第9話:未知との遭遇
人が人知を超えた状況と遭遇した際の反応は二通りある。
我を忘れて完全に自我を失ってしまうケースが殆どだが、妙に冷静となり思考が普段以上に回る事も稀にだがあるのだ。
幸運にも今の侑人は後者だった。
今まで大なり小なりのハプニングに見舞われ続け、内面が鍛えられたというのも理由の一つだ。
だがマグナマテルが異世界だという認識を持っている事が、理由として一番大きいのかも知れない。
意図せず地球以外の大地に降り立ってしまったという、人生最大の災厄を目の当たりにし、未だにその渦中に取り残されている事に比べれば、よく判らない存在との邂逅など当たり前の事だとも言えた。
「これも魔法の力かね……」
無意識に思考内容を口にしながら、侑人は状況把握に努めている。
普通に考えれば暗闇に閉ざされた室内で、相手の瞳だけが見えるのは異常事態の他何物でも無い。
しかしここはマグナマテルの世界。魔法という超常現象を可能にする手段が普通に存在する世界なのだ。
理解できない現象を全て魔法のせいにして、現実逃避しているだけとも言えるのだが。
「つうかエドってなんだ? 江戸の事か?」
そして冷静に思考していても大した事を考えられないのが、侑人の本質であり残念な部分でもある。マグナマテルの住人に江戸の事を聞いても答えられるはずが無い。侑人は基本的な事すらすっかり失念していたのだ。
“どんなものでも理解できる能力”はある種万能な力だが、根本的な思考能力は本人の資質や鍛錬による部分が大きく、能力による恩恵は少ない。侑人がアンナやアルクィンと比べて大きく劣る部分なのだが、当の本人は気にしていなかったりもする。
だが今回侑人の目の前に居るのは、内面もかなりぶっ飛んだ存在のようだ。妙な侑人の問い掛けを華麗に無視しつつ、自分のペースを崩す事は無かった。
「――初めて地に足を着けた、エドの感想が知りたいのね」
「地に? 足を?」
侑人は思わず自分の足に視線を向ける。
蹲った姿勢からまだ立ち上がれていないので、今のところは客室の床に胡坐を掻いた状態だ。
寝巻きから覗いている足は素足のままだが、普段と全く変わっていないように見える。
「うーん、普段通りにしか見えんのだが?」
「――つま先の先端の片方がやっと地に触れた程度だから、エドに判らないのも無理は無いのね」
相手が何者なのかさっぱり判らないが、意思の疎通を図る事はできるらしい。言っている事は全く理解できないのだが。
だが、どことなく楽しそうな雰囲気を纏っているように思えた。感情の起伏が殆ど無い声だが、明確な悪意は感じられない。
その事が侑人に若干の余裕も持たせる事となり、更なる混乱の局地に叩き込まれる事にも繋がっていく。
「真っ暗闇で話し込む趣味は無いんで、明かり点けるぞ」
敵か味方かよく判らないが、相手の顔くらい拝んでも罰は当たらないだろう。
そんな事を考えた侑人が、明かりを点ける事を提案したのだが、事態は明後日の方向へと加速度的に進んだのだ。
「――思考情報の授受さえできれば事足りるし、今のところの用件はもう済んだのね。――だから視覚情報に今更頼る意味が全く判らないのね。――でも、エドの頼みだから仕方なく聞いてあげるのね。――これはおまけの時間なのね」
そんな言葉が聞こえた瞬間、周囲の状況が一変する。
「へっ!? ここは何処だ!?」
侑人の目の前には広大な草原が広がり、少し離れた場所には豊かな水を湛えた湖畔が悠然と佇んでいた。
しかも不可解な事に草木の一本一本どころか水の一滴ですら仄かな光を発し、周囲を柔らかい灯りで照らしているのだ。
「おいおい……。いったいどんな魔法を使ったら、こんな真似ができるんだよ……」
黒髪の勇者と呼ばれ、マグナマテルの人々の常識をぶち壊し続けている侑人。そんな侑人ですら目の前の事象は理解不能なのだ。
己の常識を簡単に覆した謎の存在の正体をこの目で見たくなった侑人が周囲を見渡すと、思いのほか簡単にその主を視界に捕らえる事ができた。
「なっ……」
そう、確かにその存在を確認できたのだが、侑人の思考は今度こそ完全に停止していた。
「――ここは世界のどこにでもある場所なのね」
「…………」
「――でも世界のどこにもない場所なのね」
「…………」
「――私はどこにでも居るのね」
「…………」
「――でもどこにも居ないのね」
「…………」
目の前に居る存在が、禅問答の様な言葉を投げかけている。しかし侑人は呆けた顔をしたまま、返答する素振りさえ見せなかった。
素振りを見せないのではなく、見せられない状況に陥っているのが正解だが。
そんな侑人の状態など気にも留めず、その存在はゆっくりと近寄ってくる。先ほどまで侑人に近寄れない的な事を言っていたのだが、今は状況が変わったらしい。
「――エドはこの世界に居るのね」
「…………」
「――でもこの世界に居なかったのね」
「…………」
「――でも今のエドは、この世界に居るのね」
「…………」
「――お揃いでは無くなってしまったのが少しだけ悲しいのね」
「…………」
草原に座り込んだまま完全に固まった侑人の目の前に、その存在はとうとう辿り着く。そしてそのまま少し屈む様にして侑人の顔に己の顔を近づけ、興味深い素振りで侑人の瞳を覗き込んだ。
侑人の瞳孔は開きっぱなしになり、上手く焦点が定まっていない。視界が相手の顔で占められているのに身体も全く動かないのだ。
その存在が敵対行動を取ったのならば、既に侑人はこの世に居ないだろう。敵か味方か判断が付かない存在と相対しているのに、侑人は完全に無防備な醜態を晒し続けていた。
「――間近で見てもエドはエドなのね」
そんな侑人の反応がつまらなかったのか、はたまたそれ以外の意図があるのか判らないが、その存在は次の行動に移る。
瞬き一つせずに侑人の瞳を見つめ続けたまま、徐々に距離を近づけていき――
――やがてその距離は零になった。
「んっ!?」
侑人の瞳に力が戻る。それと同時にあやふやだった眼前の世界が色を取り戻し、周囲の状況を明確に把握できるようになったのだが、それでも侑人の瞳に映る景色は白黒のモノトーン調が全てだった。
そう、思考能力をようやく取り戻した侑人の視界は、謎の存在の顔で塞がれた状態に陥っていたのだ。端的に言えばキスされていただけとも言うが。
「おいこら! いきなり何しやがる!」
今まで役立たずの代名詞のように侑人の身体は動かなかったのだが、ようやく本来の機能を十全に果たせるまで復活した。侑人は謎の存在の両肩に手を当てて無理やり引き離しつつ、怒りをあらわにする。
突然の謎の存在との邂逅から始まった予想外の出来事を嫌というほど味わった侑人は、驚きが一周回って逆に冷静になったらしい。
いきなりキスをされて冷静になるのもおかしな話だが、先ほどまでの状況と比べれかなり改善された状況と言えるだろう。
「――接吻しただけなのね」
「せっ、接吻しただけだと!? 何の意味があっていきなりそんな事しやがるんだよ!」
「――意味? 特に無いのね」
「無いのかよ……。ああ……俺の始めての瞬間が、意味無しの行為だったなんて……」
「――冗談なのね」
「そういう心にくる冗談は止めて! つうか、いきなりそういう事するのはもっと止めて!」
いつの間にか会話がスムーズに繋がる様になっているのだが、頭に血が上っている侑人は気付いていない。普段の侑人ならばもう少し雰囲気を察する事ができそうなのだが、初体験を無理やり奪われた直後ではそれも無理な話か。
しかし幸か不幸か、事態はもう少しだけ先に進む。
「つうかなんでお前は黒髪黒目なんだよ!」
侑人を混乱の局地に陥れた、核心に迫る質問を勢い任せで口走る事ができたのだ。
侑人の目の前には、烏の濡れ羽色といった表現がしっくり来る、長い黒髪を持つ少女が佇んでいた。両の眼も深遠の闇の如く黒色であり、侑人と同じ日本人だと言われればそのまま素直に信じてしまいそうな程だ。
年の頃は十歳前後と言ったところか。背は侑人の胸に届くか届かないかといった大きさであり、まだまだ成長の余地を残している様子だ。
日本人ぽく見えると言っても侑人と違って肌は透き通るような白さを誇り、容姿に関しても神がかる勢いで整っていた。後数年もすれば清楚かつ妖艶な美人に育ちそうではある。先ほどの突飛な行動から考えれば、間違いなく男を惑わす悪女たる素質は十分だ。
しかし表情が殆ど変わらない。人形だと言われればそれもまた信じてしまいそうな程だ。とにかく謎の存在は、謎の美幼女にランクアップ(?)して、再び侑人の前に立ちふさがっていた。
「――エドとお揃いなのね」
「返事になってないつうの!」
侑人の魂の突っ込みを受けた謎の美幼女は、珍しく表情を少しだけ変えた。しかしその表情は『意味が判って貰えないのはおかしい事なのね?』と、言外で強くアピールするものだったので、侑人は座り込んだまま頭を抱えていたりもする。
その後も侑人は『マグナマテルに黒髪は居ないんじゃないか?』とか『黒髪の勇者って一度に何人も召喚されるものなのか?』等と質問をぶつけたのだが、謎の美幼女は小首を傾げつつ『――エドとお揃いなのね』と繰り返すだけであり、侑人が求める答えには程遠いどころか何一つ判らない状況は続く。
困り果てた侑人が思わず、なぜいきなりキスなんてしたんだ的な質問を、モゴモゴと言いよどみつつ、再び勇気を振り絞ってした際には、
「――ご馳走様? なのね」
「汚された……。俺の純潔がこんなちんちくりんに弄ばれた……」
「――ちんちくりんは失礼なのね。これでも脱ぐと結構すごいかもしれない……なのね?」
「おいこら。お子様がそんな事言っちゃいけません」
「――そんな事ってどんな事なのね?」
「うっ、さすがに言えるかっての」
「――エドは変態なのね」
「幼女に変態扱いされた!?」
などとからかわれる始末で、完全に侑人は謎の美幼女の手の平の上で踊らされていたりもする。
やがて謎の美幼女は侑人をからかう事が飽きたのか、おもむろに立ち上がり背を向けた。
対する侑人は『もうやめて、ライフはゼロよ』的な負け犬オーラを発生させ、力なく俯いていたのだが、立ち去ろうとする謎の美幼女に一言だけ声を掛ける。
「また会えるのか?」
「――エドの側に何時も居るのね。――そして居ないかもなのね」
謎の禅問答が復活してしまった事で、侑人はなんとも言えない表情を浮かべる。
一つも謎が解けないまま今回の出来事は終わってしまうと判断し、諦めの境地に達したのだ。
しかし侑人の考えは外れる。振り返りはしなかったが、謎の美幼女は最後にこう言ったのだ。
「――信頼する人としない人を判断しないと、エドは後悔するはずなのね。――万人を救えると思うのは大間違いなのね」
「え? それってどういう……」
会話を続けようとした侑人に、突如とんでもない睡魔が襲い掛かる。謎に満ち溢れたこの時間も、そろそろ終焉を迎えるようだ。
おぼろげな意識の中で侑人の眼に映ったのは、かすかな慈愛の表情を浮かべた謎の美幼女の横顔だった。




