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ワーカホリック  作者: 茶ノ木蔵人
秘める決意の唄
29/45

第10話:絆の理由

「どうしてこうなった……」

「それは私の台詞だ……」


 訳も判らないままエディエスに連れられ、軽鎧一式を無理やり剥ぎ取られた侑人は、身支度もそこそこに建物二階にあるゲスト用らしきベッドルームに叩き込まれている。

 さすがにベッドルームに叩き込まれた時には冷静さを取り戻していたのだが、真剣な表情でクリスの治療をお願いしてくるエディエスの熱意に押され、逃げる口実を一切失い退路を絶たれていた。

 その道中で侍女達に攫われる様に連れて行かれたクリスは、どうやら鎧一式を剥ぎ取られた上、浴室で身支度を整えられたようだ。

 少し遅れて侑人の居るベッドルームまで連れてこられたクリスは、今はベッドの上でシーツに包まって真っ赤な顔をしていた。しかもクリスの格好はバスローブを羽織っただけという扇情的な姿だ。

 一見すると仲睦まじい男女の秘め事前の状況の様に思えるが、あくまでクリスの傷跡の治療の為に二人っきりにさせられている。

 やましい気持ちが全く沸かないと言ったら嘘になるが、そんな感情を表に出したら治療を受けるクリスに対して申し訳が立たない。

 しかし努めて冷静に対応しようと心掛ける侑人の気持ちとは裏腹に、その顔色はクリスに影響され真っ赤に茹で上がった様になっていた。


「えーと、どうしようかね」

「どうもこうもないだろ……。さっさと治療を終わらせないと、多分部屋から出して貰えないのではないか」

「だよねー」

「私が良くてもミストが納得しないだろう」


 自分が使用した癒しの水(サニタテム)のせいで今の状況に陥っている事を侑人は理解している。アンナの見よう見まねで癒しの水(サニタテム)を使い、その結果が上々だったのは満足できる結果だが。

 しかし癒しの水(サニタテム)で過去の傷跡を消せないという常識を知らなかったのは痛かった。とりあえずセビルナ王国の近衛師団は侑人の味方なので大事には至らなかったが、敵対する勢力に侑人の特殊能力を知られるのはかなり都合が悪い。

 ただでさえ黒髪の勇者という立場は警戒されて目立ってしまう。さらに通常ではありえない事を起こせると知られたら、手段を選ばず侑人を招聘しようと企むか、亡き者にしようと謀略を練られてもおかしくないのだ。

 そんな事を危惧している侑人の心情を見透かしたように、アルクィンは癒しの水(サニタテム)の効果に関して緘口令を敷いた。

 知っているのはクリスとエディエス、そしてアルクィンだけなので、この秘密は確実に守られる事だろう。その点に関しては侑人も安心している。


「うーむ、悩んでいても仕方ないか。野良犬に噛まれたと思って開き直るしかないな」

「おい、さすがにそれは俺に失礼ではないか?」


 ジト目で突っ込みを入れる侑人を無視して、クリスはシーツに包まったままベッドから降りる。そして何かを探すようにキョロキョロと室内を見渡していたが、窓際に置かれている応接セットに視線を移すと二度程頷いていた。

 そのまま窓際へと移動して丸テーブルの両脇に置かれていた背のない椅子を二脚持ち出し部屋の中央まで移動させたクリスは、その一つにちょこんと腰掛けながらおもむろにもう一つへ向かって指差した。


「そんなとこにぼけっと突っ立ってないでここに座れ」

「ん? ああ判った」

「今のユートは仮だけど私の主治医だ。それ以上でも以下でもない。妙な気を起こしたら剣の錆にしてやるから心して治療しろ」

「へいへい……。俺はクリスお嬢様の主治医でございますよっと」


 侑人は頭を掻きながらクリスの前の椅子に座りつつ、クリスに気づかれない程度の小さな溜息を吐いた後、自分の頬を軽く叩いて少しだけ気合を入れた。

 今の俺は主治医なんだと自分に言いきかせてはいるが、正面に座るクリスから風呂上りっぽい良い匂いが漂っていてどうにも落ち着かない。

 妙な煩悩を頭振る事で追い出した侑人は、満を持してクリスへと目を向けるが、そんな侑人を迎えたのはクリスの不機嫌そうな顔だった。


「む? お嬢様扱いとは私に喧嘩を売っているのか?」

「んな事ある訳ないじゃん。軽口叩いてないと俺も恥ずかしいんだって。察しろ」

「ああ……。そう言う事か。済まないな」

「んあ? あー、クリスが気にする事じゃねえし、俺が傷跡を消せるならその力を役立てたいって気持ちもあるんだ。それが友人の為になるならなおさらな」

「ありがとな」

「そんな事はいいからちゃっちゃと始めんぞ。その……胸の傷だっけか?」

「う……。ま、まあ、そうなんだが……」


 クリスの顔が真っ赤に染まる。『しかし……』『何と言うか……』などと、ブツブツ呟くクリスは落ち着きを失っていた。

 照れたり怒ったり不機嫌になったりと表情がコロコロ変わり、戦闘の時から比べると百八十度違う印象を放つクリスは微笑ましい感じだ。しかしそんな事を指摘すれば余計に混乱するので、侑人はクリスが平常心を取り戻すまで大人しく待つ事に決めた。


「ん」

「む? どうしたクリス」

「ん!」

「左手を差し出されても……って、そういう事か」


 クリスは明後日の方向を向きながら侑人へ向かって左腕を突き出し、それを細かく上下に動かしている。

 真っ白なシーツに包まれ全身を隠しているクリスから差し出された左腕は、風呂上りのせいか上気していて白い肌をピンクに染め上げていた。しかし冷静になってよく観察してみると、所々に大小様々な傷跡が残されていて少々痛々しい。


「い、いきなり本番ってのは良くない……。こ、これは練習だ練習。そういう事だから気合を入れて治療しろ」

「ふう……。俺って信用ないのな……。まあ仕方ないっちゃ仕方ないか」

「ば、馬鹿を言うな! ユートは私のライバルでもあるし、私の専属主治医でもあるんだ。ミストと同じ位……は言い過ぎだが、とにかく私は信用している!」

「あ、ありがとう。その信用に答えるように頑張るさ」


 成り行きでなったはずの臨時の主治医から、いつの間にやら専属主治医に格上げされた侑人は、目の前に突き出された左腕をまじまじと見つめている。

 クリスの左腕に付けられた傷跡はかなりバリエーションに富んでいて、切り傷だけではなく矢傷や火傷の跡までが見受けられた。


「傷は勲章だ……だが私も一応女なんだ……」


 クリスは少しだけ俯きながら、小声でそんな事をブツブツと呟いていた。相変わらず明後日の方向を向き続けているが、その視線はどこか弱々しい。

 侑人に聞かせようとした訳ではなく、思わず本音が漏れてしまった様子にも見えた。そんなクリスの姿がとても好ましいものに思え、侑人は両頬を叩いて気合を入れなおす。


「俺に任せろ! クリスの傷は全てまるっと消し去ってくれる!」

「あ、ああ。宜しく頼む……」

「それに今後残った傷跡も、俺がエブリシングエブリタイム駆けつけて、なかった事にしてやるから安心しろ!」

「そ……それは頼もしいな」


 妙なスイッチが入ってしまった侑人の顔を、少しだけ脅えながらクリスは見つめた。口調は妙な感じだが、その態度からは自信が漲っている。

 そんなクリスの態度に気づかぬまま、侑人は差し出された左腕に集中していく。そしておもむろに上腕部に手を触れると、そのまま魔力を一気に開放した。


「なっ!?」


 クリスの目の前でありえない現象が起こる。上腕部から指先に向かって侑人の掌が移動すると、侑人が触れた部分にあった傷跡がどんどん消え去っていくのだ。

 実際に頭部の傷跡を消し去った侑人の実力を疑っていた訳ではないのだが、想像を遥かに超えた事象を目の当たりにすると言葉が上手く出てこない。

 侑人の気合のせいなのか二度目だからさらに上達したのかは判らないが、目を凝らしてみても傷跡があったとは思えない程の艶やかな肌が目の前に現れる。

 剣の道を志した時に諦めた乙女の柔肌が、数年振りにクリスの下へと帰ってきた。その衝撃はクリスから平静な思考を奪い去ってしまう。


「凄いぞユート! 次はこっちの腕も頼む!」

「お、おう。つうか落ち着けクリス」

「これが落ち着いていられるか! いいから早く治療してくれ!」

「判った判った……」


 勢いよく差し出された右腕に意識を集中させ再び魔力を解放させる。侑人の魔法はさらに精度を上げ、左腕に掛かった半分の時間で治療を終わらせた。

 左腕に続いて右腕も、まさに生まれ変わったような肌に変化し、クリスはそれを見ながらウットリした表情を浮かべている。

 そのまま暫くの間クリスは余韻に浸っていたのだが、やがて力強く頷くと身に纏っていたシーツを纏めベッドへ向かって放り投げた。


「今度は脚を頼む。まずは左からだ」

「了解。傷跡が残ってるとこまで捲くってくれ」

「ああ判った」


 開き直ったのか精神状態が普通ではないのか判らないが、クリスは潔くバスローブから左脚をさらけ出す。

 適度に筋肉がついたしなやかな脚が侑人の目の前に突き出されるが、腕と同じく脚の部分にも様々な傷跡が残されていた。


「つうかクリスって無茶しすぎだろ。ここまで怪我するのは尋常じゃないぞ」

「うーむ。ミストに追いつこうとかなり無茶した時期があったからな。ここ数年は怪我らしい怪我などしていないが、数年前は毎日何かしらの怪我を負っていたかもしれん」

「最近の怪我がないのは良い事だけど、俺が傷跡を消せるからってこれからまた無茶すんなよ?」

「う……。ユートに言われなくても判ってる。あくまで保険として考えるさ」


 侑人の突込みを受けたクリスは再び明後日の方を向いているが、先ほどとは違いバツの悪そうな表情を浮かべている。

 この状況だと王都で何度も呼び出されそうだな。そんな事を考えた侑人は苦笑いを浮かべたが、とにかく今は目の前の傷跡を消し去る事が優先だと考え直し治癒を開始した。


「しかしユートの癒しの水(サニタテム)は凄まじいな。自分の身に起こってる出来事だとはいえ、未だに信じられん。良きライバルが良い主治医だとは、私はとことん幸せ者だな。宰相閣下の任務に付いてきて本当に良かった」

「俺がクリスの主治医ってのは決定事項なのかよ。まあいいけどな」

「怪我を誰に見て貰うか決めるのは私の自由だ。本当は私がユートを独占したい所だが、残念ながらそれは無理だろうな……。まあそれはいいとして、少し話は変わるが時間は大丈夫か?」

「特に急ぎの用事はないから大丈夫だぞ」

「えーとな、ユートの癒しの水(サニタテム)は多分私の知ってる魔法じゃない。全く別の魔法だと思う」

「なぜ判る?」

癒しの水(サニタテム)を受けると傷が治ると共に体力も回復していくんだ。だがユートの魔法だと体力が回復しているように思えない。上手く表現ができないのだが、傷や傷跡だけを狙い撃ちして修復しているように感じる。まあ、私は怪我が多かったから癒しの水(サニタテム)を受ける頻度も高いし、この感想は結構的を射てると思うぞ」

「怪我の専門家からの評価なら正しそうだな」


 クリスの指摘の通り、侑人が行使している癒しの水(サニタテム)もどきは、通常の魔導士が使用する水の魔法のひとつである癒しの水(サニタテム)ではない。

 属性も水の魔法ではなく全く別の物だが、その事を侑人が理解するにはもう暫くの時間が必要となる。


「よし、右脚も完了かな」

「ここまで傷がない肌を見るのは何年ぶりになるのかな……。幼い頃の傷跡まで消えているから自分の肌ではないみたいだ。むしろ若返ったような気さえする」

「最上級のお褒めの言葉を頂き恐悦至極ってとこかな。期待に応えられているようで俺も嬉しいぞ」

「この結果で文句を言う奴はさすがに居ないと思う。まあとにかく治療の続きだ。次は背中を頼む」

「あ、ああ……」


 侑人を完全に主治医と見なしているクリスの行動は潔い。侑人の目の前でクルリと背を向けると、そのままバスローブをはだけて背中を露出させた。

 そして侑人が背中を見やすいように、両手で長い絹のような金髪を持ち上げる姿勢を取る。妙齢の女性が持つ魅惑のプロポーションを目の当たりにした侑人は、暫し動きを止めてしまった。


「ん? どうしたんだユート。手を挙げっぱなしなのは結構疲れるんだぞ」

「へ? 済まん済まん。傷の具合を確かめてたんだ」


 細かく頭を左右に振り煩悩を無理やり追い出した侑人は、クリスの傷跡の様子をつぶさに観察する。先ほどの手足と同様に、呆れる位にバリエーションに富んだ傷跡が侑人を出迎えていた。

 しかし傷跡があろうがなかろうが、クリスの魅力には関係ないようにも思える。無駄な贅肉など一切ついていないその背中は、神々しささえ湛えているように見えたのだ。


「広範囲だから両手で一気にいくぞ。くすぐったいかもしれんが我慢してくれ」

「ああ、そんなこと気にしないで一気にやってくれ」


 クリスの許しを得た侑人は、クリスの両肩に手を触れる。手を触れた瞬間にクリスはピクリと反応したが、それ以降は微動だにせず侑人の魔法を待っていた。

 背中の傷跡は広範囲に及び全てを治す為には撫で回すしかないのだが、主治医と患者なら当たり前の行為であり、躊躇する方がおかしい。


「動くと効果が薄れるかもしれん。動くなよ」

「判ってるからさっさとやってくれ。正直に言うとくすぐられるのには弱いんだ。時間を掛けられると少々困る」

「判った。ではいくぞ」


 傷跡以外を必要以上に触らない様に注意しながら、侑人の両手はクリスの背中を滑り落ちていく。俺は主治医、俺は主治医と心の中で唱え続けている侑人の表情は結構必死だ。

 肩甲骨から腰周りそして臀部の辺りに近づいた時にはさすがに躊躇しそうになったが、マリアとの生活で鍛え上げられた鋼の自制心がここで上手く発揮され、無の境地で何とか乗り切る事ができた。


「ふう……。我ながら会心の出来だと思うぞ。さすがに見えないだろうから後で確認してくれ」

「ユートの腕は信用してるから必要ないだろ。でも喜びを噛み締める為に後で見ておく」


 クリスは後ろを振り返り柔らかな笑みを浮かべている。侑人の事を完全に信用している穏やかな目だ。

 しかし侑人はそんなクリスの仕草に上手く返答する事ができなかった。視線を逸らしながら片手で気にするなといったジェスチャーをするのが精一杯だ。

 クリスの気持ちは嬉しいのだが、今の格好でそんな顔をされると色々とまずい。しかも次は身体の前面の傷跡を治す最大のイベントが待っている。侑人の自制心は最大のピンチを迎えていると言っても過言ではなかった。


「さて、今度が本番だな……」


 そんな侑人の気持ちを悟ったのか悟ってないのか判らないが、クリスはそんな事を小声で呟く。さすがに照れがあるのかクリスの表情は少しだけ暗くなっていた。

 若い女性が恋人でもない若い男に胸部を晒すのは抵抗が大きいだろう。そんな事を考えた侑人が胸部を隠す何かを探す為に視線を室内に彷徨わせた時、クリスが少し沈んだ声で侑人に話し掛けてきた。


「ユート。一つお願いがあるんだ」

「ん? 今何か隠す物がないか探してるからちょっと待ってくれ」

「隠す? ああ、そういう事か。そんな物は要らんから話を聞いてくれないか?」

「は? クリスがそう言うならいいんだけど、話ってなんだ?」


 クリスの表情はますます沈んでいく。見られるのが恥ずかしいのだとは思うが、その理由が侑人の考えている内容と大きくずれているような気がする。

 とにかくクリスの言葉を待つ以外に侑人にできる事などない。クリスが何かを決心するまでの間、侑人は一言も喋らず静かに待ち続けていた。


「あのなユート。私の傷跡を見て引かないで欲しいんだ。それにこの傷跡が消えなくても気落ちしないで貰いたい」

「今のところほぼ完全に消してこれたんだ。エディエスさんからの頼みでもあるし、全力で何とかする」

「そうか、ならいいんだが……」


 クリスは沈んだ表情のまま小さく頷くと、何も隠そうとせずそのまま侑人と向き直る。

 儚げな表情を浮かべたクリスの裸体を目の当たりにした侑人の思考は一瞬だけ飛びかけるが、美麗なクリスに似合わない凄惨な傷跡に気づくと今までで一番真剣な表情を浮かべた。


「酷いもんだろ?」

「ああ、これは結構大変かもしれん……」


 侑人の頭からは浮ついた思考など完全に霧散している。真剣な眼差しでクリスの左肩から腹部近くまでを切り裂いている大きな傷跡を見つめ、状態を把握する為に全神経を集中させていた。

 左肩を始点としたその大きな傷跡は、クリスの左胸の一部を完全に吹き飛ばして腹部まで一直線に切り裂いていたのだ。

 その傷跡のせいでクリスの左胸は大きく変形し、右胸との差を如実に感じさせている。女性の身体にここまで大きな傷跡をつけた相手に対して、侑人は本気で怒りを覚えていた。


「これはいつの怪我なんだ?」

「もう終わった事だからユートがそんな怖い顔をするな。これは六年前のある事件で怪我した時の物だ。あの時にミストが居なかったら、私はここには居なかったな」

「エディエスさんも一緒に居たのか」

「ミストは大怪我を負った私を敵の集団から逃がす為、自ら死地へと飛び込んでくれたんだ。ミストの背中にもこれと同じ位の傷跡が残っているが、あいつは俺の勲章だと言って治す気はないらしい。さっき聞いたんだがそんな事を言っていたな」


 クリスだけがエディエスの事をミストと呼び、エディエスだけがクリスの事をエルと呼んでいる。そんな二人の間に特別な絆がある事を察していたが、ここまで深い事情があるとは想像できなかった。

 多分エディエスはクリスにこの傷を負わせた事を未だに後悔しているはずだ。真剣に侑人に治療をお願いしてきたエディエスの為にも、この傷跡だけは完全に消し去らなければならない。


「俺は深い事情を聞くつもりはない。話してくれてありがとう」

「ユートがお礼を言うのはおかしくないか?」

「そういう気分なんだって。とにかく全力を尽くすから楽にしててくれ」

「判った。期待して待ってるさ」


 侑人はクリスの左鎖骨の辺りに手を触れさせる。そしてそのまま目を瞑り、残っている魔力を全開放する勢いで発動させた。

 クリスとの戦闘の序盤で見せた、金色に輝く侑人の姿が再び顕現する。

 敵対している時には暴力的で全てを根こそぎ殲滅させる雰囲気にも思えたが、今のクリスの目には侑人の姿が神の使いのように映っていた。


「黒髪の勇者……」


 クリスは無意識にその名を呟く。

 神の慈悲にすがる様な弱々しい声が侑人の耳に届いた時、奇跡はクリスの身に起こった。


「あ……」


 クリスの目には自分の失われたパーツが復活していく様が映っている。引き攣れを起し己の尊厳を打ち砕いていた忌々しい傷跡が、侑人の右手が通り過ぎると完全に消え去っていたのだ。

 しかも傷跡を消すだけでなく、吹き飛ばされたはずの筋肉や脂肪までもが再生されていく。こんな奇跡を起こす魔法が存在するなど今まで聞いた事もなかった。

 傷跡が消えても失われた血肉は戻らないと半ば諦めていたクリスの両目から、熱量を帯びた透明な雫がとめどなく流れ落ちていく。

 傷は己の勲章だと自分自身に言い聞かせ、時には自ら傷を負うような真似をしてきたが、それが強がりだったとこの瞬間にクリスは気づかされたのだ。

 侑人は大きく切り裂かれたクリスの傷跡をこの世から完全に抹消させると、そのまま細かい傷跡の治癒を続ける。

 やがて全ての治癒を終わらせた侑人は金色に輝く魔力の奔流を収束させ、心底ほっとした表情を浮かべた。


「何とかなった……良かった……」


 魔力の使いすぎで侑人の身体の節々は悲鳴を上げ、軽い頭痛と眩暈が絶え間なく襲っている。しかし侑人の発する雰囲気はどこまでも柔らかい。

 油断すると今にも意識を手放しそうになるが、そうなったらそうなったで構わないかなと侑人は考えていた。


「魔法っていいもんだな……」


 そんな事を呟きつつ自分の両手を見つめ、背負わされた任務を見事に果たした充足感に浸っている侑人の視界に、金色と肌色で構成された柔らかな何かが飛び込んでくる。

 それが何なのかを把握する前に侑人の身体は重力に負け、背中をしこたま床へと打ちつけていた。


「痛っ! って、なんだなんだ?」

「ユ、ユート……」

「へ? ク、クリス!?」


 情けない格好で床に転がっている侑人の胸の上で、クリスは両肩を震わせながらしがみついている。かなり強い力で服を握り締められているので少々息苦しいが、今の雰囲気を壊す気にはなれなかった。

 侑人は優しい笑みを浮かべながら、クリスの頭をあやす様に撫でる。女性の尊厳を取り戻す事ができたクリスの喜びの大きさは完全には判らないが、今の様子を見ていればそれなりに察しがつく。


 何年も苦しんできたんだ。無粋な真似はできんよな。


 侑人はそんな事を考えつつ右手でクリスの頭を撫で、大の字に転がって満面の笑みを浮かべる。動くたびに身体中が軋んでいるが、そんな痛みさえ今は心地よく思えるのだ。

 世界の平和ではないけれど、人を幸せにする事ができた。そんな思いが侑人の心の中に沸々と湧き上がってくる。


「一件落着ってとこかね」


 しかしそんな侑人の言葉とは裏腹に、クリスとの静かな時間は突如終焉を迎えた。

 黒髪の勇者の使命を少しだけ果たせた喜びを噛み締めたかったが、運命の神様はそれを許してくれないようだ。

 間髪入れずに予想外の展開が巻き起こり、侑人は再びドタバタ騒ぎへと巻き込まれていく。


『ユートの危機じゃと聞いてわらわが参上! っておや? 戦闘は終わっておるようじゃの……って、ななな! なんじゃこの空気は! 浮気か? むしろ本気か? マリアを差し置いて裸の女と抱き合うとはどういう事じゃ!』

『ちょ! ちょっと待て! かなりの誤解があるから説明させろ!』

『誤解もへちまもないじゃろ! この女の敵め! エロ男爵め!』

『エロ男爵ってなんだよ!』

『どう考えてもエロエロな空気じゃろ。エロ男爵じゃなければエロ大王じゃ』

『頼むからそのエロって思考から離れてくれないか? アンナには一から説明するけど、実はな、俺はクリスの――』

「ユート、私はお前の事が心底気に入った。これからは私の事をエルと呼んでくれ」

「クリスさん? このタイミングでその台詞はちょっと困るんですけど……」

「クリスさんなどとまた余所余所しい呼び方を……。今すぐ私の事をエルと呼べ。それ以外は許さんぞ」

「ク……じゃなかったエル。とにかく判ったんで、ちょっと離れてくれ」

「もう少しこの喜びに浸らせてくれないか……。それに今はちょっと見せられない顔をしてるんでな」

『エロがエルと呼ぶ美女か……。デレデレで骨抜きな事後の感じじゃし、これはかなりの強敵じゃの。とにかくマリアに報告じゃ!』

『いいからアンナは俺の話を聞けー!』


 人の平和を守ることはできたが自分の平和は守られないらしい。

 侑人の魂の慟哭は、ティルト村の一角にある屋敷の中で響き渡っていた。

2014/5/16:話数調整

2014/5/25:魔法名追加

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