表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

朱に交われば赤くなる

作者: 葉川柚介

 嶋内真子。

 彼女の名前は、近隣の同年代ほぼすべてに知れ渡っている。


 170cmを越える女性にしては高い身長。すらりと伸びたスマートな手足はほっそりとしていて、出るところは出たスタイルも良い。長くまっすぐな黒髪に似合うきりりと引き締まった怜悧な相貌は、高校生にして既に大人の女性の風格を漂わせる美女である。



 が、彼女の二つ名<レッドリップ>を知る者はまた別の感情をその名に想起する。


 知的な令嬢とも見える彼女の顔の内側には熱く激しい気性が潜む。

 中学生のころから札付きの不良としてならし、立ち会ったケンカは数知れず。長い手足をひとたび振えば、女だてらに男の不良共を鼻血の海に沈める凶器に変わる。

 中学時代の武勇伝に曰く、「中学入学と同時に付近の学校を全部シメた」「高校生を殴り飛ばした」「相撲取りみたいな男子を片手で吊り上げた」などなど。そんな噂を否定もせず、事実ケンカを売られれば買って勝つところを何度か目撃されれば噂は事実と認識されるのも当然のこと。

 白い肌に浮かぶ鮮やかな赤い唇は殴り倒した不良共の返り血を口紅にしているからだ。二つ名が恐怖とともに囁かれるのに時間はかからなかった。今や、彼女が歩けば誰もが自然と道を開ける。



 ただ、一人の男を除いては。



「あ、真子さん。おはようございます!」

「……っ! お、おはよう、松太郎」


 朝の登校途中。人睨みするだけでモーゼのごとく人波をかき分け歩く彼女に、後ろから声をかける猛者がいた。

 真子だ、レッドリップだ、目が合ったら食べられる、と半ば本気でおびえながら道を開けていた生徒たちはそんな勇者がいたことに驚きをもって振り返る。どれほどの勇気を持った者が、彼女の鉄拳の前に顔面陥没する覚悟で声をかけたのか。

 あいにくと、そんな先入観に染まった生徒たちは真子の声がまるで年相応の女の子のように弾んでいたことに気づけない。


 振り向く真子の目に映るのは、彼女より幾分背の低い少年だった。

 彼の名前は小林松太郎。こう見えて真子と同い年の、れっきとした同級生である。


 後ろに立てば問答無用で殴られる、と誰もが恐れる真子と朝の挨拶をかわし、その隣に平然と並び立つ彼の胆力には驚嘆の溜息をもらす者も多い。あの<レッドリップ>によくも声をかけられるものだ。見るがいいあの今日も変わらず赤い唇を。不良を殴り倒すたび、喜悦に口が裂けたかのような笑みを浮かべる朱の色を見るがいい。

 今も小さくか弱い獲物を前に舌なめずりを……!


「今日は寒いですね、真子さんは風邪とか大丈夫ですか?」

「ああ、私は生まれてこの方風邪を引いたことがないのが自慢なんだ」

「へえ、すごいです! でもだからって油断しちゃダメですからね」

「そ、そう……だな」


 ……していなかった。松太郎の言葉にむずがゆそうに、なんかもごもご動いてる。

 その様たるや、あのレッドリップに限ってありえないことだが、まるで憧れの人に声をかけて抑えきれない喜びに震える少女のようだ。この有様を見た同じ学校の生徒たちはみなそう思い、その「ありえない」と切り捨てた認識が事実であると知る者は、残念ながら一人もいなかった。

 真子と松太郎を、含めて。



「……というわけでな。今日も松太郎は元気だったぞ」

「あ、そー」


 朝礼後、休み時間。真子はケンカっ早いが無駄に秩序を乱すことを良しとするほどの不良ではないので、当たり前のように教室にいる。クラスメートにすら恐れられているのでほぼ友達はいないのだが、まったくのゼロというわけではない。今話しかけているのは昔からの知り合いであり、真子が世間一般で言われるほど恐ろしい人間ではないと知っている。


「……どうした、莉子。変な顔をして」

「や、それでいいのかなと思ってさ?」


 彼女の名前は橋本莉子。見た目だけなら古風で和風な真子に対して、彼女はイマドキのギャルっぽい雰囲気を全身から発散している。ふわふわの茶髪に教師から注意されない程度のメイク。社交性の高さと気やすい性格は真子と正反対にクラスの誰からも慕われている。とはいえ、人を舐め腐った無礼者ではないのだが。もし舐めた態度を取っていれば、真子は友人だろうが即座に拳で黙らせる。


「それでいい、とはどういうことだ。松太郎も元気なのだから、まるで問題ないだろうが」

「真子がいいなら別に私もいいってこと。毎朝うまいこと時間を合わせて松太郎くんとちょっとでもいっしょに登校できるようにしたりとか、それで満足できるなら。……でも、松太郎くんは結構女子に人気あるよ?」

「……なに?」


「……っ!?」


 休み時間らしいざわめきに満ちていたクラスが、一瞬で沈黙の底に沈んだ。

 真子の声に籠る百戦錬磨の殺気は、そこらの坊ちゃん嬢ちゃんにしてみれば、毒より恐ろしい恐怖そのものなのだから。早速気弱な女子生徒の目が裏返り始めている。


「はいはい、落ち着きなさいよ真子。もし松太郎くん狙ってる子の名前聞き出そうってんなら、あんたの本性松太郎くんにバラすわよ。私、松太郎くんのメールアドレス知ってるし」

「なっ!? ひ、卑怯だぞそれは!? 私だって連絡先は知らないのに!」


 しかしながら、幸か不幸かすぐにその気配は霧散した。長い付き合いで真子のマジギレにも慣れた莉子なればこその耐性と誘導術。これがあるから彼女はクラスでも飛び切り頼られる姐さんポジションにいたりする。


 そして真子もまた、さすがに自然と付き合いの長くなるクラスの中ではなんとなく彼女が抱える事情は大体お察しされているのだ。


 つまり、嶋内真子は小林松太郎が好きなのだ、と。


「わかってくれたみたいで嬉しいわ。でも私の情報は正確よ。……ほら、松太郎くんって小柄でかわいいけど、よく気が付いて優しいじゃない」

「ああ、よくわかる。一緒に歩いていると、さりげなく車道側を歩いてくれたりするぞ」

「真子なら車に轢かれるくらいなんともなさそうだけどね。ともかく、そんな彼を狙うライバルは数多いわけよ。……いいの、今のままで? そのうち松太郎くん誰かにとられるわよ」

「ううっ!?」


 莉子の断定。

 真子にとって松太郎への思いは生まれて初めての物であるから、恋愛の機微はわからない。触れていいのか、声をかけていいのかすらおっかなびっくりだ。

 一方、莉子はすでに彼氏がいる百戦錬磨の恋愛強者(あくまで真子視点)であるから松太郎を向く色目の数々に気づけたのだろうが、自分には誰が松太郎を狙う毒婦(くれぐれもあくまで真子視点)なのかわからない。

 ケンカの最中に相手の隙を見つけることなら得意なのだが、こういうことはさっぱりだ。

 いっそ恋敵が松太郎ないし自分の命を狙ってきてくれれば、その場で再起不能にすればいいだけなのに……っ。


「ど、どうしたらいい……どうしたら松太郎が誰かに取られなくなる!?」

「そう来ると思ったわ。大丈夫、簡単な解決法があるから」

「本当か!」


 おろおろと莉子にすがる真子。そのさまは年相応の少女を通り越してヘタレのようなのだが、あまり見ていると睨み返されて恐ろしいのでじっくり目を向ける勇気のある生徒はいないため、真子はいまだ結構怖い女の子で通っている。幸か不幸かはわからない。


 だがなんにせよ、今の真子自身にとってはこれこそが一大事。

 高校に入ってから出会い、自分を相手に物怖じせず接してくれる優しい松太郎。いつの間にか好きになっていた彼を誰かに取られることは真子にとってどうしても許し難く……だから、焦りに曇った真子の目は、莉子が浮かべる「滅茶苦茶面白いもの見つけた」と言わんばかりの笑みには気付かなかった。



「あんた、松太郎くんとデートしなさい」

「……はい?」





 そして、デート当日。


 莉子が言う解決法とは、「先手必勝。取られる前に囲い込め」であった。

 だからと言っていきなりデートなどと、と声を荒げて近くの気弱な女子を失神させる真子の剣幕もなんのその。慣れたものとばかりに莉子は真子を丸め込み、松太郎をデートに誘うよう仕向けたのだ。


 半ば騙された形とはいえ、決めてしまえば早いのが真子の長所。

 カチコミのような勢いで松太郎の教室に赴き、果し合いを申し込むかのような勢いでデートに誘ってきた。

 あまりの剣幕に、松太郎のクラスの人間はそれがまさしく果し合いの申し込みなのだろうと心の底から信じたほどで、よもやこれがデートのお誘いだと気付ける者はいなかった。


 当の本人たる、松太郎以外には。



「うぅ……こんな恰好で大丈夫なのか?」


 真子はデートの待ち合わせ場所に急ぐ。駅前のそれなりに目立つモニュメント前が指定の場所で、待ち合わせの時間にはまだ少し早いが真子の気はもっと逸っている。

 今日の真子の装いは、冬であることも相まって落ち着いた色合いのセーターとズボン、コートにマフラーというオーソドックスな出で立ちだ。

 松太郎相手ではそうでもないが、そこらの不良的な相手ならば、出会い頭に因縁をつけられ即座に手が出るケンカ上等な真子のこと。デートにふさわしい服装を自分で選べる女子力があろうはずもなく、これは上から下まで莉子のコーディネートであった。

 ちなみに、「下」とは下着のことまでも指していたりするのだが。


「じゃ、下着はこれね」

「ちょっと待て、なぜそこまで決める必要が!?」

「必要はないかもしれない。でも……あるかもしれないでしょう?」

「まっ、まさかそんな……っ!?」


 ともあれ、待ち合わせ場所についた真子はあたりを見渡す。その様はまさしくデートの待ち合わせに来た少女そのもので、普段の彼女の血風薫る武勇伝の数々を知る者であっても、いやむしろ知る者であればこそ、彼女が噂の最強不良少女とは気づけないであろう。

 実際真子自身、自分の爪が殴った相手の血で赤くなることはあってもマニキュアを塗って赤くなるなど初めての経験だ。

 待ち合わせスポットとしては定番なモニュメントのそば、もしかして既に松太郎がいたりするだろうか。それなりに時間には余裕を持ってきたからまさかとは思っているのだが。


 しかし。


「あ、いた……おーい、松太……郎……」


 なんと松太郎はそこにいた。

 冬の風にさらされて寒いだろうに、こんなに早くからいてくれた。待たせてしまったことは申し訳なく思うが、こうして思っていたより早く会えたことに嬉しくなった真子は早速松太郎のもとへ駆け寄ろうとして。


「ねえねえ、ちょっとくらいいーじゃん。お姉さんたちと遊び行こうよ」

「いえ、だから僕は人を待ってると……」

「気にしない気にしない。連絡入れておけば大丈夫だって」


 松太郎にたかる悪い虫を見つけた。


 松太郎より幾分背が高く、莉子よりはるかにギャルギャルしい女子高生程度の女が二人。あれはなんだ、いわゆる逆ナンというやつだろうか、とそういうことについての知識が乏しい真子は思う。無表情で。さっきまでの喜びがごっそり抜け落ちたかのような無表情で

 実際のところは、女の子達からしてみればちょっとかわいめの男の子を見つけたのでからかってやろうくらいの意識に近いのだが、それを知らな今子にとってはどうでもいい。

 問題は、これからデートする予定の松太郎にあんなのがたかっていることだ。


 松太郎のもとに駆け寄っていきたかったのに、気づけば真子の足は止まっている。背筋をまっすぐ伸ばして、意識的に一歩を踏み出す。感情が抜け落ちたような無表情で音もなく、松太郎を誘う女たちの後ろに立った。


「あっ、真子さん!」

「は、真子? ……ッヒ!?」


 勝手に体が引きつって、女たちは驚いたことだろう。背後にただ立つだけの真子が放つ本物の殺気というやつを、これまでの人生で感じたことがないならば無理もなかろう。さすがにただの女子高生でこれを受け止めるのは荷が重い。

 それだけならば、何がなんだかわからないだけで済んでいたはずだ。だが松太郎が口にした「真子」という名前。それを聞き、こんな異常事態に陥り、レッドリップの名を思い浮かべない者はこの町で生きていけない。少なくとも彼女たちはそう信じている。


 彼女らの脳裏に浮かんだ、自分たちが置かれている状況。

 それすなわち「レッドリップの男に手を出した」。惨劇の予感しかしない。


「あ、あああああのごめんね君。私たちちょっと用事あるから、これでっ!」

「は、はい。それじゃあ」


 彼女らの行動は迅速にして正しかった。振り向くことなく震える声で松太郎に別れを告げて、そのまま一目散にこの場を離れる。背中を伝う冷や汗と、首筋がちりちりするようなドギツイ視線の圧力を感じながらも足が動いて逃げられたことは、彼女ら自身にしてみれば紛れもない九死に一生の幸運だった。

 真子は松太郎の前で乱暴沙汰をするつもりはなかったので、少々大袈裟だったのだが。



「……わ、悪いな松太郎。待たせた」

「いえ、気にしないでください真子さん。僕がちょっと早く来ちゃったからなんですし」


 声ひとつかけることなく女を追っ払った真子の表情は、しかし暗い。松太郎はああして誘われて困っていたし、そうさせてしまった原因は間違いなく自分にある。松太郎の言うとおり待ち合わせには早いが、それでも、と思わずにはいられなかった。


「しかし……」

「あー……。それじゃあデート、もう出発することにしませんか? 今日は真子さんが行先決めてくれるっていうから楽しみにしてたんです。二人でたくさん楽しんで、それで良しとしましょう。ね?」

「ふぇっ!? ……あ、う……わ、わかった。それじゃあちゃんとついて来いよ!」

「わわっ、待ってくださいよ~」


 松太郎はよく笑う。

 誰かが笑っていれば一緒になって。沈んでいれば元気づけるように。分け隔てなく降り注ぐ松太郎の優しさの証明たるその笑顔は、真子にも変わらず注がれる。真子が好きになったものの第一は、その笑顔だった。

 決して忌避するわけではないけれど、人を殴って殴られてで荒み、自然と人を遠ざけていあ真子の心を温めてくれる優しい笑顔。どれほどの救いになったのか、のんきな笑顔の松太郎は知りもすまい。


 しかも今日は、松太郎とのデート。自分ひとりのために向けられたこの笑顔。真子は、それだけで息が詰まる。

 思わず背を向けてすたすたと大股で歩き出してしまったが、松太郎がちょこまかと必死に追いかけてきてくれている気配がする。


 残念だ。今の自分の顔の有様では、そんな松太郎に振り向いてやることもできそうにない。





 デートはつつがなく終わった。

 まずは映画館に行って、最近封切られた映画を見る。ハリウッドらしいアクション映画で思わず血が滾り、見終わった後はその興奮もあって松太郎と中々自然に話すことができた。

 そのあとはショッピング。とはいっても、家電量販店のおもちゃフロアを冷やかしたりなどだったのだが。松太郎も真子の共通の好みだったので大変楽しかった。


 ……ちなみに、映画を見ている最中に手に汗握る思いだった真子は思わず松太郎の手を力いっぱい握ってしまったのだが気づいていない。松太郎の方はばっちり気づいていたが、真子が楽しそうなのでちょっと痛いのをがんばって我慢していたようだ。



 ちなみにこのデートコースは、これまた莉子のプロデュースによるものだ。真子を3時間に渡って着せ替え人形にして超真剣に服装を決めたあと、「私なら10年前でもないとこんなデートできねーわ」と鼻で笑って5分で決めてくれた。

 この扱いの違いはなんなのかと真子は思うが、そこを理解できてこその乙女らしい。

 人体の急所はわかっても男女の心はわからない真子の弱みであった。



「はーっ、楽しかったですねえ真子さん。今日は本当にありがとうございました」

「いや、私も楽しかったぞ。こちらこそだ」


 二人は並んで歩いている。いつもは松太郎が少し後ろをついてくることが多く、舎弟を引き連れていると思われるのが常だったのだが、これは今日のデートを経て少しだけ変わったことだ。二人の歩く速さの違いと、何より真子自身が松太郎の顔をまともに見れないからそんな形になっていたのだが、それも変わった。真子は嬉しくてならない。



「……でも、うぅ……次は、アレか」

「? どうしたんですか、真子さん?」

「いっ! いや、なんでもない!」


 小声の囁きが松太郎に聞こえてしまったらしい。思わず慌てて否定してしまったが、当然なんでもないわけではない。真子にはまだ、やらなければならないことが残っている。



「真子。あんたこのデートで松太郎くんに告白しなさい」


 という、莉子からの指令があるのであった。

 なぜそんなことを、と今まで経験したどんなケンカのときよりも声を荒げて叫ぶ真子を莉子はいつもと変わらぬ落ち着いた様子でいなす。驚きはしても大事な友達の莉子を殴るつもりは全くなく、となれば真子が莉子に口でかなう道理は10年以上前からどこを探してもありはしない。

 松太郎くんが誰かに取られていいのか。お前がこの先デート後以上の告白のチャンスを掴めるのか。今だ、今しかない。根性を見せろ。なぁに、クロスカウンターを狙って相手の鼻っ柱を叩き折るのより簡単だ。などなど。

 半ば洗脳のような勢いで、しかし真剣に真子の性格と松太郎への思いを考えたうえで言ってくれているのを魂で理解した真子は、ひそかに勇気を振り絞る。今日ここで、松太郎に告白するのだと。



 枯葉も落ち切った冬の並木道。ロマンチックさには多少欠けるが、人通りが少ないのは何よりありがたい。もし告白の場を見ている誰かがいたら、一人残らず殴り倒してしまいかねないから。真子の拳は緊張に疼いている。


 さあ、勇気を出せ私。莉子も言っていたではないか。男に気持ちを伝えるために必要なのは、10人からなる不良集団に一人で殴り掛かりに行くときと同じで最初の一歩を踏み出す覚悟なのだと。

 真子にとっては日常茶飯事。さあ行け、私。



「……あ、あのっ! 松太郎! ……ん?」


 意を決して振り向いた先に、松太郎はいなかった。肩すかしを食らった、と思うも一瞬真子の耳が何かを聞いた。

 か細く、頼りない……あれは松太郎の悲鳴だ。


 そうと気づいた時には、すでに真子は全力で地を蹴っていた。





「よう兄ちゃん。彼女とデートとか楽しそうだな?」

「幸せそうでいいね~。どうよ、その幸せをちょっと俺らに分けてみるってのは」

「ひえええええっ」


 いた。どうやら考え事をするうちに早歩きとなって松太郎を引き離してしまい、そこをこの頭の悪そうな不良共に捕まったらしい。より一層人通りの少ない小道に松太郎を連れ込み、壁に追い詰め聞く価値もないほどありきたりな脅し文句を吐いている不良共の、どいつもこいつも変わらない見慣れた不細工面が今の真子にはかつてないほど気に障る。


「にしても似合わねえなあお前ら。なんだの女のデカさ。そしてお前の小ささ」

「ぶっちゃけ親子かとすら思ったぜ」

「……真子さんのことは、悪く言わないでください」

「……あ?」


 思わず跳びかかって引きずり倒し、自分の鼻血で溺れるくらいにしこたま殴ってやろうか、と今日一日隠し通してきた本性がちらりとのぞいた真子の荒ぶる心が、松太郎のその一言で我に返った。


「真子さんは、かわいい人です。背が高くてかっこよくて、優しい人です。悪く言うのはやめてください」

「……ひゃははははっ! 何言い出すのかと思ったらそんなことかよ!」

「なあ、お前自分の立場わかってんの? そんなこと言ってもお前みたいなのじゃ何の頼りにも……ん、真子?」


 真子の心は、松太郎の言葉で喜びに満ちた。


 気づいた時には好きで好きでしょうがなくなっていた。血生臭いケンカくらいしか取り柄がなく、男を好きになることなど考えたこともない真子は、時々どうしようもないむなしさを感じていた。

 だが、今や心の中にはいつも松太郎がいる。それほどの思いを抱いている。


 この気持ちは、一方通行だと思っていた。

 松太郎は優しい。小柄で、料理が得意と聞きはしたがひけらかすことはなく、誰かに何かの理由で頼られれば精一杯に頑張る男だ。恩は忘れず、仇は握手の一つもすればすぐに忘れる気持ちの良い性格をしている。

 そんな松太郎に思ってもらえていたこと、不良共を相手に勇気を出して反論してくれたことを、真子は心の底からうれしく思う。


「……ありがとう、松太郎」


 だから真子は、自分を偽ることをやめる。

 軽やかに走り、松太郎の元へ。いや正確に言うならば、松太郎を小突き回そうとしている不良共の首あたりへ。


 近隣の学生たちに恐れられるケンカ無敵の女不良、レッドリップ。その正体を松太郎の前に晒そう。

 この、頭とそして何より運が悪かった不良共を生贄に。





「……すまない、松太郎。私は、こういう女なんだ」

「真子……さん」


 腰を抜かす松太郎。見下ろす真子。

 今日のデートのため、丁寧に手入れをした髪は乱れてひどい有様で、しかしそれ以上に真子の目には複雑な感情が乱れていて、悲しみが深い。こんな有様を目の当たりにして、松太郎がこれまで通りに接してくれるとはどうしても思えなかった。


 あの不良共はすでに始末してある。どうやら真子の名を聞いた段階で薄々気づいてはいたようだが、そのまますぐに逃げなかったのがヤツラの死因だ。死んでいないが。

 気づいた時にはもう真子の間合い。とりあえずそれぞれ顔面を一発殴り倒し、鼻血のアーチが美しく弧を描くだけで済ませてやった。

 松太郎に真子がどういう女かを知らしめるには、それだけで十分だろうから。



「騙すつもりはなかったんだ。<レッドリップ>などと呼ばれている札付きの不良だ。言えなくてすまなかった……本当に」

「……」


 いまさら松太郎の顔が見られるはずもなく、真子は俯いて語りかける。

 その言葉は、真子にとっての別れの言葉だ。自分のような暴力女が松太郎のような心優しい男と釣り合うはずもない。一緒にいては迷惑がかかる。だから、せめてここできっぱりと別れよう。

 殴った拳より痛む心がこぼす涙が眼から溢れはしないよう、必死に抑えて真子は言う。


「……さようなら」


 声は震えなかった、と思いたい。

 それが松太郎と交わす最後の言葉なのだから。





 ――と、思っていた。真子は。真子だけは。


「待ってください、真子さん」


 まだ、見誤っていたのだ。

 松太郎の優しさと、優しくあり続けることができる強さを。


 立ち去りかけた真子の手は、松太郎の手に繋ぎ止められた。


「――」

「っ! ……はい」


 そして、その時松太郎が何と言って真子を説得したか。その心を繋ぎ止めたか。

 こればかりは、後に莉子がどれだけ聞いても赤くなって顔を横に振るばかりで、決して言おうとしなかった。


 それだけで大体わかるという説もあるのだが。





 この町の学生たちの間で、とある噂が広まった。

 曰く、<レッドリップ>がいなくなった。


 姿が消えたわけではなく、ぱったりとケンカをしなくなったのだ。相変わらず背が高い美人なので目立ちはするし、目つきの鋭さは変わらないのにその手の不良学生御用達な場所に顔を出さなくなり、血生臭い話からもめっきりご無沙汰になった。


 この噂が真実かどうかを確かめようと乗り込んだバカは一定数存在する。あるいは何かの理由でケンカが弱くなったのでは。ならば名を上げるチャンスやも。

 そういう手合いに限って短絡的な思考を直結させる傾向があるが、実際試してみたバカたちは一人残らず真子の変わらぬ強さの前にボコボコにされた。


 なら、一体どうしてあんな噂が。地べたに這いつくばり、半泣きになりながら自分の信じた噂の愚かしさを呪いながら見上げた視界の中、彼らは決まってその真実を知る。



 敗北に沈んだ自分たちを冷たい目で見下してくる真子。相変わらずのケンカ強さをかみしめつつ唇の赤さが眼に痛い。このままでは、死ぬのではないか。またあの唇を彩る紅の一色にされるのでは。……あ、でもそれはそれで。

 そんな恐怖(?)すら感じていた、そのとき。


「あ、真子さん。こんなところに」

「っ! ま、松太郎!」


 お前らに興味など全くない、とばかりに終始無表情だった真子の顔が、ぱっと輝いた。まさか噂の元レッドリップがこんな表情をするなどとは思いもよらず、もしや一瞬にして別人と入れ替わったのでは、とすら考えてぽかんとする不良たちの存在はすでに真子の眼中になく、声のかかった方へ嬉々として駆け寄っていく。


 そこにいたのは、一人の小柄な少年。真子を嬉しそうに見上げ、照れたように頬を染めてその手を取っている。

 アレひょっとして、と不良共は思う。



 真子が、レッドリップがいなくなったのは、つまり足を洗ったからではないのか。

 そしてもはや彼女は<レッドリップ>と呼ぶべきではないのではないか。



 なにせ、松太郎と手をつないで去っていく真子の幸せそうな笑顔を浮かべる顔は、唇に負けず劣らず、松太郎のそれが伝染ったかのように赤いのだから。



 これが、この町の不良が呆れとともに。乙女たちが憧れとともに語る恋物語である。



「……って感じで知れ渡ってるわよ?」

「ぎゃー!?」



 後日この噂を莉子から聞いて、噂以上に赤い顔で凄まじい悲鳴を上げる真子がいたとか、いなかったとか。


ちなみに元ネタというか着想元は「トリコ」のゼブラです。小松大好きすぎるだろお前、ということでラブコメちっくに脳内変換したらこうなりました。なので登場人物の名前はそのあたりから捻ってますです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ちょうどヤンデレ彼女という漫画を漫画喫茶で読みまして…… [一言] ヤンキーがデレる、良いですね。 同じ響きでも病んでる彼女よりは万倍mpマシ?
2013/01/23 13:30 退会済み
管理
[良い点] 爽やか! 正々堂々のラブコメで来ましたねー、GJです。 真子のいじらしさも、松太郎の誠実さも、莉子の軽快さも、渾然一体となってこの作品を楽しく、 そして面白いものに仕上げてくれていると思い…
2013/01/16 01:14 退会済み
管理
[一言] 実に良いラブコメでした。 最初は、実はそんな事ないのに勘違いされてる系かなと思ったけど普通にぶん殴ってた真子さん! そして明かされる衝撃の事実。 松太郎、 ずっとしょうたろうって読ん…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ