす。
そうなる前に全て一からやり直す。世界の意思とやらはそう決定したらしい。
「巫山戯やがって……なら……なら今までのはなんだ。何の為に……」
熱量弾が効力をなくしたのはその為だ。
今までは自分達がこの世界の在るべき存在だった。リセット装置とはいえ、すぐに効果を発揮する訳ではなく、その存在の許容には少しのタイムラグが必要だった。今までがその時間。
存在が許容されればその在り方は逆転する。
在るべきは混沌に。
自分達は削除対処に。
「全部無駄だってのか…こんな…こんなモンを無理矢理分からせて…自分から死ねってのか‼︎」
じきに剣さえ効かなくなる。
今までの戦い、その全てを否定される。
存在を否定される。
理屈では無い。感覚では無い。
存在が、存在を否定する。
強い人間であればこの事態を打破する為に動くだろう。
自分達はその努力の無駄を知った。同時にこの事態の元凶を知った。そしてそれがどこにいるのかも、どうやれば辿り着けるのかも。
混沌の中を進むなど、至難ではあるが、各軍の英雄と呼ばれるような人間が協力すれば可能性はある。
だが、イングは強くはなかった。
何をやっても無駄とわかり、まだ抗えるほどの気力は無い。本当に起こるかどうかもわからない人が起こす奇跡に縋るほどの希望も湧かない。
ならいっそ、ここで自害して苦しみから逃れよう。
思いたつや否や、イングはファイアハンガーの切っ先を自らに向けていた。
「………こ…の……」
切っ先を見つめてイングはその手に力を込め喉を。
「このヘタレ野郎が!半端野郎が!くそ!くそ!くそ!最低の野郎がぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」
貫けなかった。
手が震える。死んだ方が楽だと思うくせに、この後に及んで死ぬのが怖い。
剣を投げ捨てイングは拳を瓦礫に打ち付けた。
その行為さえ全力ではなく、手に伝わる痛みは自己嫌悪を増加させた。
「あの、イング少尉……」
「なんだよ、介錯でもしてくれるのか?」
おずおずとやったきた隊員に八つ当たりする。あぁ自己嫌悪しか湧かない。いっそ本当にこいつに斬り殺してもらえれば……
「こ、これを……」
差し出された通信機を見て、イングは訳がわからなかった。こんなものが今更何の役に……
『これより我々はツェンタウア中佐、ビスケル少尉、ラングラー大尉、ウェットマン少将、ニシザヘル上級大佐、ロクレス特務隊員を中心とした決死隊のもと、混沌の核への突撃を……』
聞こえてきて声が伝わる内容にいよいよ気が狂ったかと疑った。
確かに先ほど自分は思った。
各軍の英雄クラスが集まればあるいは可能性はあると。だが、都合良く団結などするはずが。この状況で戦う意思の残っている者などいるはずが。
『各員へ告げる。その在り方を証明せよ。何の為の戦いか思い出せ。 これより作戦を開始する。青い空の下で再び会おう。』
その一言は、戦意を震わせるには圧倒的に足りない。
だが、今までの状況を払うきっかけとしては十分であった。
「少尉。自分には、か、家族がいます。嫁さんと子供が……ここで逃げたら、俺は、俺はあいつらを殺した事になる。だか、だから行きます。」
通信機を持ってきた隊員はそう言うとイングに一瞥もくれずに使者へと向かっていく。
震えていた泣いていた。
なのに何故戦う?
『在り方を証明せよ』
しかしもう、何もかも無駄だったのだ。
否。
まだだ。
まだ生きているのではないか?
あの勇敢な隊員の後を追い、1人、また1人と新兵どもがバカをやる。
変わらないかもしれない、無駄かもしれない。逃げたい、楽になりたい。
でも、嫌だと言うのだ。
ここで投げ出せば、それは本当に今までの意味を無くすから。
「なんの為に……なんの為だと思ってんだ。……このバカが……」
もう一度瓦礫を殴る。だが今度は間違いなく全力であった。右手は間違いなく折れて使いモノにならなくなった。しかし不思議と痛みはなかった。
投げ捨てた剣を取る。
そしてイングもまた、走った。
「バカが!下がれ!」
飛び出していった兵士達に追いつくと、片っ端から廃墟へと蹴り飛ばす。
「戦場で女子供の話をする奴はなぁ!死ぬんだよ!」
通信機の兵を見つけ、イングは怒鳴りつけた。使えなくなった右手でその兵士を背負い投げる。
「下がれ。下がって動けない奴らを守れ」
「少尉、あなたが死にます!」
「フラグだな。そう言われた奴ほど意外と最後まで生きてんだぜ?」
冗談が言える。ならまだ大丈夫だ。
自分の状況を驚くほどに楽観しながらイングはもう振り返らない。先ほどまでの諦観がやってくる前に、一歩を踏み出す。
「俺はまだ女抱いた事がないんだよ、死ねるかっての」
手近な使者へと走った。走って斬った。斬って走った。
ひたすら前に前に。少しでもこいつらの注意を自分へと引くために。
何か言われている気がしたがもう聞こえない。
そして
『空を見上げよう』
歌が聴こえる。
『青い蒼いこの空を』
随分と懐かしい歌だ。これは確か俺がまだ子供の時に流行ったやつだ。
『この空をどこまでも。この空はどこまでも。僕らを優しく包んでくれる』
「目を開けよう。立ち上がろう。僕らの旅はまだ終わらない。始まっていない旅は終わらない。」
懐かしい。こんな昔の歌を聴いた事も驚きだが、歌えた自分にも驚きだ。
あぁ、そうだ、目を開けよう。せめて自分が成した事を見届けよう。
「ふ、ふふふふ…あはははははは!」
自分の状況を確認した。
腹部は瓦礫で瓦礫に縫いとめられている。
手足は殆どない。黒い何か。混沌によって侵食されている。今この時も段々と短くなっているから、この侵食は始まれば終わらないのだろう。
視界も8割ほど無い。声も先ほどと比べるとだいぶ歪だ。音も遠い。
正直、痛みで発狂していないのが奇跡だ。
あぁ、奇跡だ。あまりの感動で笑いが止まらない。
「はははははははははは!あっははははははははは!空だ‼︎青い空だ‼︎はははは!やった!やりやがった!さすがは英雄様だ!あっははははははははははははははははははははははははははははははは‼︎‼︎‼︎」
欠けた視界に青く光る空は何年振りの景色だろう。
歌だ。歌を歌おう。
先ほどまて聴こえていた歌。
誰がと疑問に思ったがなんの事はない、自分自身だった。
「青く輝くこの空に、僕は翼を広げよう!」
向こうから見慣れた顔が幾つも駆け寄ってきた。
「ははは、生きてたか。」
「しょ、少尉…」
「あぁ、ま、凡人はこの様だよ。良かったな、あのまま突っ込んでりゃお前がこのザマだ。」
「えぇ、それだと嫁と娘に見せれませんね……」
「だろ?……まぁ心配すんな」
流石にこのザマを見たら誰だってそうなるだろう。指差して笑えと言われても無理がある。
「さっき言っただろ?死ぬって言われた奴は最後まで生きてるって。こうしてエンディングまで生きてたんだ。褒め称えてくれよ」
「えぇ、流石はチャリオット・イング少尉です」
そう言ってそいつが敬礼すると集まっていた他の奴らも最敬礼を見せてきた。
「さてと……目一杯の勇気使ってそろそろガス欠なんだ。ちょい寝るわ。」
『光に羽ばたく旅人よ、どこまでもどこまでも』
イングの体は砂の結晶のように崩れていく。
文句は無い。
なかなか満足する最後だ。
心残りがあるとすれば、平和な世界を見れない事だが、この青空で満足だ。
『終わりなき旅路をどこまでも、どこまでも。高く高く旅立って行こう。旅立って行こう。』