第3話:数奇な出会い
火炎ウサギもどきと出会ってから二時間後、侑人は川のほとりで仰向けに倒れていた。
自分が既に追われていない事を悟ったとたん、強烈な疲労感に襲われて一時的に動けなくなったのだ。
心臓は早鐘のように拍動し、身体中の汗腺からは汗が噴出している。両手は完全に痺れて動かせず、両脚が狂ったように痙攣を起こしていた。
「もう……ゼイゼイ……一生分……ハアハア……走った……気がする……ぞ」
過呼吸寸前まで乱れていた呼吸を何とか落ち着けようと、そのままの姿勢で深呼吸を繰り返す侑人。あまりの息苦しさに途中でラマーズ法まで取り入れていたが、効果があったのかなかったのかは神のみぞ知る。
やがて呼吸が落ち着き、多少の体力が回復した侑人は、川岸まで近づいて座り込む。穏やかな水面を見つめながら、近くにある石を投げ込んで一人たそがれ……もとい、いじけていた。
「ウサギが火を噴くとは……危険生物を駆除しないなんてありえん……」
ブツブツと文句を呟く侑人。
体育座りの姿勢で川に小石を投げながら、政権が変わったから悪いなどと呟き続けて現実逃避をしていた。
とは言っても、侑人は内心自分の置かれている非日常な状況と、自分が今いるこの世界の異常な状態に気づいている。
不思議な声を聞いたと思ったら見ず知らずの場所に自分が移動していた現状と、自分が知る世界のウサギが火を噴くわけがない事を合わせて考えると、どうも自分がいるこの場所は、日本どころか地球でもなさそうだという事を把握しつつあった。
――異世界召喚――
侑人の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
小学生の頃憧れていたゲームやお伽噺の主人公の様に、強制的に世界の平和の為に行動を起こす義務でも背負わされたのだろうか。
しかしこういった非日常な世界に巻き込まれるのは、バイタリティ溢れる有望な若者だというのが定番で、受験戦争で呆気なく敗北した自分を呼び出しても意味がないと思う。
そう考えると、この世界に自分が紛れ込んでしまったのは単なる事故で、この後には元の世界に戻る方法をただ探すだけの、過酷な運命が待っているだけかもしれない。
「異世界から来たってどうやって伝えればいいんだ? 俺はこの世界の住人ではありませんって言ってもまずいよなぁ。つうか、いきなり説明しても危ない人にしか思われない気がする……」
そうなると誰にも合わずに一人で帰る手段を探すしかないのか。
そんな結論を出しそうになった侑人の脳裏に、先ほどの火炎ウサギもどきの姿が浮かぶ。
「あんなのがウロウロしてる世界で一人はさすがに無理だろ……」
先ほど出合った火炎ウサギもどきがこの世界最強の生物だという保証はない。むしろウサギがあんな姿であれば熊や狼はどんな姿に化けているのか想像もつかないし、そちらの方がさらに強暴で危険だという可能性のほうが高い。
単なるサバイバル生活を送るだけでもかなりの不安感が付きまとうのに、人外の化け物が生息するこの森で一晩を越す事を考えると、無謀を超えてもはや絶望的にすら思えた。
「どうしようかなぁ……」
周囲の小石を全部川に投げ入れるほどの時間をかけ、侑人はなんとか現実を受け止めて立ち直り、今後の身の振り方を考え始めていた。
しかし心細い状況では良い考えがなかなか浮かばない。むしろ悪い考えばかりが脳裏を過ぎる。
そもそも元の世界に戻る手段はあるのか。
突然居なくなった俺の扱いはどうなっているのか。
元の世界に戻れたとしても、自分の居場所があるのか。
様々な疑問が脳裏に浮かびあがるが、その回答となりそうなものは周囲になく、深く考え込む侑人の頬を、少し肌寒い風が静かに撫でていく。
色々と考えてはみるものの、今後自分はどうなるのかという不安の方が大きく、思考が上手くまとまらない。
本来であれば侑人が現実を認めるまでには、もう少しの時間が必要だったのだが今はそんな余裕すら無かった。
「サバイバル生活なんて俺には無理だし、とりあえず町や村を見つけるしかないか」
くよくよしていても仕方がない、暗くなる前に行動しようと決めた侑人は、ゆっくりとした動作で立ち上がったのだが、それとほぼ時を同じくして背後の茂みが音を立て始めた。
「勘弁してくれ……」
侑人は泣きそうに……実際に半泣きしていたのだが、両頬を軽く叩いて自身を鼓舞する。
色々言いたい事は山ほどあるが、とりあえず最後まで足掻いてみよう。侑人はそんな事を考えていた。
目の前にある低い木々で形成されている深い茂みが、奥の方でガサガサと音を立てて揺れている。どうやら森の奥の方からこちらに向かって、何かが近づいているようだ。
「冷静に……クールに対応するんだ俺……」
対象に気づかれない程度の声量で呟く侑人。視線を音がする方向に固定し、直ぐに逃げられるような体勢を整える。
近づいてくるものがどういった存在なのか判らないが、先ほどの火炎ウサギもどきみたく凶暴な生物が生息している森であり、どんな危険な生き物がいるのか想像もつかない。
今まで生活していた平和な日本での感覚のまま、安直に物事を理解する事がどれだけ危険な事なのか、先ほどの件で十分に理解できている。例え見た目が自身の良く知る生物の形をしていても、全くの別物の可能性がある為、むやみに近づかない方が良い。
などと冷静な思考をしているように見せかけてはいるが、実は思いっきりびびっているだけだった。
「通り過ぎてくれないかなって、そんな甘くはないか……」
森の中を進む謎の物体は、何かを探すようにうろうろしながらも、確実に侑人のいる方へと進んでいる。
時を追う事に侑人の鼓動はどんどん早くなり、既に背中は冷や汗でぐっしょりと濡れて冷たくなっていた。
完全に相手の姿が見える訳ではないが、春先でまだ木々の葉が完全に生い茂っていない為、枝の隙間から近づく物体の大きさは、何となくだが確認できる。
見た感じでは侑人よりも二周りは小さなサイズだが、もし正体が熊の様な危険な生物なら、襲われれば命に関わる可能性が高い。先ほどは火を噴くウサギが登場したが、今回は意表をついて火を噴く熊が登場した……なんて出来事が起こると、もはや手も足も出ないだろう。
「もういい加減にしてくれ!」
かなり焦っていた侑人は、自分の行動がどんな状況を引き起こす可能性があるのか全く考えずに、思わず大きな声で文句を言う。そしてその不用意な 行動がきっかけとなり、事態は次の展開へと動き始めた。
謎の物体の動きは突如止まり、緊迫した空気が周囲を満たしていく。
「しまった……今ので気づかれた」
茂みの中から、何かがこちらを警戒している空気を感じる。鋭い視線が自分を射抜いている感覚と、相手の存在が発する気配が、自分の肌を通じてはっきりと読み取れた。
日本で普通に生活している時に、他者の存在をはっきりと肌で感じた事など一度もない。何となく視線を感じるような気がするといった、あやふやな程度の事はあったが、確信を持つまでに至った事など一度もなかったのだが何故か把握できた。
お互いに警戒し、お互いが動きを潜める事数刻。永遠に続くかのような均衡を破るきっかけを作ったのは侑人であり、先に行動を起こしたのは相手の方だった。
緊張感に耐え切れなくなった侑人が、逃げ道を再度確認する為、不用意に視線を外して首を左右に動かしたのを、相手は見逃さない。
ガサッ
突如大きな音が響き侑人は慌てて視線を戻すが、その時には既に相手は茂みから飛び出し、侑人に向かって身構えて敵意をむき出しにしていた。
うかつな行動を不用意に取った事を侑人は混乱しながらも反省し、とにかく状況を好転させるべく必死になって頭を働かせる。
目の前に女の子がいた。
金色のやわらかそうな長い髪を二つのおさげに結わえており、前髪の隙間から覗く金色の目がこちらを真っ直ぐに射抜いている。鼻筋はすっきりと通り、その下にある形の良い桃色の唇は、緊張の表れなのか固くへの字に結ばれていた。
体型は細身であるが、女性らしい柔らかい曲線で各部位が描かれ、スレンダーという言葉がしっくりくるプロポーションをしている。
透き通るような肌が彼女の魅力をさらに引き立たせ、もし日本で見かければ十人が十人とも振り返るような整った容姿をしてると言っても過言ではない。
年齢ははっきりと判らないが幼さの残る顔から理解すると、多分侑人と同じく未成年だろう。丈夫そうな素材を丁寧に裁縫した動きやすそうな服を着ている事から、活発な性格な子だと推察される。
ちなみに耳が少し尖っているようにも見えるが、そんな事は今の侑人にとっては大した問題ではない。角でも生えていれば火炎ウサギもどきを思い出し、少しは驚いたかもしれないが。
とにかく大問題なのは、彼女が金色の目で侑人を思いっきり睨みつつ、弓矢を構えている事だった。
「怪しい者じゃないから警戒しないで欲しいかな……」
侑人は恐る恐る目の前の女の子に話し掛ける。その言葉を聞いた彼女は、一瞬だけ目を大きく見開くと、さらに険しい眼で侑人を睨みつけてきた。
構えた弓矢を持つ両手に力がこもり、よく見るとわずかに震えている。あと少し刺激を与えれば直ぐにでも矢が放たれそうだ。
「まっ待って待って! 撃たないで!」
そんな彼女の姿を見て侑人はかなり慌てる。好戦的な外人なのか? むしろ好戦的な異世界人か? そんな事を考えつつ、学校で習った内容を一所懸命思い出す。
錆び付いた頭を無理やりフル稼働し、学び舎の記憶を呼び覚ましていく。どうでも良い記憶ばかりが数多く蘇ってくるが、何とか目的の内容を思い出し一気に口にする。
「ア、アイ アム ノット デンジャー!」
侑人の英語の成績はかなり悪かった。
その後も侑人は、自分が怪しい者じゃない事を相手に伝えようと奮闘する。大した装備を持たずに山中をうろうろしている時点で十分怪しいのだが、そう理解されたらその時点で人生が終わる可能性があるからだ。
ジェスチャーやボディランゲジを駆使して、自分の熱い思いを伝えようかとも考えたが、大きな動作が相手を過度に刺激し、そのまま撃たれて昇天するのは余りにも洒落にならないので自重した。
「イッヒ リーベン ディッヒ」
「ウォーアイニー」
「アニョハセヨ」
「アヤシイモノデハナイアルヨ」
思いついた言葉の全部を使って、必死に説得を試みる侑人。もはや説得の言葉ですらなく、傍目から見れば余計に怪しさ満点な姿だ。
しかし言葉が通じたのか必死な姿が伝わったのかは定かでないが、彼女は弓矢の構えを解いてくれた。とは言っても表情はまだ硬く、こちらを警戒している事に変わりない。
「言葉が通じたのかな……とにかく助かった……」
矢の鋭い先端から逃れられた侑人は、全身の力が抜けその場に座り込む。人間死ぬ気になれば何でもできるという事を実感した一瞬だった。
「信じてくれてありがとう」
日本語が通じているのかは判らないが、侑人は彼女を見上げて微笑みながらそう告げる。とにかく感謝の気持ちを素直に伝えたくなったのだ。
そんな侑人の姿を見た彼女は何やら考えているような素振りをしていたが、やがて少し困ったような顔をしながら恐る恐る口を開く。
「ёдк☆Шйоз?」
「へ?」
彼女の口から発せられた言葉は、侑人の聞いた事がない言語だった。
「ここはどこかな?」
「клзаи$йШегв?」
「日本って判る?」
「зквд☆ё£★З?」
相手に危害を加える気がない事をお互いが理解した後、コミュニケーションを図ろうと会話を開始した侑人だが、更なる大きな問題が立ち塞がった。言葉が全く通じないのである。
何となく相手が相槌を打っているような気もするが、多分間違いなく気のせいであり、いまだに意志の疎通は図れていない。
仮に相手が英語を話していても、日本語しか話せない侑人ではまともに会話を成立させる事はできないが、多少なりとも聞いた事がある言語なら、単語の意味から内容を少しは推察できたはず。
しかしまったく聞いた事がない言語が相手となると、会話のきっかけすら掴めない状態で、侑人には完全にお手上げだった。
侑人は困った顔で少し考え込む。このまま意志の疎通を図る事を放棄して、彼女とここで別れてしまうという選択肢も存在するが、知り合いが全くいない世界で知り合う事ができたこの僥倖を、みすみす無駄にするメリットなど一つもない。
何とか意志の疎通を図り、最悪でも街まで案内して貰わなければここで犬死する可能性もあり、それだけは何とか避けたかった。
彼女も困った顔をしてこちらを見ている。当初は金色の瞳がこちらの姿を興味深く観察している雰囲気を感じたが、今は彼女自身もどうしたら良いのか考えてくれているようだ。
暫く二人でウンウンと唸っていたのだが、不意に彼女は何かを思いついた顔をすると、彼女自身を指差してこう言った。
「マйШ」
「マニア?」
侑人の瞳に、少し怒った表情で頬を膨らませている彼女の姿が映る。実は言葉が判っているんじゃないかと一瞬疑いそうになるが、そんな事をするメリットが思いつかず、その考えを頭の隅に追いやった。
すると直ぐに立ち直った彼女はもう一度彼女自身を指差して、今度はかなりゆっくりした口調で話し掛けてくる。
「マ、リ、ア」
「マリア?」
嬉しそうな顔をして何回も頷く彼女。
マリアというのは彼女の名前だろう。侑人は目を瞑りながら少し考えて、多分この流れからして間違いないと理解した。
とりあえず相手の名前が判った事により、侑人に少しの余裕が生まれる。
未知なる言語を相手にしているので現状では全く言葉が通じないが、こうやって単語を積み重ねていけばいつかは解り合えるという事実が嬉しかった。
侑人が再度彼女――マリア――に目を向けると、自分の名前を理解して貰えて嬉しかったのか、マリアは全身で喜びを表現している。
胸の前で小さなガッツポーズをしながら何度も頷いている仕草はとても可愛らしく、満足げに浮かべている笑みは見る者全ての心を鷲掴みにする破壊力を秘めていた。
侑人はそんなマリアの仕草と表情に見とれ暫く呆けてしまったが、左腕を軽く突かれるような感触に気がつきふと我に返る。
ゆっくりと左腕の方に顔を向けると、マリアが上目使いで何か聞きたそうな顔をして、侑人の腕をしきりに突いていた。あどけない子供のような仕草に少しドキドキしつつも、名前を聞いているのだなと理解し、自分自身を指差しながら名を告げる。
「小坂侑人」
「コタカユト?」
小首を傾げながら復唱するマリア。日本語のような言語体系が独特である言葉は、その他の言語体系で生活している者にとってかなり聞き取りにくいという雑学を思い出し、もう少しゆっくりと伝えようと再度自分の名前を口にしようとしたがある事に気づく。
欧米では基本的に氏・名ではなく、名・氏の順番だったはず。異世界ではどうなのか判らないが、マリアの外見から名・氏の方が良さそうかなと理解し、もう一度自分を指差しながらゆっくりと名を告げた。
「ユ、ウ、ト・コ、サ、カ」
「ユート・コサカ」
頷きながら復唱するマリア。侑人に確認するような目で見つめてくるマリアに向かって、頷きながらにっこりと微笑み返す。自分の名前を伝えただけなのにかなり嬉しい。
そんな自身の気持ちに気づいた侑人は、先ほど喜んでいたマリアの事を全く笑えないなと考え思わず苦笑する。
「ユート・コサカ、ユート・コサカ……」
暫くの間、マリアは侑人の名前をぶつぶつと何度も復唱していた。かなり真剣な表情で侑人の名前を繰り返し口にするマリアの姿は、見ていて少し微笑ましい。
やがてマリアは突然笑顔になり、左手を腰に当て右手の人差し指を侑人に向けたポーズを取る。
「ユート!」
なぜかとても得意そうな表情で侑人の名を呼ぶマリア。
侑人はそんなマリアの姿を見て笑顔を見せる。この世界に召喚された侑人が、初めて心から笑えた瞬間であった。
2014/2/10:改訂