第1話:王都への旅路
突き抜けるような青い空には、思い思いの形をした雲の群が浮かんでいる。
目の前には蒼々とした草原が広がり、遥か彼方に見える山々の後ろに控えるのは一際存在感を放つ入道雲。
真っ直ぐに延びる街道の少し先には逃げ水が映り、さらに先へと視線を進めるとまるで生きているかのように景色が揺らめく。
そんな夏の陽射しを全身で受けつつ街道のど真ん中に立ち、まだ見ぬセビルナ王都へと思いを馳せる侑人の横顔は、期待と不安が入り混じった色を浮かべていた。
「気が急くのは判るんじゃが、今からそんなでは身が持たん。ワシが入れる茶で良ければ一息つくかの?」
眩しげに目を細めながら優しい言葉を掛けたのは、異世界で身寄りのない侑人の親代わりでもあるヨーゼフだ。
木陰の下に据えられたガーデンチェアに座り、優雅にアフタヌーンティーを楽しむヨーゼフは心底リラックスしている。ガーデンテーブルの上にはティーセットの他に器に盛られた真っ赤なロレヌの実と陶器製の花瓶に挿された一輪の花が置かれており、傍目から見ると避暑地で優雅にバカンスを楽しんでいる様にしか見えない。
ちなみに街道から少し離れた場所で寛ぐヨーゼフの横には、かなりしっかりとした石造りの平屋の建物が見える。そして建物の横にはシンボルツリーの様に一本の大木がそびえ立ち、豊かに茂らせた枝葉で夏の厳しい陽射しを優しく遮っていた。
勿論侑人達一行は、ヨーゼフのセビルナ司教就任の為に王都に向けて旅をしている最中だ。
その証拠に大木の下には、ティルト村の衛兵宿舎から借り受けた屋根付きの馬車が置かれている。元の世界ではワゴンと呼ばれている四輪の、やや大きめの馬車に似た形状だ。
スプリングやサスペンションの機構がない為、お世辞にも乗り心地が良いとは言い切れないが、作りは頑丈で王都までの三週間の道程で使用するには十分であり、返却は王都の衛兵宿舎へと届けるだけという高待遇。しかも無料。
この部分だけ切り取って考えても、セビルナ王国が本気でヨーゼフの力を見込んでいるのが判る。
なお引き馬として侑人達一行の旅に同行している二頭の馬達にも休憩が与えられ、今は少し離れた場所で草を食んでいる。躾が行き届いているのである程度の自由を与えても大丈夫だという衛兵の言葉通り、穏やかで頭の良い馬達だ。
御者席で操縦しても乗馬従者として騎乗しても馬達は素直に従うので、文句の付け所など全くない。侑人は旅立つ前に御者の技術を衛兵達から学んでいたのだが、この機会を利用してついでに乗馬の技術も習得していた。
しかし良い移動手段に恵まれたとはいえ、目的地までの日程と荷馬車の積載量を見極め、余計な荷物を持たず質素倹約に努めるのは勿論の事、時には盗賊や魔物に襲われ命の危険すらあるのが旅というもの。
身嗜みは最低限に抑えざるを得なく、ともすれば体を拭く事さえままならない。女子供そして老人には過酷で、体調を崩した挙句死亡する事すらある。事すらあるのだが……。
「後で貰いますけど今のところは大丈夫です。ありがとうございます」
「ユートがそう言うなら無理にとは言わんがの。じゃが無理は禁物じゃぞ」
ヨーゼフはそう言葉を発すると静かに目を閉じた。やがて穏やかな寝息が聞こえてきたので優雅なお昼寝タイムに突入したらしい。
平和。まさに平和な日常としか言いようがない状況。
世の旅人がこの状況を知れば泡を吹いて倒れそうになりつつ、是非ご一緒させて下さいと土下座して頼み込んでくるだろう。
今日の日付は火の月の第五週の一日。二週間前にセビルナ王都へ向かってティルト村から旅立った侑人達一行は、長閑な雰囲気の中でゆっくりとした時間を過ごしていた。
ヨーゼフが寛いでいる場所にあるガーデンテーブルやガーデンチェアは、ホラント家に元からあった物だ。過去に侑人がティルト村での生活の中で作成し、ホラント家に住む皆が愛用している品々だが、非常識にも旅の荷物として持ち歩いている。
普通に考えれば積荷が制限される馬車での旅にそんな大荷物を持ち歩くのは不可能だが、それを可能にしているのは侑人に備わってしまった妙な能力だ。アンナが持てる大きさの物であれば身体の中に収納できてしまうという、その特技を生かせば一生楽に生活できそうなとんでもない侑人の能力。
“身体強化”を使用したアンナなら大抵の物は持てるので、建物に備え付けられている家具以外はほぼ収納可能だったりもする。
それを知ったアンナとマリアの二人が暴走し、ホラント家にある殆どの物品を侑人の中に詰め込んだ上で旅に出ていたのだ。
この能力に欠点があるとすれば、荷物の出し入れに侑人の魔力を使用する事だろうか。その為過度に物を出し入れすると魔力の使いすぎで疲労感を覚え、全身の節々に痛みを感じてしまう。
しかし落ちはこの通りだ。あまり無茶するなという、侑人の心の叫びが全く届かなかったとも言える。
結果的に快適な旅路になったので、現時点では侑人も納得していた。最近では侑人が一番この能力の恩恵を受けているとも言うが。
とにかくこの能力はアンナの発案で“無限収納”と名付けられたが、本当に無限に収納できるのかまでは調べていない。限界まで詰め込んだ結果何が起こるか判らない事と、過度に出し入れされて魔力を消費すると倦怠感が襲い掛かる事を理由に侑人が断固拒否したからだ。
なお建物サイズまではさすがの侑人も持ち歩けないので、ここに石造りの建物があるのにはまた別の理由がある。
「ヨーゼフさんはいいとして、あの二人はいつ帰ってくるのかね」
そんな事を呟きながら侑人は後ろを振り返る。緩やかな右カーブを描きながら草原の中を突っ切る街道の少し先に見えるのは、数刻前まで居たはずの深い森。
侑人が心配している二人――マリアとアンナ――はその中に居る。近くに居るような気配はないのでかなり奥の方まで行ったようだ。
マリアとアンナは今、魔法の修行を兼ねて狩りをしている。実践に勝る修行はないという持論の元、今日の拠点に到着した早々にアンナがマリアを拉致して森の中へと入っていった。
魔法に関して侑人以上の戦闘能力を誇るアンナと、攻撃手段が乏しいとはいえ狩りに関しては侑人の師匠ともいえるマリアがコンビを組んでいるので、下手な心配などするだけ無駄ではあるが。
余談だがマリアが使用できる魔法は今のところ“炎の魔弾”だけだ。とはいえ余剰魔力を遮断する術と魔力を他人に受け渡す術は既にマスターしている。
アンナ曰くマリアは天才肌な所があるので、きっかけさえ掴めればすぐに才能が開花しそうとの事だ。
「狩りの成果を聞かずに勝手に夕飯作ると後が怖いからなぁ……」
二日前の惨状を思い出した侑人が身震いをする。
手持ち無沙汰だった侑人が何も考えずに手持ちの保存食を使い、簡易的な夕食を作ってしまったのだがタイミングがかなり悪かった。
あと少しで夕食が出来上がる頃になって戻ってきたマリアとアンナの手には、かなりの猟果があったのだ。
マリアは苦笑い程度で納まったのだが、豪華な夕食を楽しみにしていたアンナの怒りは凄まじかった。一国の姫は豊かな食事に対する拘りも半端ないと、侑人は青い顔をしながら学んだのだ。
とにかく『わらわ達の腕を見くびっておったのか!』と声を荒げるアンナを宥めるのに翌日まで掛かってしまった。
「そうは言ってもやる事がもうないんだよな……。野営の準備をするにも、今の時点でやり過ぎだと怒られたし……」
侑人の呟きの通り、今の状況は野営だ。
石造りの建物があるのだが、侑人達が滞在している位置の関係上、野営で一泊するというのが正確な表現なのだ。ちなみに石造りの建物は今日の昼までは存在すらしていなかった。
旅の常識に真っ向から勝負を持ちかけて、粉々に粉砕した挙句バカンスにまで昇華させたのは侑人の存在だ。
アンナの指導を受けながら再び魔法の修練を始めたマリアに触発され、コツコツと魔法の腕を磨いている侑人がもたらした副産物が今の環境である。
我流で使っていた魔法の基礎を学び直し、魔法詠唱はともかくとして正確な魔法名を覚え体に叩き込む為に侑人が選んだ手段は、ひたすら魔法を使い続けるというシンプルなもの。
戦闘行為を繰り返して己を磨き上げるのが魔法修行の常套手段だが、侑人が選択したのは日々の生活に密着した魔法を行使する事だった。とはいえ元々この世界の魔法は全て戦闘用なのだが。
しかし世間では黒髪の勇者などと呼ばれているが、基本的には一般人を自負する侑人の魔法イメージにより、それらは生活魔法と呼べる程アレンジされていた。
ちなみに予備知識なしに魔法を行使する事と、基礎や理論を熟知した上で魔法を行使する事を比べれば、間違いなく後者の方が魔力の無駄を防げ威力の増大を見込める。
元の世界に置き換えて説明するならば、スポーツの分野で考えると判りやすいかもしれない。コーチの指導で理論を学び効率が良くなれば、選手の記録も伸びていくと言ったところか。
とはいえ侑人にとっては弊害もある。既存の考えに染まらない侑人の魔法は時として誰も知らない効果を発揮する場合があるのだ。考え方に常識という枷を嵌めてしまうと、侑人の良さがスポイルされてしまう。
例を挙げると魔法属性には相性があり、その相性によって同時使用の制限を受けるのは魔法を使う者の常識だったが、侑人はそれを知らず簡単に無視した。
基本魔法の火・水・土・風には相関関係がある。火の魔法は風に強く水に弱いといった特性があり、土の魔法は水に強く風に弱いといった特性があるのだ。
相関関係を強い物から表せば、火、風、土、水、火……と繰り返され、隣り合った属性同士の魔法は同時使用できない。できないはずだったのだが……。
侑人は火属性の“身体強化”と風属性の“探索の風”を同時使用していた前科がある。“身体強化”を使いつつ風属性の“飛翔”を使った事もあった。なんというか世界の常識に喧嘩を売りたい放題の状況だったのだ。
アンナが探るように、かなり遠まわしな言い方で魔法属性には相性がある事実を旅の最中に教えたのだが、その時のアンナの顔はかなりの緊張感に包まれていた。一歩間違うと侑人の武器ともいえる、影響し合う属性魔法の同時行使ができなくなる恐れがあるからだ。
対する侑人の反応は『へー、でも俺は違うみたいだな』という拍子抜けなものだったが。侑人の返事を聞いた時のアンナの怒り具合は割愛する。侑人の名誉の為にも。
とまあそんな事もあり、アンナは侑人が自力で学んだ魔法の内、この世界に元々ある魔法に関してだけ正確な属性と魔法名を教えるといった形式を取った。
その他の魔法に関しては、使いたいなら勝手にイメージして自分で編み出せという、放任どころか放置プレイ気味な学習方法だが今のところは上手くいっている様だ。
なお侑人が使う“癒しの水”は一般的に知られている効果と全く違う、所謂“癒しの水もどき”なので、アンナにも正式な魔法名や属性が判らない。なので今まで通り人目に付かない範囲であれば、侑人の思う通りに使えばよいと言われていた。
「もう一回建物の点検でもしておくかな。でもその後どうすっかな……。ったくアンナはあれするなこれするなって煩すぎる。まあ、大体は俺が悪いんだけどさ……」
侑人はブツブツ文句を言いながら石造りの建物へと歩を進める。間近で見る建物は見た目以上に頑丈な造りをしていて点検の必要性など皆無なのだが。
ここ最近の侑人の行動はルーチンワーク化されていた。
町や村に滞在する時にはまた別の行動を起こすのだが、野営の場合は建設に適した土地が見つかると“岩壁生成”で建物の大枠を屋根ごと一気に作成し、続いて“地形変化”でカマドと浴槽とトイレを作り上げるのだ。
部屋数に関しては共有スペースと男女別の寝室を二つ、後は洗面所兼浴室とトイレになる。ベッドに関しては天板が平滑で真四角な塊があればいいだけなので、建物の大枠を作る際に一緒に作成してあった。
なお外部環境によっては室内がかなり埃っぽくなってしまうので、“困惑の霧”を使って埃を抑えたりもする。本来の用途は敵の視界を塞ぐ攻撃補助魔法なのだが、そんな事など全く気にも留めない侑人だ。使える魔法は何でも使う。
トイレは“地形変化”で中央部分に深い小さめの穴を開け、側に土の入った桶と水の入った桶、清潔な布の切れ端の束を用意し臭いを含めた諸々の対策は万全だ。土は“石つぶて”を応用して用意し、水は“水の魔弾”で解決している。
マリアやアンナの為にもトイレ作成において手を抜く事はしない。侑人自身が不潔なトイレに我慢ならないだけとも言うが。
浴槽は大人が二人程入れる大きさに“地形変化”で大地を抉り、周囲の土地ごと“素材強化”で固めて洗い場を作成しただけのシンプルな形状で作ってある。“水の魔弾”で水を溜め、“熱量置換”で湯を沸かすのを前提としているし、使用するのも一晩限りなので排水に関しては特に考慮されていない。
とは言うものの心配性の侑人が翌朝に“熱量置換”で残り湯を一気に蒸発させているので、虫の発生等は起こらないだろう。
ここまで作業を進めると一旦スピードを緩め、“素材強化”を使用しつつ強度に問題がないか細部まで調べていく。屋根の部分のチェックには“飛翔”を使いつつ、万が一の落下に備えて“身体強化”は使いっぱなしの状態だ。
建築の際に使用した魔法の中で、“飛翔”だけは習得に苦労した。人間が生身で空を飛ぶイメージを現代人の侑人がするのには多少無理があったのだ。だが身近に気軽に飛ぶアンナという存在が居た為、最終的には成せば成ると開き直る事ができ、習得に至っていたりもする。
一通りのチェックを終えると今度は“鎌鼬”で周囲の木を切り、大小様々な板を作成する。重たい材木は“身体強化”で底上げされた腕力で移動……一言で言えば力技で解決した。
移動した材木を“圧水噴射”や“鎌鼬”を駆使して加工し、各種パーツを作り上げて組み立てると、最終的には外部扉と木窓が出来上がる。始めのうちは寸法が建物に合わなくて作り直しが発生したのだが、侑人が持つ『どんなものでも理解できる能力』が本領を発揮し、あっという間にミスらしいミスはなくなっていった。
ちなみに釘は“岩壁生成”の応用で作り、“素材強化”で強度を上げている。
ここまでの作業は全て侑人の中で規格化された寸法を用いていた。周囲に木がない事を想定しているのだ。部材の使い回しができれば作業効率はさらに上昇する。
無限収納を駆使してできるだけ部材は使い回し、念の為に予備の外部扉と木窓を二セットほど保管していた。念には念をというやつだ。
なお内部の仕切りに関してだが、トイレと洗面所以外は全て布製の暖簾で代用し時間短縮を図っている。とは言っても寝室の二部屋だけなのだが。
侑人がここまでの作業で使用している魔法の属性だが、
火属性……“身体強化”、“熱量置換”
水属性……“水の魔弾”、“困惑の霧”、“圧水噴射”
土属性……“岩壁生成”、“地形変化”、“石つぶて”、“素材強化”
風属性……“飛翔”、“鎌鼬”
となり、多少お気に入りの土属性の比重が高めだが、基本魔法を万遍なく修行していた。
最初のうちはここまでの作業をする為にかなりの時間を掛けていたのだが、ここ最近の侑人は作業を地球時間で一時間程度、マグナマテルの時間でおよそ半刻で終わらせている。
ちなみにマグナマテルの時間だが、農村部を含む大部分の地域では日の出から日の入りの間を六つに区切る、いわゆる不定時法によって生活していた。太陽が南中を示す正午を零時とし、日の出と日の入りまでの間を三等分するイメージだ。それと対になる形で夜中の時間も同じように分けられているが、夜間は闇に包まれてしまう農村部で正確な時間など確認できない。従って概念として定着しているが、夜間の時間に関してはかなりアバウトな把握をしていた。
時の刻み方だが夜中の零時を無の刻と呼んで基点とし、前一の刻、前二の刻と進み、日の出の時間が前三の刻となる。そのまま前四の刻、前五の刻と進み、正午の時点で零の刻と呼ばれる時の基準点を迎えるのだ。
ハルモ教正教会では、太陽神ハルモが天の頂点を極める神聖な時間を基準として時が定められたと教えられるのだが、ハルモ教を国教とするハルモ教法王庁教圏国家群と敵対しているアンナの母国、クーラント魔国でも同じ時の刻まれ方をしていたりもする。
その為侑人はハルモ教正教会が主張する説を信じていない。ハルモ教正教会司教ペッカート・ウルティム・ミーレスに大迷惑を掛けられたので、個人的な感情で否定しているとも言うのだが。
なお零の刻から先は午前とほとんど同じだ。後一の刻、後二の刻と進むと日の入りが後三の刻となる。そのまま後四の刻、後五の刻とすすんで深夜の零の刻に戻る。
都市部では魔力式の時計塔が建設され、時の刻みは日の出、日の入りに影響されずより正確なものとなる。それぞれの刻限に鐘が鳴らされ、都市の住人に時間を教えるのだ。とは言っても時を伝える為に鐘が鳴らされるのは前三の刻から後三の刻の間だけになり、夜間の安眠は保たれていた。




