第4話:伝承の勇者
深い森を抜けた先にある長閑な村の片隅にひっそりと佇んでいる、丸太を組み上げて作られたとある民家に元気な声が響く。
「おじーちゃんただいまー」
「おおマリアか……少し遅かったなしんぱ……」
マリアを玄関まで出迎えた品の良さそうな老人は、彼女の後ろに立つ黒髪の男の姿を目に捉えて絶句した。柔和な細い目が大きく見開き、釣り上げられた魚のように口をパクパクしたまま、右手を挙げた姿勢で固まる。
いつも冷静な祖父がここまで驚く姿をマリアは見た事がない。しかし普段の私の姿を見ているのなら驚くのも無理はないかなとマリアは苦笑いしながら考えていた。
「河原で見かけたから連れてきちゃった」
「ふぇ?」
捨てられていた犬猫じゃあるまいし、見かけたから連れて来ただけではこの状況の説明には足りない。しかしマリアが言っている言葉は事実であり、それ以上の理由など何一つないのが現実だ。
予想できない言葉を聞いたマリアの祖父、ヨーゼフ・ホラントが立ち直るまでには、この後しばらくの時間を要した。
そして数刻後。マリアとヨーゼフは机を挟んで話し合っている。もちろん話の内容は侑人の事についてだ。
「つまりユート・コサカという名前以外、彼の事について何も判ってないのじゃな?」
孫娘のマリアから、黒髪の青年と出会ってからの経緯を聞いたヨーゼフは、そう言葉を発した後しばしの間黙り込む。ちなみに黒髪の青年には別室で休んでもらっているので、今はマリアとヨーゼフの二人きりだ。
この時のヨーゼフは、ハルモ教嫌いの孫娘がハルモ教に伝わる伝承の中の英雄、黒髪の勇者クロウ・ミナトのような容姿――
――マグナマテルには存在しない黒髪の人物を連れて来た事に対して驚いていた。
ハルモ教は、この世界『マグナマテル』の中心的な宗教の一つで、二人の月の女神を従えた、太陽神ハルモを信仰の対象としている。
信者の数はかなり多く、ハルモ教を国教と定めている国家が複数存在するほどだ。ちなみにハルモ教を国教と定めている王国の集合体を、ハルモ教法王庁教圏国家群といい、マグナマテルの中で一大勢力を誇っていた。なおハルモ教の総本山であるハルモ教正教会は、隣国のエディッサ王国にある。
そしてハルモ教には、大昔から伝わる有名な伝承があった。
八百年以上前に神からマグナマテルの大地に使わされた、黒髪の勇者クロウ・ミナトの英雄譚だ。ハルモ教を信じる家で生まれ育った者は、勇者の鬼神のような活躍により、世界に平和がもたらされたという物語を、子供の頃から幾度となく聞かされている。
マリアもハルモ教法王庁教圏国家群の中の一つ、セビルナ王国の国民だが、ハルモ教の事が好きではなくむしろ嫌悪感すら持っていた。
彼女の祖父ヨーゼフはハルモ教の元神官だが、それでもハルモ教自体を好きになれないのだ。マリアが嫌悪感を抱く原因は、彼女の少し特殊な境遇にある。
マリアの母親は、十年前に流行り病をこじらせて死んでしまった。聡明で美しい女性だったと母を知る村人たちは言う。
ちなみにマリアの母は透き通るような白い肌を持つエルフであり、人が住まうティルト村の中では異色な存在だった。しかしマリアの記憶の中の母は優しい村人達に囲まれ、幸せそうな笑みを浮かべている
マリアは死んでしまった母が大好きだった。
彼女の父親は、三年前に馬鹿をこじらせて消えてしまった。夢想家で豪快な男だと父を知る村人たちは言う。
若い頃は将来有望だと言われていたが残念な事に放浪癖があり、母とも旅先で出会いそのまま夫婦になったらしい。一発でかいの当てて迎えにくると言い残し、一人で旅に出てしまったマリアの記憶の中の父はいつも豪快に笑っている。
しかしマリアは消えてしまった父が大嫌いになった。
エルフと人とのハーフとして生まれたマリアの年は十七歳。母親譲りのおしとやかで美麗な容姿をしているが、性格はかなり活発だ。
弓矢も玄人はだしの腕前で、周囲が驚くほどの大物を一人で仕留めた事もある。本人は絶対に認めないが、マリアの内面は思いっきり父親に似ていた。
マリアとヨーゼフが住まうティルト村は、セビルナ王国の王都から離れた辺境の地である為、人々の気性はとても穏やかだ。
ハーフであるマリアも敬虔なハルモ教信者である優しい村人達に囲まれて、特に不自由なく成長した。
では何故マリアがハルモ教を毛嫌いするのか。その理由は教義の一節にあった。
ハルモ教では、全ての人は神のもとに平等であると教えられる。現実には貧富の差は存在しているが、問題点はそこではない。
全ての人という言葉の中にエルフ等の亜人種は含まれておらず、それどころ人種より劣っている下賎な存在であるとまで書かれていた。
亜人であっても、ハルモ教を信仰すれば全ての罪が許される。ハルモ教典にはそういった意味合いで解釈できる内容も書いてあるが、マリアはその一文にも納得ができなかった。
全ての罪とは何なのか。エルフである事が罪なのか。聡明で美しい女性だった母のどこが罪人なのか。生きる事が罪ならば、人も亜人も何も変わらない筈ではないか。
人族至上主義のハルモ教典には、その問いに対しての満足な答えはなかった。
ヨーゼフは慈愛に溢れた目で最愛の孫娘の姿を見つめつつ思案する。
太陽神ハルモの思し召しと言ってしまうと目の前のマリアは機嫌を損ねてしまいそうだが、今のこの事態は神の御意志が招いたとしか思えなかった。
「おじーちゃん。ユートは黒髪の勇者なのかなぁ?」
原因を作った張本人の孫娘は気楽な様子である。
「そうじゃのう……」
そう言葉を発したヨーゼフは、ハルモ教に伝わる伝承のとある一節を思い返す。黒髪の勇者クロウ・ミナトの英雄譚の最後は『天に輝く双月が天空より消え去る時、異界の勇者が再度光臨する』という一文で締め括られていた。これはマグナマテルの万民が知っている事実であり、ここ最近の世間話で話題に上る頻度も高い。
この一節が示しているのは、夜空に輝く二つの月が重なり合って惑星の影に入る、二重の皆既月食だという説が一般的であり、しかも八百と数十年に一度の現象が起こったのは、昨晩の出来事だった。現在の状況はハルモ教に伝わる伝承と酷似している。
「その事は後々考えるとしようかの」
「それでね、おじいちゃんに相談があるの」
マリアは少し困った顔をしながら、上目使いでヨーゼフの事を見つめていた。
好奇心旺盛な馬鹿息子も厄介ごとをよく持ち込んできたし、そういうわし自身も若い頃は、危険をかえりみずに揉め事に首を突っ込んだものだ。ホラント家の血はほとんど自業自得とはいえ、揉め事に巻き込まれるのが定めらしいな。ヨーゼフはそんな事を考えて苦笑する。
「マリアはどうしたいのじゃ?」
「しばらくうちに置いてあげたいなぁと……だめ?」
小首をかしげながら可愛らしくそう告げるマリアの姿を見て、心臓が止まるほどヨーゼフは驚く。十年前に死んでしまった最愛の母とハルモ教の教義の間で苦悩し、ハルモ教を拒絶していたマリアが、自らの意思でハルモ教の伝承に関わるとは予想すらできなかった。
ハルモ教の教義によって深く傷ついている孫娘の気持ちを知ったヨーゼフは、五年前に孫娘の為にと一念発起してハルモ教の神官を辞め、マリアの心の傷を癒すべくセビルナ王国に移り住んできたのだ。
「マリアがそうしたいならわしは構わんよ。でもなんというか、本当に大丈夫なのか心配なのじゃが」
「本音を言えばハルモ教も黒髪の勇者も嫌い。でもユートは悪い人じゃないと思うの。怖いって気持ちはもちろんあるけど、本当に困った顔をしていたし力になってあげたいって……」
「マリアがそう考えとるならわしも力を貸すぞ。遠慮なく頼るといい」
「本当? ありがとうおじいちゃん!」
最愛の孫娘の深い悲しみを何とか癒そうと試行錯誤し続けて苦節五年。その本人が自らの力で立ち直ろうとしている。
どこの馬の骨とも判らない男が、そのきっかけである事に対しては少しだけ納得いかないが、ここは祖父として協力しなければ。ヨーゼフはそう心に誓い居候を許可したのだが、マリアはそんな祖父の決意には気づかなかった。
侑人の異世界での居候先は、そんな理由で決まったのである。
2014/2/10:改訂