コッコラの実の誘惑 7
ガチャリと重厚な扉を開けると中庭が広がった。
金持ちや貴族にありがちな飾り立てた作った庭園ではなく、何にもない広いだけの庭。その遥か先、庭の向こうに門が見えた。庭をぐるりと、家をぐるりと囲む塀。その、門。
「あれかー」
暢気な声の後に、どさっと音が続く。
エティの足元に男が転がっていた。今しがた開いた扉の内側に直立不動で立っていた人物だ。牢を抜け出してから遭遇した者達と同じように、エティに殴る蹴る――主に蹴るでボロボロになっている。
「このヒトが持ってた鍵、あそこにも仕えるかなぁ。………ま、無理だったら壊せばいっか。もう外だからおとなしくする必要ないし」
何でもない事のように軽く告げるエティにその背後にいた女達は悟りを開いたかのような遠い眼をした。
あれでおとなしく? と思ったのは、全員一致の意見だろう。
「走れる?」
笑顔でエティが振り返ると、喜びをたたえた眼差しでしっかりと頷きが返る。一人を覗いて。
「ルリルラさんも帰るんだよ」
穏やかに苦笑する姿に、
「帰るの」
真っ直ぐに真剣な眼差しを返して断言した。
「けれど私は…」
「もういないのに」
哀しげに告げたエティの言葉の意味が、ルリルラにはわからなかった。
「ルリルラさん、もう亡くなってるよ」
「え…」
「1年近く前に、マベリオさんは亡くなったの」
困惑から、驚愕へ。小さく開いた唇が震えている。
「だからルグルスさんはマツイラ村にいたんだよ。あなた達はお互いがお互いの枷になるように」
「そ、んな…。先月、お手紙を頂きました。マベリオ様からは毎月手紙が届いていました。元気になった事、私がここにいるから兄が特技を利用して人手が足りない宿を預かっていること、たまに兄に会って話したこと…」
「お兄さんから手紙はもらった事、ある?」
「……いいえ」
「お世話になっていたとしてもその人から手紙は届いて、お兄さんさらの手紙は届かないって、可笑しいと思わなかった?」
「そんな…。それでは、私は、何のために…」
「帰るよ」
動揺したままのルリルラの手を取り、促すように引くと抵抗もなく着いてきた。
「みんなで帰るからね」
重苦しい空気を消すように、先程までの雰囲気をかき消した明るい声が宣言し、走り出す。
強張っていた表情が中程を過ぎて緩やかになり、門扉に近付くと安堵の笑みを浮かべる者もちらほら出始めた所で、
「久方振りの外の空気は堪能できたかな?」
穏やかに告げられたそれにビクリと体を震わせる者が数名、全員の足が止まり、エティだけが不満げに振り返った。
「どうせなら出るまで黙っててくれたらよかったのに」
「……なるほど。君が新しく来た子か」
「見送りご苦労様。全員帰るからね」
「帰れるとでも?」
「帰るよ。文句も、手も、足も、出させない」
憮然と告げる。
「…あぁ、そう。面白いね。やってみるかい?」
嘲笑の声に表情を変えたのは、エティではなく、
「お待ち下さい! グルダ様、私が戻りますからっ、他の方は見逃して下さい!!」
前に進み出たルリルラが、必死の声を上げた。
「ルリルラさん、何言ってるの。帰るって約束したでしょ」
「駄目です。……あの方は、このカエオト家の当主。危険です」
悔しさの滲む声に、
「あぁ、主犯なんだ」
暢気な呟きが帰る。
「それじゃ、実力行使しかないよねー」
は? と、その場にいた全員が思った。あきれ返ったような声で告げられたその科白の意味が、正確にわかった者とわからなかった者にわかれるが。
軽く地を蹴って走り出したエティの行動の意味をルリルラが理解し、
「エティさん、いけませ…っ!」
制止の声はエティの蹴りが見事にハマって吹っ飛んだのを目にしたので続かなかった。
呆然、という言葉に似合うほどルリルラを始めとした捕らえられていた女達は立ち尽くす。魔力のほとんどないエティが体術のみで、領族――クリフォア国の貴族のようなモノ。四方将軍から領地を預かり管理している一族を指す。余談としてクリフォロアの他国には貴族が存在している――を圧倒する様は、嬉しいはずなのに悪夢のようだった。
上に、左に、右に、地に、打撃を繰り返すエティに、女達を別の恐怖が襲う。
弱小と言われてもおかしくない魔力量の存在が繰り広げる光景を認識しているものの、脳のどこかが拒絶し、目から入る情報がそれを否定する。
存在が矛盾している、という結論にしか至らない。
魔族として、クリフォロアに存在する者として。
「―――エティさんっ!?」
突然のルリルラの叫び声に、こちらへ飛んでくる小さな背中。
数メートル先で両足と左手で地を擦りながら停止してゆっくりと体を起こす。近くまで戻ってきてわかる所々避けて汚れのある服。
グルダは手も足も出ていないと思っていた女達はコクリと生唾を飲み込んだ。
「エティさん、皆様を連れて逃げてください。ここは私が何とかします」
「その選択肢はナイんだよねー。私の中に」
「エティさん、避けるのも限界ですよね。今の一撃、危なかったでしょう」
「…参ったね。流石、傍系とはいえアイラルネ。見逃してくれないや」
肩を竦めてちらりと振り返ったエティの目には軽い驚きの表情を浮かべるルリルラの姿。
「でも大丈夫。当たらなければ問題ナイから。まぁ、正直言えば疲れてきたけどねぇ」
はぁ、と溜息一つ。
「補助がない分、完全に肉体労働だから仕方ないんだけど。………後でお仕置きかな~」
最後に付け加えられた科白に、何人かが「何が?」と思った。
「戦闘はあまり得意ではありませんが私が全力で止めれば何とかなります」
「……それかなり問題になるでしょ、ルリルラさんのお家柄的に。それに私が来た意味なくなっちゃうしさぁ」
へろりと笑う姿は疲れたという割に疲労感はゼロだ。
「ふざけるな!」
魔力に殺気をのせた怒号が響き、エティが細めた双眸を走らせ、ルリルラが真顔になり、何人かが顔を強張らせる。
左目を流れる血液を乱暴にぬぐうと、口の中の唾と血液を吐き出す。
「ヒト無視して暢気におしゃべりか。いい身分じゃねぇか」
「紳士返上? まぁ、そっちの方がらしいと思うけどね~誘拐犯だし」
それに舌打ち一つ、
「お前いらねえ。お前ら全員、廃棄処分だ」
上着のポケットに右手を突っ込みながら不敵な笑みを浮かべる。口元が血だらけで一見すると負け犬の遠吠えにしか見えないのだが。
「……ルリルラ、お前はどうせ残るだろーがなぁ」
薄ら笑みを浮かべつつ手を引き抜くと、赤黒くくすんだ歪な形の石がその手に握られていた。それを目にし、女達の顔から血の気が下がり、エティの顔から感情が消える。
「死んじまえ!!」
くわっという言葉がぴったりくる形相で叫ぶのにあわせて、赤黒い石を握る腕をエティ達へと真っ直ぐに伸ばした。腐臭にも似た魔力があたりを覆い何人かが意識を失うなか、赤黒い光が走る。
「エティさんっ…!」
慌ててエティの前に回り込もうとするルリルラの叫びを飲み込んで、庭全体が赤黒い光に包まれた。