第11話:彼女達の本質
「なあアンナ……」
「なんじゃ? なんか用でもあるのか――男爵」
「いい加減に機嫌直してくれないか?」
「わらわは普段通りじゃぞ――大王。むしろそちの元気がないなら、エルとかいう女に慰めて貰えばいいのではないかの?」
アルクィン達が滞在している屋敷を後にした侑人とアンナは、ホラント家へと向かうあぜ道をゆっくりとした足取りで進んでいる。
ちなみに侑人の右手には漆黒の太刀が握られている。アルクィンの父親の形見を貰う気にはなれず、そのまま有耶無耶にしてしまおうと侑人は考えたのだが、屋敷を出たところでエディエスに捕まりしっかりと押し付けられたのだ。
二人を取り巻く空気はいつも通りと言えず、かなり剣呑とした雰囲気に包まれているのだが、それは全てアンナの後ろ姿から放たれている。
さすがに表立って侑人をエロ呼ばわりする事はなかったが、会話の節々に小声でその言葉を織り交ぜ、暗に侑人を責め立てていた。
確かにアンナが侑人の身体に戻った瞬間だけを切り取ると、状況証拠は十分に揃いすぎていて黒だと言われても仕方ない事だと思う。
だがちゃんと理由を説明できればアンナも納得してくれるはず。そんな思いが侑人を駆り立てていく。
「アンナ。ちょっと他言無用の内容が含まれてるんで外では話せないんだ。できればもう一度俺の中に戻ってくれないか?」
「嫌じゃ。――河童の中に戻るなどおぞましくてわらわにはできん。わらわまで虜にされてしもうたら、マリアに申し訳が立たんからの」
アルクィンが気を利かせて侑人の治癒魔法の効果に関して緘口令を敷いてくれたのに、侑人本人がそれを破る訳にもいかない。ホラント家の面々に対しては正直に話そうと考えているのだが、さすがに誰が聞いているのか判らない外で話すのはリスクが高すぎるのだ。
侑人は頑なな態度を取り続けるアンナにどう対応しようか頭を抱えていた。とは言っても、アンナは八割以上減ってしまった侑人の魔力を半分ほど回復してくれたので、本格的に距離を取られている訳ではなさそうだが。
実体化しているアンナは侑人より二歩ほど前を歩いている。しかしその足取りはいつもよりかなり乱暴であり、侑人が話し掛けても一切振り振り向こうとしなかった。
「家に着いたら全部説明するから機嫌直せって。俺にはやましい事なんて何もないんだから」
「ほほう。さすが女衒はいう事が一味違うの。怖い怖い……」
「ん? ぜげんって何だ?」
「女をかどわかして遊郭などに売り払う悪党の事じゃよ」
「ちょ!? さっきより悪化してるぞ。まだエロ扱いの方がマシだ!」
「そうじゃったか。では今後はエロ大王と呼ぶ事にしようかの」
「物の例えだ例え! エロ扱いすんじゃねえ!」
「人間扱いしてるからまだマシじゃろう!」
結局侑人とアンナの低脳な言い争いは、ホラント家に辿り着くまで延々と繰り返されていた。
「ただいま帰りました」
「ただいまなのじゃ」
不毛な争いを演じていた二人だったが、ホラント家の玄関を跨ぐ時には一旦休戦し、律儀に帰宅の挨拶を済ます。しかし家に居ると思われていたマリアやヨーゼフの返事はなく、建物の中は静まり返っていた。
アルクィン達が滞在している建物までの道程は一つでは無い為、途中で行き違ってしまったかもしれない。漠然と侑人がそんな事を考えていると、唐突にアンナが振り返り侑人を睨みつけた。
「さて、ご要望通りに家に帰ってきたのじゃ。申し開きをするなら今のうちじゃぞ」
「あのなぁ。なんでそこまで俺を疑ってるんだよ。確かにアンナが来た瞬間だけを考えると、俺も強い事は言えないんだけど、俺とエルは直前まで戦闘してたんだぞ。その辺をヨーゼフさんから聞いてないのか?」
「勿論聞いておるぞ。戦闘嫌いのユートがノリノリになってしまい、このままだとどっちかが大怪我する可能性が高いと、ヨーゼフ殿が青い顔をして飛び込んで来たからの」
「だったらその後の治療の一環だって、冷静になったアンナなら気づけるだろ?」
「わらわもその可能性が一番高いと思っておってのじゃが、その後の会話の流れを聞いてしまうとな」
「会話の? エルと呼べってやつか?」
「それもあるがそれだけではないの」
訝しげな表情をしながら睨みつけてくるアンナの視線を受け流しつつ、その後に起こった出来事を侑人は思い返す。
侑人に抱きついて涙を流していたクリスは、少し落ち着いて我に返ると真っ赤な顔をして慌ててバスローブを着込み、その上からシーツを被ってベッドの上で悶えていた。
侑人が声を掛けても奇声を上げるしか反応を示さなかったので、とにかく今日は身体をゆっくりと休めて養生しろと声を掛けたのを覚えている。
しかし侑人はそのままベッドルームから退出したので、クリスとの会話は特になかったはずだ。アンナの指摘がさっぱり判らない。
「ベッドに潜り込んだエルと、特に会話した記憶なんてないのだが」
「ああ、そうじゃろうな。ユートは気づかずそのまま部屋から出て行ったからの」
「へ? 気づかずってどういう事?」
「わらわの口から説明したくもないが、伝えないと話が先に進まんから仕方ないかの。ユートが部屋から出る間際にの、あのエルと呼ばれてる女は小声で呟いたんじゃ」
「ふむ」
「王都でも呼び出すから覚悟しろよユート。しかし舞い上がっていたとはいえ、私はなんて事をしでかしたんだ。ユートの顔をまともに見る自信がない……とな。乙女の恥じらいが多分に含まれた、それは可愛らしい声じゃったぞ。そこでわらわは察した。これは黒じゃと」
「意義あり! 俺の言い分も聞け!」
「まだ他にもあるのじゃ。あの女と仲睦まじくしておるエディエスとかいう者と、屋敷を出る際に声を交わしておっただろ?」
「ん? ああ、漆黒の太刀を渡された時の事か」
アンナの言葉に触発され、侑人の脳裏にその時の状況が蘇る。
リビングで寛いでいたアルクィンに短い別れの挨拶を告げた侑人は、そのまま足早に屋敷から退散しようとしていた。
理由は勿論、漆黒の太刀を受け取る前に逃げ出そうと考えていたからだ。
しかしその目論見は、玄関を出た辺りでエディエスに肩を掴まれた事で見事に崩れた。エディエスの右手にはしっかりと、漆黒の太刀が握られていたからだ。
乾いた笑いを浮かべている侑人に、無理やり漆黒の太刀を受け取らせたエディエスは、そのまま無言で屋敷へと引き返すかと思われた。だがエディエスは侑人の顔を真剣な表情で暫く見つめた後、おもむろに口を開いた。
「エルを女にしてくれて感謝する」
はいアウト。
これではアンナが誤解するのも仕方ない。エディエスが言いたい事は判るのだが、さすがに言葉が少なすぎる。
真相を知る者からすれば、クリスのプライバシーに配慮した端的な表現だとも言えるが、何も知らない者が聞けば、間違いなく男女の関係の話に聞こえてしまう。
寡黙な男が発した誤解満載の台詞をどう覆せばいいのか。全てを説明するのは容易いが、さすがにクリスの傷跡の事をベラベラ喋るのも心苦しい。
アンナの目の前で頭を抱え込む侑人は、必死になって打開策を考え続ける。しかしクリスの説明をぼかしたままで、上手くアンナを納得させる事はできるだろうか。
そんな侑人の姿を暫くの間アンナは睨みつけていたが、やがて大きく頷くと今度は慈愛を湛えたような表情を浮かべる。どうやら侑人が罪を認めて後悔していると勘違いした様だ。
「思い出したかの? あれを聞かされては、心が広いわらわでもユートを真っ黒だとしか判断できんのじゃ。でもまあ大丈夫じゃ。王族や貴族は側室を持つ事もあるゆえ、その辺をしっかりとマリアに説明して許しを貰えたなら、わらわも今回の件を水に流そうぞ」
「ちょっと待ってくれ。エルとの一件は間違いなく誤解なんだが、俺もどう説明していいのか判らなくなってる」
「ユート、よく聞くのじゃ。今のユートはセビルナ王都へと赴き、黒髪の勇者としての使命を果たそうとしておる。確かにユートの身分は王族でも貴族でもないかもしれんが、黒髪の勇者は下手をすればそれ以上の身分と見なされてもおかしくない。そういう身分じゃと自ずと自制を求められ、ノブレス・オブリージュと呼ばれる明文化されていない義務も発生するのじゃ。軽々しい行動は慎まねばならん」
「それは肝に銘じるが本当に待ってくれ。なんかアンナに説教されてると、本当に俺が何かをしでかした気分になってくる」
「確かにユートはまだ独身じゃ。対外的には自由だと言える。じゃがマリアの気持ちもしっかりと汲んだ上で、エルと呼んでいる者の気持ちも大切にする。それができないうちは軽々しい行動を取るのではない。罪を犯す事は駄目な事じゃが、それを認めん事はもっと駄目な事なんじゃ」
「それを罪と認めていない訳じゃなくて……って、この流れだと俺が全部認めたみたいじゃないか!」
「認めるのも一つの勇気じゃぞ」
今の流れは侑人にとって非常にまずかった。
アンナが喧嘩腰になっているうちは勢いで反論できていたのだが、語り掛けるような口調に変化された後は一方的にやり込められている。
しかもアンナは侑人に向かって人の上に立つ者の心構えを説きつつ、今回の一件を諭しているのだ。王都に赴いた侑人の為になる内容も多く、完全に否定してしまう訳にもいかなかった。
その為侑人は強気で反論する事を封じられ、話の主導権を完全に握られてしまっている。帝王学を叩き込まれたアンナの語りは侑人の心を揺さぶり、思わずやってもいない罪の告白さえしそうになっていた。
「アンナ! ちょっと待って! 一旦話を止めて!」
「む? どうしたんじゃ?」
「今のアンナのテンションはまずい。思わずやってもいない罪を懺悔しそうになるんだ」
「まだそんな事を言うのか。往生際は見極めんと駄目じゃぞ」
「だーかーらー! 本当にちょっと待って。全部を説明すれば良いのは判ってるんだが、エルのプライバシーの関係もあるから話を組み立てさせてくれ」
「ほーほー、それはそれは仲が宜しい事で良かったの」
このままでは口を開けば開くほどドツボに嵌る事を悟った侑人は、真剣な表情を浮かべながら話すべき内容と話してはいけない内容を取捨選択していく。
そんな侑人の脳裏に、アンナに話しても問題にならないどころか、アンナにこそ話すべき話題が思い浮かんだ。
百聞は一見にしかず。打つ手はこれしかない。
そんな事を考えた侑人は、真剣な表情を浮かべたままアンナに語り掛ける。
「今日初めて他人に癒しの水を使ってみたんだが、少し問題というか判らん事があってな」
「ん? 話を変えようとしても無駄な事じゃぞ」
「関係があるからとにかく聞いてくれ。でな、エルが言うには俺の癒しの水は、普通の魔法ではないらしい」
「愛がこもっているからかの?」
「そうじゃねえよ! 頼むからそこから離れてくれ。とにかく俺の癒しの水は新しい傷だけでなく、過去にできた傷跡まで消せるんだ。これはありえない事なのか?」
「傷跡じゃと?」
「ああ、傷跡だ。少なくとも六年以上経った傷跡まで消せた」
はっきりと言い切った侑人の顔をアンナは暫くの間見つめていたが、やがて視線を宙に向けると思考に没頭し始めた。
やはりアンナには魔法関連の話を振るのが一番効果的だ。侑人は内心ではそんな事を考えつつ、アンナの返答を静かに待った。
「癒しの水で傷跡までは消せんじゃろうな。あれは身体が持つ回復力を、魔力で底上げしているだけじゃからな。回復しきってしまった身体に変化を起こせる魔法は、全く別の魔法と考えたほうが良かろう」
「やっぱりそうなのか。エルもそんな事を言ってた」
「そやつは癒しの水の使い手なのかの?」
「いや、剣の鍛錬で怪我をする事が多くて、癒しの水をかなり受けていたらしい」
「逆の意味での専門家という訳かの。それならば実体験として感じる部分も確かにありそうじゃな」
「この魔法の正体をアンナは知ってるか?」
「はっきり言って判らん。禁呪とされている蘇生秘術に近しいものかもしれんが、原理が違う可能性も高いし断言はできんの」
そこまで語ったアンナは再び沈黙して何やら考え込んでいる。自分が持つ魔法の知識や、過去に見た文献の記憶を呼び起こしているようにも見えた。
今の侑人の魔法知識はアンナの足元にも及ばず、仮にアンナにも判らない事であるなら、その謎は暫く解けないと考えた方が良い。
侑人は緊張しながらアンナの言葉を待っている。実際に使ってみたので効果に関しては自信を持っているが、原理がはっきりした方が今後も安心して使えるからだ。
そんな侑人の心情を察したのかアンナがおもむろに口を開く。しかしアンナが発した言葉は侑人が予想すらしていないものだった。
「でじゃ、その魔法と今までの話はどういう関係があるのじゃ?」
「は?」
「傷跡が消えて女が喜ぶのは判るのじゃが、裸の女が頬を染めて抱きついていたことに対する明確な説明はまだかの?」
「へー、なんか面白そうな話をしてるね。私にも詳しく聞かせてくれないかな?」
「え? マ、マ、マリア!?」
慌てて振り向いた侑人の目には、どす黒いオーラを纏った笑顔のマリアが映っていた。
一見すると機嫌良さそうなマリアに従って、さっきまでアンナと立ち話していた玄関からリビングへと侑人は場所を移す。
ひょっとしたらマリアはアルクィン達から事情を聞いているのかもしれない。侑人は椅子に座りながら、そんな事を期待してマリアの表情を伺う。
しかしその考えは甘かった。笑顔を浮かべているはずのマリアのこめかみには、今にも血管が浮き出てきそうなのだ。
冷静に考えてみれば、侑人に断りなく侑人の治癒魔法に関してアルクィン達が話す事などない。マリアやアンナは事実を知ると判っていても、それを他人の口から聞かせるのは話が違う。
そんなアルクィン達の気遣いは嬉しいのだが、今のこの瞬間に限っては完全に裏目に出ている。他人の口から無実を証明して貰った方が、どう考えても手っ取り早いのだ。
「お、お茶でも飲みながら話さない?」
「後で私が淹れてあげるから、今はユートの話がじっくりと聞きたいかな。どんな話なのか楽しみだなー」
「そんなに楽しい話でもないんだが……」
「え、えーとじゃなマリア。わらわは同席しなくても良いのと思うのじゃよ。それにわらわは片付けが途中じゃし、今後の用意もあるからのぅ」
「アンナもその場に居たんでしょ? 色々聞きたいから一緒に居てくれると助かるかな。私が後で手伝ってあげるからさ」
「わ、判ったのじゃ……」
実戦における戦闘能力をこの三人で比べれば、マリアは間違いなく最弱のはずだ。しかし今発してるマリアの雰囲気は、絶対王者の貫禄と言っても過言ではない。
どう考えても目の前にいるマリアに逆らう勇気が沸いてこないし、実力行使しても勝てるとは思えないのだ。それはアンナも同じ様で、脅えた子猫の様な雰囲気で小さくなっていた。
四面楚歌、孤立無援。
絶体絶命、五里霧中。
出前迅速、落書無用。
究極の状況まで追い込まれた侑人の脳裏に、どうでもいい単語が次々と浮かんでは消えていく。先ほどから思考は過去最大級の速さで回転し続けているのだが、冴えてピカピカした考えは全く浮かんでこなかった。
未来製狸型アンドロイドバージョンブルーをこの場に呼び出して、地球破壊爆弾を貰いたい気分にもなるが、残念ながら未来に行く便利な魔法など覚えていない。それ以前にマグナマテルの未来に進んでも、ホンワカパッパした地球の未来には繋がっていないのだが。
しかし現実逃避する侑人の事など構う事なく、事態はどんどん進んでいく。この場を綺麗に収める事ができるなら、今までの事件など全く起こらなかったと思える程、侑人にとっては最高の難度を誇る大問題だ。
誤解を解けないまま針のむしろの様な生活を送る映像が脳裏に描かれ、侑人は絶望感に打ちひしがれていた。この手の話に関しての経験値が圧倒的に不足している侑人には、無事に朝日を拝める自信など持てない。
しかし頭を抱えて考え込んでいる侑人に助け舟を差し出したのは、この状況を招いている張本人のマリアだった。
「ユート、黙ってても判らないから話してくれないかな?」
「あ、ああ。だがどう説明すればいいやら……」
「何ならアンナから聞いてもいいんだけど、さっきの様子だとユートは困る状況になるんじゃないかな」
「確かにそうだな。アンナには誤解されたままだから、それは言えてるかも」
「慌てなくていいよ。何か事情があるんでしょ? どうせユートの事だから、他の人に迷惑が掛かる内容を話せなくて困ってるんだと思うし」
先ほどとは打って変わり、マリアは穏やかな笑みを浮かべている。どうやらこの短時間で侑人の心情を読み切ったらしい。
そんなマリアの姿を見た侑人は落ち着きを取り戻すが、アンナは逆に背筋が凍るような思いだった。アンナの瞳に映るマリアの存在が、とてつもなく巨大なものに変化していくように感じている。
黒髪の勇者の存在はマグナマテルの将来を左右する程の存在感を放つ。侑人の性格を理解した今ではその危惧を持ってないが、仮に侑人が破滅を望めば世界もそっちの方向へと進んでいくのだ。
大げさな表現かもしれないが、完全に誇張だとも言い切れない。ハルモ教法王庁教圏国家群だけでなく、それに敵対する国家も黒髪の勇者の存在を無視できないのだ。
そんな侑人に大きな影響を与える事ができるのは、アンナの見立てではホラント家の二人。侑人からエルと呼ばれる事となったクリスの存在も無視はできないが、絆の深さではホラント家の二人どころかアンナにも到底及ばない。
アンナも侑人とかなり仲が良い自信があるが、それでもマリアやヨーゼフには敵わないと認めていた。ホラント家と侑人は、血を分けた血族以上の繋がりを見せているのだ。
「そんなに緊張しなくていいよ。気楽に気楽に」
「毎回済まん。マリアには敵わんよ……」
「それはどういう意味かなー。怖いって意味なのかな?」
「違うって! 考え込んでた俺が馬鹿みたいに思えるって事さ」
「変なの」
「確かに俺は変かもな」
アンナの目の前で、侑人はいつもの調子をどんどん取り戻していく。侑人を追い込んだ張本人アンナが言うのもおかしな話かもしれないが、それを簡単にやってのけたのはついさっき合流したばかりのマリアだというのは間違いない。
しかも会話の主導権は常にマリアの手元に握られている。言葉が悪いかもしれないが、侑人は完全にマリアの手の内にあると言えた。
とにかく侑人をコントロールできる存在は、間接的に世界へと大きな影響を及ぼす事ができる。現時点の話にはなるが、マリアとヨーゼフがその筆頭とも言える存在だ。
そしてマリアにはヨーゼフにはない最大の強みがある。それは若い女性という絶対に覆しようのない決定的なもの。
マリアがその気になれば、侑人を籠絡し黒髪の勇者夫人として裏から世界を操る事さえできるかもしれない。侑人にとってのマリアは一番身近な異性であり、最大の理解者でもあるのだ。
「マグナマテルの命運はユートではなく、マリアの手に握られているやもしれんな。二人の関係を軽率に煽るのは控えるべきかの……」
「ん? 何か言ったかな?」
「いや、単なる独り言じゃよ。そんな事よりもユートから事情を聞かなくて良いのかの?」
「あ、そうだった。ありがとねアンナ。という事でユートはちゃっちゃと話す話すー」
「何かマリアは楽しそうだな」
「そうかな? でもユートが戦ってるとこを見たかった気もするから、その辺から話してくれると嬉しいかも」
「了解。模擬戦の辺りから話さんと俺も上手く説明できんから助かる」
そのままマリアが主導する形で、侑人の身に何が起こっていたのかという話は進んでいく。
困ったような顔をしながら話をする侑人と頷きながら相槌を打つマリアの姿を、アンナは頬に手を当てたまま黙って見つめ続けていた。
「そうだったんだ。ユートは良い事をしたね」
「そうじゃったのか。あれこれ疑ってすまん事をしたのユート。じゃがわらわはまだ完全に納得した訳ではないぞ。あの女と仲良くなりすぎだと思えるんじゃ」
「うーん。長年悩んでた傷跡が消えたんでしょ? だったらクリスさんが感激して飛びついちゃっても、全然おかしくないんじゃないかな?」
「むう、マリアは優しすぎじゃ。そんなんじゃ将来浮気で泣かされてしまうぞ。というか、これでは心配したわらわが馬鹿みたいではないか」
「あはは、アンナの気持ちは嬉しいよ。本当にありがとね。でも私なら大丈夫、将来の旦那さんがそんな事になってたら、自分の力だけで何とかするから」
「うわ……。マリアの笑顔がかなり怖いのじゃ。やはりわらわが心配する事などなかったか」
目の前で仲良く談笑を続けているマリアとアンナを横目に見ながら、説明で気力を使い果たしてグッタリしている侑人は机に突っ伏している。
正直に言ってクリスのプライバシーに配慮しながら、たどたどしく説明する侑人はかなり怪しく見えた。しかし侑人の性格を熟知しているマリアはその真意を察し、フォローするような相槌を打ちつつ見事にアンナの誤解を解いたのだ。
己の名誉は何とか保たれたが、今回の一件でマリアにもアンナにも敵わない事を改めて実感させられた侑人は、この二人を怒らせる事だけはしないと固く心に誓っている。
ちなみにヨーゼフはこの場に居ない。アンナを呼び出した後、再びアルクィンの元へと訪れたヨーゼフは、今後の予定を詰める為に話し合いを行っているらしい。
マリアも一緒に屋敷へと赴いたのだが、その事を伝える為に一足先に家に戻ってきたのだ。
「しかしユートの癒しの水を見てみたいものだの。傷跡が消えるなんて信じられんのじゃ」
「そんな事言われても、俺には目立った傷跡なんてないぞ」
「わらわもないのじゃ。わらわの場合は幼い頃から癒しの水が使えたゆえ、自分で治してしまっていたからの」
「えーと、ユートの癒しの水は子供の頃にできた傷跡も消せるの?」
「ああ、エル……ってクリスの事だけど、治療の際に幼い頃の傷跡まで消えたって言ってたから大丈夫だと思う」
「あは、エルってクリスさんの愛称だよね。そのままの呼び方でも判るから大丈夫だよ。しかしそっか治せるんだ……。じゃあ私のを治してくれるかな?」
「ん? マリアだったらいつでも言ってくれ。最優先で治すから」
マリアは椅子から立ち上がると、上着の裾を少しだけあげて後ろを振り向いた。恥ずかしそうに頬を赤らめている姿は、侑人の鼓動を少しだけ速くする。
しかし侑人は気を取り直して、マリアの病状を観察する事に意識を集中させた。マリアの頼みは侑人にとって最大級の事件だと言っても過言ではない。
服の隙間から覗く腰の部分の真っ白な肌に、掌サイズの痣の様なものが浮かんでいる。服に隠されている場所なので目立つ事はないが、それでも女性にとっては大問題のはずだ。
「子供の頃の火傷の跡なんだ。この跡が残ってしまった時、お母さんが本当に悲しそうな顔をしてたから、消せるんだったら消したいの」
「任せろ。絶対に成功するから安心してくれ。でも触れないと治せないから、それだけは勘弁して貰えると助かる」
「合法的なセクハラだの」
「ちょ!? 気が散るからアンナは黙っててくれ!」
「冗談じゃよ。わらわも興味があるから見させて貰うぞ」
「何か私が緊張するんだけど、痛くなったりしないよね?」
「ああ、そんな事はないみたいだから大丈夫だ」
侑人は椅子から立ち上がり、マリアの横に膝づくような姿勢を取る。そして二人の好奇な視線に晒されつつ、侑人は意識を集中させていく。
クリスの酷い傷跡の治療を行っていた時と同じ様に、侑人の身体が金色に包まれていた。
「魔力の上げ過ぎじゃと思うのだが……」
「相変わらずユートの魔法は凄いな……」
確かにアンナの指摘通り、マリアの痣を治す位ならここまで魔力を高める必要はない。しかしマリアの治癒を必ず成功させようと意気込んでいる侑人にとって、これでも加減しているつもりなのだ。
侑人はマリア絡みの案件になると、自分の能力に科しているリミッターが外れやすくなる。しかし侑人本人はその事に全く気づいていない。
「行くぞ」
侑人の掌が一瞬だけマリアの肌に触れる。魔法の正体を探ろうとアンナが集中して見つめていたが、効果時間があまりに短くどの系統の魔法なのかさえ掴めない。
そして侑人が手を離した時には痣は跡形もなく消え去っていた。多少魔力を過剰に使用しているが、問題なく治癒は行われたのだ。
「おお、本当に消えたのじゃ。正体はさっぱり判らんが、とにかく凄い魔法じゃな」
「凄い凄い! これでお母さんも喜んでくれるよ!」
マリアとアンナは満面の笑みを浮かべながら、ハイタッチをして喜びを表している。やはり女性にとって傷跡は大きな問題を秘めているらしい。
侑人は額に流れる汗を右手で拭きながら軽い溜息を吐いている。必ず消せると信じていたが、予想以上に緊張していたようだ。
立ち上がって腰の辺りを叩いている侑人は満足げな表情を浮かべた。黒髪の勇者の使命だろうがなかろうが、人が喜ぶ姿を見るのは格別な思いなのだ。
しかし事態は侑人の心情を慮る事なく再び明後日の方向へと動き出す。
「あ、こういう時はこうするんだっけ?」
「ん? んな!?」
「うほぉー! マリアが進化しておるのじゃ!」
「進化ってどういう事なの?」
「言葉の綾じゃ。気にするでない。しかしこれは強烈な眺めじゃの……」
マリアは悪戯っ子のような笑みを浮かべながらいきなり侑人に抱きついたのだ。そのまま力いっぱいしがみついたので、侑人の身体は柔らかい何かで覆われて大変な事になっている。
ガチガチに緊張して硬直している侑人の胸元で、マリアは舌を出しながら小声で呟く。
「やっぱりやられっぱなしは悔しいもんね……」
「…………」
「むう……。やはりマリアは最強かもしれん。わらわが心配するだけ無駄じゃったか」
男性恐怖症だったはずのマリアの行動は、今までの反動のせいなのか結構過激になっているようだ。
侑人を巡る女の争いが水面下で勃発した……かもしれない。
2014/5/16:話数調整
2014/5/25:魔法名追加