北陸飛行機
1940年10月 敦賀
北陸飛行機の社長、畠山隆平と主任設計技師、戸田幸助は溜息をついていた。
「さて、弱ったな・・・」
「といってもどうするんです?こんなもの引き受けて!」
「いや、どうするもこうするもないだろ、やるだけはやるさ。」
北陸飛行機は福井県は敦賀に社屋を構える小さな飛行機組み立て会社だった。
第一次大戦後、畠山の手によって作られたものの、あまりの仕事のなさからいまにも倒産寸前であった。
そのため、社員一同が日々の金策に走り回るという日常が続いていた。
社の実績としては一応中島の95式水上偵察機の組み立てなどを担当したことがあったがそれだけであった。
しかし、1939年、彼はどこからか海軍の次期水上戦闘機の開発計画を聞きだしてきて、千載一遇というかこれに全てを賭けて試作に参加することとなったのだった。
もっとも、今にも倒産寸前な上に一度も飛行機を開発したことなんてないので、「開発資金は自前でヨロ」っていわれた。
当て馬になるのは明らかだった。
おまけに、海軍からの注文は滅茶苦茶なものであった。
最高速力:高度5,000メートルで時速310ノット(574km/h)以上
航続距離(時間):巡航速度で6時間以上
武装:20mm機銃×2及び7.7mm機銃×2 または 13mm機銃×2及び7.7mm機銃×2 または 7.7mm機銃×4
爆装:30kg爆弾×2
である。
ちなみに当時日本で最新鋭の戦闘機であった零戦二一型は速度530キロそこそこ
つまり、最新鋭機以上の能力を水上機に付与しろということであった。
正直勘弁してくれといいたい。
「開発資金だってほとんどないも同然なんですよ?」
経理課長の遠藤修平がいった。
「わかっている。できる範囲で何とかする。」
「何とかってどうするんですか!?エンジンだって只じゃないんですよ!?」
「・・・当ならある。」
それだけ言うと、戸田はどこかへと出かけていってしまった。
さて、それから半月が経過した。
社員達は今日も金策に走り回っていたなか
唐突に畠山が帰ってきた。
「ただいま、エンジンを持ってきたぞ!」
といって出したのはドイツ製の液令エンジン、ユモ211F-2だった。
「・・・どうしたんです?これ。」
戸田が恐る恐るたずねた。
すると、畠山はよくぞ言ってくれましたとばかりに話し始めた。
「大陸戦線で支那がソ連やらアメリカやらの戦闘機やら爆撃機を運用しているのは知っているな?」
「・・・ええ、靖国神社の博覧会でも戦車やらがありましたね。」
「で、だ。こいつを積んでいた爆撃機は今年の7月ごろに対空砲火で落されて、回収されて検分された後そのまま陸さんの倉庫の奥でおねんねしていたんだが、それを大吟醸の変わりに貰ってきたのよ。」
どうだ、すごいだろ!
ガハハ・・・と笑う畠山を見て、戸田と遠藤は思わず溜息をついた。
「しかし、量産するんでしょ?」
「大丈夫だ、問題ない!量産が決まってからエンジンをコピーすればいい!」
無茶振りにも程があるだろ・・・
二人は再び溜息を付いた。
しかし、兎にも角にも設計がスタートした。
金は遠藤が銀行を回って金を借りてきたのと、金庫に残っている金をかき集めて対応した。
ベースとなるのは、さっきも言ったようにかつて同社で生産していた95式水上偵察機を利用した。
中島が事故で生産が一時ストップしたため、その代替としてということで、畠山が仕事を貰ってきて生産したものであった。
それでも15~6機程度だったが。
しかし、この機体。
戦闘機としてのある程度の格闘能力が存在していた。
そのため、水上戦闘機として運用するならばそこそこ優秀な戦闘機であるといえた。
戸田は欧州のバトルオブブリテンでの戦いや世界中で製作されている戦闘機の情報を見るにあたって、これからは高速かつ一撃離脱を主体とした戦闘機が中心となっていくだろうと考えていた。
そのため、畠山がかっぱらってきた液令エンジンをテストした結果、1300馬力を発揮していた。
この大出力エンジンを利用すれば優秀な戦闘機ができる・・・
そうかんがえたのだった。
ただ、これだけではやはり時代遅れの感じが否めなかった。
また、水上戦闘機というものは普通の地上戦闘機に比べてフローとがある分速度と機動性に難があった。
その上、畠山は「より多くのニーズにこたえるために戦闘だけじゃなくて、空爆や偵察にも運用できる機体にしよう!」
と宣言していた。
正直某チョビヒゲ並みの無茶のオンパレードであったがもうやけくそである。
よろしい、ならば開発だとばかりに戸田は航空機の飼料をあさりまくった。
そこで、次に目をつけたのが、海軍がかつて購入したHe113爆撃機だった。
これはドイツのユンカースJu87スツーカの競合としてハインケル社が製作したものであったが、競合に敗北した結果、日本海軍に購入され実験機として運用されていたものだった。
奇しくも、愛知時計電機ではこれをモデルとした十三試艦上爆撃機(彗星)が開発されていた。
戸田はこの二つの機体をモデルとして設計を行うこととした。
ただ、問題がいくつかあった。
その中でも最大のものが航続距離であった。
翼内燃料タンクだけでは十分な量にはならずせいぜい1000キロくらいしか飛べない。
そのため、増槽ということで、新たにフロート部分にも燃料タンクを設けることとした。
ただ、フロート部分に被弾した場合、一瞬で火達磨になる可能性もあったために、一応フローとの切り離し装置も搭載することとなった。
他に、フロート部分の重さと空気抵抗のために速度が落ちると予想されたが、1300馬力が発揮可能なユモエンジンならば十分に500以上は出せると考えられた。
空気抵抗を減らすために機体を徹底的に細くし、速度を稼げるようにした。
また、カタパルトからの発射を想定し、頑丈な機体となった。
武装には零戦と同じくエリコン20ミリ機銃二丁と7.7ミリ機銃三丁が搭載されることとなり、爆弾も60キロ爆弾二発が搭載可能となった。
また、偵察機としての機能を持つべきとの畠山の声にこたえて乗員は2人乗りとした。
結果、ドイツの急降下爆撃機と日本の水上偵察機を掛け合わせるという訳の分からないごった煮のようなものが出来上がることとなり、
外見は彗星を水上戦闘機化したというわけの分からないものとなったこの機体は「寒風」となずけられた。(当初は雪雲や極星という候補もあったが。結局こうなった)
こうして、半ばヤケクソに近い感じででっち上げたものであったが、一応機体そのものは1941年の7月に完成するという超スピードでの出来となった。
後は実用試験の結果を待つばかりとなった。