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『弁当はお母さんが作るんじゃないの?』
ディスプレイの裏側、そんな文字が、黒く浮かび上がる。
雨の降らない日なんてあるの?
当たり前のことを訊ね返すように、画面の向こうのあの人は、この言葉を投げかけた。そうに違いない。彼女の顔を想像することは、容易い。
嫌悪感が、ぞわり、胸をまさぐる。
母を、家族を、何やら馬鹿にされた気がした。
整った私の家庭は、実はとっくの昔に歪んでいたこと。それを、暴かれた。暴かれて、安いゴシップ記事にまとめられたような、そんな感覚。
『弁当はお母さんが作るんじゃないの?』
新聞の大見出しにでも、次回予告の煽り文にでも、なってしまいそうだ。そのくらい軽くて、大きな言葉。
胸のむかつきが治まらない。静かに凪いだ、いつもの心は、どこかへ行ってしまったらしい。自分で、自分のことが、わからなくなる。
言葉は暴力だ、なんてよく言ったものだ。
ひとり、キーボードの上に寝そべる。うずくまる、と言っても間違いではない。ひやりとした凹凸が、頬に触れる。その感触に身を任せて、ゆっくりと瞳を閉じる。
想像した。
返信の内容を、想像した。残飯をひっくり返したみたいな、汚い言葉。私が書いたとして、それをあの人に投げつけたら、どんな顔をするだろう。
いや、いっそのこと、彼女本人に会って、大声で罵ってやりたい。そして、彼女の弁当を奪って、真っ逆さまにひっくり返してやりたい。綺麗な指に持たれた箸が、わなわなと震えるのを、想像する。
想像なのに、笑える。目をつぶったまま、へっ、と嫌な笑い方をしてみた。少し、胸が軽くなる。
身体を起こすと、ディスプレイはスクリーンセーバーを映し出していた。それほど長い時間、伏せていたわけではないのに。
マウスを動かし、メール画面に戻る。適当に言葉を見繕って、適当に縫い合わせて、返信する。どんな言葉を選んだかなんて、忘れた。
本心ではないから、すぐに、忘れた。
私の家には、父がいない。
「この家ではね、泥棒を飼っているのよ」
数年前、母が言っていた。まだ、父を家に飼っていたときだった。
私の父は、万引きと飲酒運転の常習犯で、よく警察に捕まっては、白バイで補導されていた。
「こんな夫なんていりません、どうか刑務所にでもどこにでも、放り込んでやってください」
「これは、あなたの家族ですから」
母が願っても、警察は、何としてでも父を家に押し戻そうとした。『無理やりにでも、泥棒を家の中で飼いならしてください』と、遠まわしに言っているようなものだった。
警察官が、『これは』だなんて、父を人ではないように扱っていたことを、よく覚えている。いや、警察官だけではない。母も、そうだった。母も、父を人間だとは、思っていなかった。
初めて父がいなくなったのは、私が八歳のときの、夏。
失踪した。蒸された夜の匂いと一緒に、自営業に失敗した父は、逃げ出した。
その次に父を見たのは、買い物先で見かけたパトカーだった。父のしょぼくれた背中が、パトカーの後ろの窓から見えた。家に帰ると、白バイが家の前に止まっていて、父が補導されていた。このとき、何だか面白おかしくなってしまって、妹と二人、笑った。
最後に父がいなくなったのは、私が十二歳のときの、夏。盆の間に、幽霊と入れ替わりにどこかへ行ってしまった。神隠しにあったみたいに、行方知れずのままだ。あのとき以来、父とは会っていないから、父の生死に関する正確なことはわからない。
その頃には、父と母は離婚して、父の戸籍は母の手によって完全に抹消されていた。
私の家族の絆は、固い。泥棒が家の中にいるという心構えで、家族四人で頑張ってきたからだ。兄、私、妹、母。それで完成している。互いが互いを支えて、協力して、同居人としての仕事を全うしている。
父は、ペットか何か。泥棒の、汚い生き物。泥棒猫と呼んでも良かったけれど、女性を連想させたので、やめた。
父の犠牲の上に成り立った、歪な家族。
それでいて、気味の悪いくらいにバランスのとれた、整った家族。
不満があるとすれば――あるとすれば、なんだろう。思いつきもしない。けれど、無いわけではないと思う。家族のことを、その後ろにいる父のことを思い出すと、胸のどこかがざわついて、冷静ではいられない。怖くなって、考えを逸らしてしまう。考えていたら、幸せが逃げていきそうだ。だから、考えない。
メールボックスに、新たに一通のメールが届く。宛先人に、あの子の名前。
佐伯さん。
未読を示す通知。無視して、パソコンの電源を切る。
強制終了。デスクトップは黒になり、鏡となって、私の顔を映し出した。
やつれた目をした自分と、目が合い、ぎょっとする。
今日はもう疲れているんだ。
そう思い、ベッドに倒れ込んだ。
改善点、誤字脱字等何かありましたらご連絡いただけると嬉しいです。