わたしとわたしと
「ふたりいるの?」
「はい?」
12時半を越えると、食堂は一気に騒がしさを増す。大勢の人の声に埋もれて、わたしが無くなってしまう気がする。みんなと同じ時間にみんなと同じようなご飯を食べて、みんなと同じように笑う。なんだか埃っぽくて薄っぺらくて嘘っぽい。逃げ出したくなる。
だから食堂は嫌いだと言ったのに。相変わらず何も考えていないのだろう、杉浦はすぐ隣できゃいきゃいと黄色い声ではしゃぐ一回生をちらりと横目で見てから、君はふたりいるの?と、もういちど、今度は少しだけゆっくりと言葉にした。
「いません。わたしだけです」
「じゃああれは誰?」
涼しそうな顔で杉浦が指差した先にいた彼女は、寧々(ねね)と由貴に挟まれて楽しそうな笑い声をあげている。
彼女はわたしの顔をしていた。
「誰って……」
この大学にどれだけの人がいるのか、分かっているのだろうか、この人は。ザッと見渡しただけでも百人以上はいる。ひしめき合っている。こんなに人がいるんだから、わたしの一人や二人。
いるわけなかった。
生き物というのはとても不思議で、地球上にどれだけの数がいても、全く同じなんてものは存在しないらしい。そりゃ蟻や蚊や、小さな生き物はわたしの目では違いを見つけることはできないけれど、きっとその世界では全然違うのだろう。それはカミサマが一つ一つ作ってくれたから、なんて幼いときは信じていたけれど、よく考えたらそれじゃあカミサマは何人いても足りないじゃないの。それとも杖を一振りすれば色々出来るのかしら、でもそれは作ってるとは言えない。
育ち方に個性が出るらしい。それは精子の時からそうなんだろうか。そもそも個性ってどこから来るの?
考え始めるとキリがない。深くは知らない。とりあえず、人工的に手を加える以外、全く同じなんて無いのだ。
「性格が違うんだったら別人だって分かるんだけどな」
杉浦は何も気にしていないようで、ふああと大きなあくびをした。うらやましい程に長い睫毛に、涙の滴が光る。
わたしはもう一度、楽しそうにお喋りをするもう一人のわたしを見た。正面からちょっと右に振れた角度から見ているし、そんなに近くもないので確信はやっぱり持てない。
持てないが、その顔は幼いときから写真や鏡で何度となく目にしている女の顔で、客観的に見ると、そんなに悪くもなかった。むしろ、好感が持てる顔をしていると思った。食堂のうどんをすすって、むせて、隣の寧々に笑われて、もう一人のわたしはまた笑った。
ドッペルゲンガーという単語を思い出した。もう一人の自分を見ると死ぬという。もしそれが本当なら、わたしはもうすぐ死ぬのかもしれない。どうせ死ぬのなら、その前に客観的に見たわたしをしっかりと観察したいものだ。
後ろの女の子たちの大きな笑い声がパッと弾けて、わたしたちの周りのざわざわを吸い込んだ。ちょっと気を抜くと、賑やかなこの場所から取り残されてしまいそう。わたしは身を乗り出して少しだけ声を潜める。
「ちょっと喋って来てくださいよ」
「やだよ」
「なんで」
杉浦の眉間に綺麗に寄ったシワを見る。この男は表情を作るのが上手いと知ったのは、つい最近のことだ。滅多に顔に出さないのは、表情を必要としないかららしいが、だからといって無表情なわけではなかった。よく見れば分かる。派手に作らないだけだ。
「見知らぬ他人かもしれない人に何て話しかけろっつーんだよ」
まあお前かもしれないけど、と杉浦は続けた。笑ってくれれば冗談になるのに、杉浦はここでは表情を必要としていないらしい。肘をついてわたしを見た。
「わたしだったらどうしよう」
目の前の男を見つめる。大きな瞳に映り込むわたしがいつものわたしだったことに安心した。昨日まで当たり前だった事実はどうやら今日も当たり前のようだ。わたしはわたし。
杉浦は少し考えた素振りをした後、ちょっと困るな、と首を傾けた。
「同じこと二回も言わないといけないだろうし、一人には教えてもう一人には教えないというのも悪いし、見分けも付かない」
「ああ、まあ」
わたしが曖昧に答えると、杉浦は鞄を残して席を立った。すぐ戻る、と言っていたからトイレに行くんだろう。
あり得ない事態に、頭は酷く冷静だった。まだ近くで見ていないから、ただのそっくりさんかもしれないし、というかそうに決まっているし、もしくは夢かもしれない。いいや、きっと夢だろう。
そうだ夢だ、ならこの世界には用はない。ぼんやりと眺めていると、もう一人のわたしの肩を叩く男がいた。もう一人のわたしはくるりと振り返る。ノブだ。サボり魔のノブは、最近学校に来ていなかった。入学当初から仲の良いわたしとノブの関係は、わたしたちにもよく分からなかった。ハグやキスはするけどセックスはしない。泊まりには行く。付き合ってはいないのだけれど、正直わたしと彼にはその定義が分からないでいた。
もう一人のわたしは椅子から立ち上がって抱き付く。久しぶりのハグ。それがわたしたちの中では普通だったのだけれど、客観的に見るとやっぱりなんだかいやらしい感じがして恥ずかしい。もう一人のわたしはノブに何か言った。ノブは笑う。寧々も由貴も楽しそうに笑う。
彼女は誰だ。
わたしには分からなかった。
だってわたしはここにいるのだ。
ノブとずっと一緒にいたわたしはここにいるのだ。
久しぶりに会ったノブに「死んでるかと思った」などと言って、嬉しそうにハグをする女はこのわたしのはずなのだ。
彼女は誰だ。
周りを見渡す。色んな顔が色んな表情をして動いている。そこに同じ顔なんてない。どうして杉浦以外誰もわたしが二人いることに気付かないのだろう。きっとみんな他人には興味が無いのだ。わたしも含めて。その分杉浦は周りをよく見ている。何も考えていないようで、実は一番考えているのかもしれない。
そろそろ一時になろうとしていた。周りからぞろぞろと人がいなくなり始める。大きなざわざわに飲まれて、わたしは息を潜める。人が大勢いる広い場所に一人でいるのは苦手だ。居場所がない。誰ともコミュニケーションを取らないでじっとしているわたしは、この場所に適していないもののようで、柄にもなく緊張する。
もう一人のわたしは腕時計に目をやると、周りのざわざわに上手く乗っかって、すっと席を立った。ノブはもういなかった。うどんの器を返して、鞄を肩に掛ける。真上からの蛍光灯のせいで左手の薬指に光って見えるもの。わたしは自分の左手を見る。何も嵌められていない指がそこにはあった。
そんなもの知らない。
ざわり。
背中を這うような。
心臓が静かに鳴る。
どくり。
どくり。
どくり。
もう一人のわたしは相変わらず寧々と由貴の間に挟まれて、食堂を出ていった。出ていく直前にくるりと彼女は振り返る。わたしを、見た。
もう一人のわたしは、やっぱりわたしだった。振り返ったまま彼女は二回程瞬きをして、何事もなかったかのように前を向く。まるで知らない人のようだ。
彼女は誰だ。
わたしは誰だ。
彼女と同じ腕時計を見ると、ちょうど授業が始まる時間だった。次の授業は最後に出席を取るから、特に問題はないのだけれど。そんなことより杉浦がまだ戻ってこない。友達を見つけて長話でもしているのだろうか。置きっぱなしの鞄を見ると、先週わたしがあげたお土産のキーホルダーが揺れた。
↓
停。
自分はもう一人の自分とは絶対友達になれないと思います。
ドッペルゲンガーのことを調べてみたら、なんだか怖くなりました。