第5話:それぞれの決意★
ヨーゼフが司教就任を頼まれた日の夜、夕食を済ませた侑人は、食後のお茶を楽しんでいた皆に散歩に行くと告げ、一人で河原に来ていた。
水の月も今日で終わり、明日からは本格的な夏の到来を告げる火の月が始まる。雨季が過ぎ去ったティルト村の夜空には、満点の星空が広がっていた。
この世界には電気の概念がなく、ティルト村ではランプ式や魔法式の街灯もないため、侑人の周囲は真っ暗だ。その為侑人が日本にいた頃には見た事もないような、溢れんばかりの星々が頭上を覆いつくしていた。
ちなみにアンナの存在を身体の中に感じる事はできず、今の侑人は本当に一人きりだ。
まるで手が届きそうな星空に向かって侑人は、河原に寝転がりながら手を伸ばす。すると星空に向かって伸ばした侑人の手に目の焦点が移り、星空全体が滲んで見えた。
「人に必要とされる存在……か」
今の侑人はかなり感傷的になっている。
セビルナ王国宰相アルクィン・ウルヘルからの届いた一通の封書。ここ数日の間、侑人達の話題に上る頻度が一番高かった懸案事項は既にない。
アルクィンと直接会話するまでは、セビルナ王国からの黒髪の勇者関連の要請だという意見が大勢を占めていた。しかし蓋を開けてみれば、ヨーゼフへの王都の司教就任の要請という、予想外の展開だったのだ。
それを知った時の感情は安堵だった。
面倒ごとに巻き込まれないで済んだという思いが真っ先に浮かんできたのだ。
次に浮かんできた感情は羨望だった。
アルクィンを通じて、セビルナの王からも本気で請われている事を知ったヨーゼフの姿は誇りに満ちていた。
そして最後に浮かんだ感情は嫌悪だった。
無慈悲で暴力的なこの世界から理不尽な過去を押し付けられたにも拘らず、アルクィンやヨーゼフは未だ両の脚で真っ直ぐ大地に立ち続け、戦う意志を強く持ち続けている。
アンナやマリアは過去を語らないが、二人の生まれや育ちを聞けばある程度の想像はつく。己に襲い掛かる艱難辛苦を乗り越えて、それでもなお強い心を持ち続けて笑顔を振りまいているのだ。
それに比べて自分はどうだったか。黒髪の勇者と呼ばれる事を幼稚な論理で拒んだ挙句、一度の戦闘の、それも勝利した戦闘の結果で心を折られかける始末だ。
この世界の住人達と比べて余りに弱い。身の回りに居る者達が平均より強い人間なのかもしれないが、それにしても余りに心が弱すぎる。
この世界の神だか何だか知らないが、こんな弱い人間を呼び寄せて一体何をさせるつもりなのか。最初の勇者が義経なのに、なぜ次の勇者は凡人の俺なんだ。
目の前の星空がさらに滲む。まるで雨垂れを受けた窓ガラスから、夜の都会の街並みを眺めているような錯覚にさえ陥った。
夏の夜には珍しく虫の音すら聞こえない。すべての時が止まったような静かな河原で、侑人は思考に没頭していく。
このまま皆に守られて安穏と生活するのは悪くない。弱い自分は傷つかず、ただ静かに時が過ぎ去るのを待てば良いだけだ。
だがそれは自分以外の誰かに、自分の分まで傷を背負わせた仮初の平穏。表面上は穏やかな生活が保たれるが、裏で誰かが苦しむ事になる。
では最前線に立ち、全ての困難を振り払うような生き方ができるのか。だが己の弱さはこの世界に召喚されてから今日までの間、嫌というほど実感させられている。答えは否だ。
黒髪の勇者と呼ばれるのに抵抗したのは、己の弱さを薄々感じつつもそれを認めたくない、他人に知られたくないという虚栄心から出た感情だったと、今では理解できる。
黒髪の勇者という華々しい仮面を身に着けても、どれだけ自分を飾り立てたとしても、いつか弱い自分が表に出てしまい、皆の失望を受けるのが怖かっただけなのだ。
しかしこのまま立ち止まる訳にはいかない。弱い自分を認めつつ、それでも前に進んでいかなければ何も変わらない。
自己嫌悪で己を押し潰してしまいそうになっている侑人の脳裏に、マリアやアンナそしてヨーゼフの顔が浮かぶ。
己の為にも自分を信じてくれる皆の為にも前に進まなければ、自分は駄目になってしまう。本当に幸せな事だが、周りの人の心が強すぎて、弱い自分は甘える事に慣れきってしまったのだ。
そして侑人は決意した。
「黒髪の勇者……」
頑なに拒んでいたその呼び名。それを受け入れる事で全てが始まる。
ようやく侑人は自分に課せられた使命に目を向けた。
その名前に今まで散々振り回され、身体を酷使する羽目に陥り、挙句の果てには心を折られかけた。
こんなものを欲しがる奴が居るなら、喜んで譲ってやりたいが、残念ながら俺以外には背負えないのだ。
「心が弱い勇者もありだよな」
自分の小さな呟きが耳に届き、侑人は思わず苦笑する。
英雄譚には相応しくない響きだが、これが自分なのだから仕方ない。
強い勇者には強い勇者の、弱い勇者には弱い勇者なりの生き方や使命があるはずだ。
己の事すら判らない。
己の事すら認めない。
そんな状況よりは何倍もマシだと侑人は開き直った。
自分の心の持ちようが決まると、人は多少の余裕を持てるようになる。それに関しては侑人も例外ではなく、河原に来たときとは違った目線で星空を眺めていた。
目の前に広がるこの光は今から数百年、下手をすると数億年前の星の姿なんだよな。
万華鏡のように視界に広がる星空を見ながら、侑人はそんな事を考える。そしてその思考が連想させた人物の事をしばらく考え、そのまま自分の境遇に思いを巡らせた後、ある名前をふと呟いた。
「クロウ・ミナト……」
「クロウ・ミナトがどうかした?」
不意に思考の外から声を掛けられ、侑人の身体はピクリと反応する。
声を掛けてきた人物に顔を向けると、よく見知った顔が侑人に向かって微笑みかけていた。
「星を捕まえようとしていたのかな? ユートも結構ロマンチストね」
そう言いながらマリアは侑人の左に腰を下ろす。
侑人はマリアから星空に視線を向けなおし、夜空を見上げた姿勢のまま、自身が考えていた事をマリアに話した。
「クロウ・ミナトがこの世界に召喚された理由を考えていたんだ。それと俺がこの世界へ呼ばれた訳も考えてた」
「そう……。ユートはどう考えているの?」
マリアは座ったままの姿勢で夜空を見上げている。
違う世界からマグナマテルに侑人が召喚された理由。改めて問われると確かに気になる話題であり興味を引かれる。
「クロウ・ミナトがこの世界に召喚されたのは、ハルモ教の伝承だと八百余年前のクーラント魔国で、亜人族に虐げられていた人族を救う為って書かれてるよね」
「そうみたいだね。私は余り興味がなかったから、詳しくは知らないんだけど」
「人族の窮地を救う為に異世界から勇者が光臨する。確かに物語としてはあり得る展開だと俺も思う」
そこで一回言葉を切り侑人はマリアの様子を伺ったが、マリアは星空を見上げたままの姿勢で侑人の続きの言葉を待っていた。
そんなマリアの雰囲気を察した侑人は、再度夜空に視線を向けなおし言葉を繋げる。
「でも俺にはそんな理由だけで、わざわざクロウ・ミナトがこの世界に呼ばれたとは思えないんだ。上手く言えないけど、もっと大きな意味があったから呼ばれた。そんな風に思える」
侑人の言葉を聞いたマリアは侑人の方を向く。しかし侑人はそんなマリアの素振りに気が付かないかのように、そのままの姿勢で自身の考えを語っていく。
「クロウ・ミナトは八百余年前に人族を亜人族の圧政から救った。この事は歴史が証明しているから多分間違いない。でもそれは一時的に訪れただけの仮初の平和だったんだ。結局マグナマテルは長い争いの歴史に再び突入して、今でもその負の流れは続いてる。でもそれってなんかおかしくないか。わざわざ異世界から召喚して連れて来た手間を考えると、その後の歴史がもっと良くなってないと割りに合わないって俺なら思う」
マリアは侑人を見たまま何も語らない。侑人の続きの言葉を待っているようだ。
「とにかくクロウ・ミナトは、当時の国王や法王達に依頼されたのか、自分で考えて行動を起こしたのか判らんけど、戦う事を選んで困難に立ち向かっていった。でも結果的に考えると世界は大きくは変わらなかった。そんな事を考えてたら、俺は一つの考えに行きついたんだ。戦う事が間違っていた訳ではないかもしれんが、それだけなのは間違いだったんじゃないかって」
そこまで語った侑人は目を閉じて軽く息を吐く。
弱い自分を無理やり肯定するような意見を語るのは、正直言ってばつが悪い。でも弱い自分が呼ばれた事に意味があるなら、そんな考えも間違いでないと確信できる気がするのだ。
「ヨーゼフさんから見せて貰ったハルモ教の伝承に書かれてたけど、クロウ・ミナトはグランツ共和国を建国した後も、治安維持の為に死ぬまで戦い続けてた。何の覚悟も勇気も持てない俺なんかがその行動を否定できないけど、やっぱりそれだけでは足りなかったようにも思えるんだ。結局クロウ・ミナトはこの世界に召喚された使命を果たしきれなかったって考えると、俺の中ではかなりしっくりくる。確証なんてどこにもないけどさ」
自身の考えをマリアに語った侑人は、星空から視線をマリアの方に移す。すると侑人を見つめていたマリアと視線がぶつかる。
二人はしばらく何も語らずお互い見つめあっていたが、そんな空気を破ったのはマリアだった。
「クロウ・ミナトが果たしきれなかった使命を果たす為に、ユートが召喚されたって事?」
「マリアの言う通りかもしれんが、そもそも異世界からの召喚ってとんでもない事を考えて、実行に移せる奴の考えなんて理解できないかもな」
「どういう事なの?」
「うーん、そもそもクロウ・ミナトの次に召喚された俺って、本当に召喚される必要があったのかな?」
「私は会えて嬉しいよ。この世界に召喚されたのがユートで良かったって考えてる」
マリアは侑人の目を見つめている。侑人はそんなマリアに対して笑顔を返す。
「俺も会えて嬉しいよ。マリアと会わなかったら既に死んでたっていうか、多分生きてても悲惨な状態だった気がするし」
「そこまで大げさな事かな……」
「俺にとってはそういう事だし、本気で感謝してるって……話がずれたか。えっと、俺が召喚される必要があったのかって話なんだけど、世が乱れ大地が嘆く時、二つの月が重なり異界の勇者が再度光臨すっていう伝承の一文が引っかかるんだ。伝承を逆から考えると、世が乱れなければ異界の勇者は光臨しない事になるからさ」
「確かに平和だったら勇者は必要ないよね」
「そういう事。でも結局仮定の話だから、今の俺の状況じゃ意味はないんだけどね。まあ仮に俺がクロウ・ミナトと同じ事をしようって考えて、行動を起こした時の事を想像してみて。マリアも知ってるけど、俺には『どんなものでも理解できる能力』があるから、それなりの事はできそうな気もする。でもクロウ・ミナトが俺の予想通り、俺の世界でも英雄だった源義経だとすると、クロウ・ミナトは戦いのエキスパートなんだよ。しかも俺以上の大きな力を持っていてもおかしくない。戦闘能力で劣る俺が、過去の黒髪の勇者と同じ行動をして上手くいくと思う?」
「上手く行かないと思う」
マリアの言葉を聞いた侑人は満足そうに頷く。
「そこが俺の考えの原点。俺の世界でも英雄だったクロウ・ミナトが、八百余年前にこの世界に召喚されても、結果的には平和な世界にならなかった。結局マグナマテルは争いの最中だし、俺は次代の黒髪の勇者として召喚されちゃった。じゃあ一般人の俺が黒髪の勇者なら、戦闘行為だけじゃない別の使命が、黒髪の勇者と呼ばれる異世界人にはあるって考えるとしっくりこない?」
侑人の言葉を聞いたマリアは驚きの表情を浮かべる。今まで自分の事を黒髪の勇者だと認めようとしなかった侑人が、己の口から肯定するような言葉を述べたのだ。
そんな侑人を気遣って、マリアは侑人の事を黒髪の勇者と呼ばないようにしていたのだが、まさか侑人本人からその言葉が出てくるとは思わなかった。
そんなマリアの表情を見た侑人は苦笑いを浮かべている。実は今さっき自分の境遇を認めたばかりなんだとも言えず、簡単な言葉で今の気持ちを表した。
「マリア達の役に立ちたいんだ」
「えっ?」
「いろいろ情けない姿を見られてるからこの際はっきり言うけど、俺はかなり弱い。特に心の部分が弱すぎる。でもそんな俺でも何か役に立てると思うんだ」
「ユートは凄く役に立ってるよ?」
「ありがと。でも俺はもっと大きな意味でも役に立ちたいんだ」
「まさか……」
マリアは侑人の真意を察した。
ホラント家の家族という立場を選び、世の中の流れには乗らず平和な生活を望んでいた今までの侑人と、目の前に静かに佇んでいる侑人は同じ人間だが、もはや別人とも言える。
己の使命を受け入れ、マグナマテルの為に力を振るう事を決意した、黒髪の勇者としての侑人が目の前にいるのだ。
ヨーゼフへの司教就任の話は、マリアの生活を大きく変える可能性を秘めていた。しかし侑人の決断はそれをはるかに超えた大きな変化をもたらすのだ。
平和な生活が音を立てて足元から崩れていくのをマリアは感じていた。三年前にマリアを置いて旅に出てしまった父親の姿が侑人と重なっていく――
――そしてマリアも決意した。
「そっかー、ユートも大変になるよね。じゃあ私も頑張らないとだね」
「えっ? マリアも頑張るの?」
「そうだよ。だって黒髪の勇者のお世話は大変そうじゃない。ユートは人の事だと一生懸命だけど、自分の事になると結構適当だもんね」
「いや、さすがにマリアを巻き込もうとは考えてない――」
「ユート!」
黒髪の勇者として何か行動を起こす決意をした侑人だが、平和な生活を送っているマリアを巻き込むつもりなどない。命の恩人ともいえるマリアを危険に巻き込むのは本末転倒なのだ。
しかしそんな侑人の思いなど、とっくに察しているマリアは先手を打つ。かなり強引な行動だが、この世界の住人の中で一番侑人の事を理解しているマリアに侑人が敵う訳がなかった。
「私もユートの従者になるからね。アンナが良くて私が駄目って理由でもあるの?」
「うっ、そう言われるとどう言えばいいのか判らんが、アンナとマリアじゃ状況が違うだろ? アンナは巻き込まれてどうにもならん感じだし」
「私も巻き込まれてどうにもならない状況だよ? だって一番最初にユートと会って家まで連れて来ちゃったんだもん」
「また痛い所を……。でもマリアにはヨーゼフさんが居るだろ? ヨーゼフさんが心配だって前言ってたじゃん」
「多分だけど、おじーちゃんはセビルナ司教になると思う。私も勧めようと思ってるんだけどね。とにかくおじーちゃんには新しくやる事ができて大変だし、私がついていなくても周りの人が支えてくれる。でもユートの周りはどうなの?」
「それなりに何とかなる……のかな?」
「自分で何やるか判ってない、黒髪の勇者に付き合ってくれる人ってあんまり居ないと思うよ。損得抜きで考えたら全く居ないかもね」
マリアの言葉は正論でもあり、それらは侑人を思いやる気持ちで満ちている。マリアの決意はかなり固く、侑人一人では気持ちを変える事などできそうもなかった。
とはいえ侑人にとっても、マリアが行動を共にしてくれるのはかなりありがたい。しかし果たしてマリアを溺愛するヨーゼフがどんな反応を示すのか。
結局この場で結論を出せなかった侑人は、マリアの申し出を保留にしたのだった。
川原で星空を見上げる侑人とマリアの頬を、夏の風が静かに撫でていく。
さきほどまでとは違い、星空を見上げる二人の間には何の会話もない。しかしどこかで何かが繋がっている。そんな感覚を二人は共有していた。
突如異世界に呼び寄せられた侑人が、同じ時間を一番過ごしているのはマリアだ。マリアと共に居ると、元々この世界出身だったのではないかという錯覚に陥る事すらある。
しかし侑人は元の世界を忘れた訳ではない。この世界は異世界の侑人にとって、ふらりと立ち寄ってしまった旅先のようなものという感覚が常に付きまとい、一番親しいはずのマリアが相手でも、自身の悩みや本音を語る事はほとんどなかった。
そんな侑人だったが、今日の心地よい静寂が何かを変えたのか、マリアに対して自身の葛藤を初めて語る。
「俺に何ができるのかな。黒髪の勇者って呼ばれる位だから、何か勇者らしい事をしないと不味いよな。勇者って何だろうな」
「クロウ・ミナトがそう呼ばれてた事しか私には判らないかな。でもさっきクロウ・ミナトのやり方だけでは駄目って言ってたしね」
「駄目というか、同じ事をやってもクロウ・ミナト以上の事を俺にはできそうもないって感じだな。黒髪の勇者はこの世界を平和にするのが使命って言われるなら、ちょっとは嬉しいけどさ。俺は平和が好きだから、そんな使命なら少しは納得できるかもな」
「平和ってまた大きな使命だね」
「だよなー。それにあんま考えたくないけど、俺が失敗したら次の異世界の人間を呼び寄せる可能性も出てくるよな……。できればそれだけは避けたい」
そんな事を呟きながら侑人は再度夜空を見上げる。
マリアも侑人の言葉を聞いて頷く。侑人の言葉に納得しつつあるマリアだったが、それと同時に別の考えが頭を過ぎっていた。
マリアは今まで聞いた事がない新しい伝承の解釈を聞かされ、自身の今までの黒髪の勇者に対する価値観を見つめ直していたのだ。
ハルモ教が伝える人族の英雄としての黒髪の勇者の姿は、確かに少し不自然な気もする。しかし侑人の考えだと、その範疇に納まらないほどの大きな使命を、黒髪の勇者は背負わされている事になってしまう。
一人の異世界の人間に重責を背負わせて、のうのうと暮らすこの世界の住人は、一体何様のつもりなのか。そんな事を考えると無性に泣きたい気分になるのだ。
侑人につられて夜空を見上げたマリアの目に、心の中の涙を代弁するかのような綺麗な流れ星が一つ映った。
「俺は何をすればいいのかな。どう動いたら、この世界の人達を幸せにする事ができるのかな」
少し苦悩したような表情を浮かべた侑人の独白は続く。
「俺は何を求められているのかな。もし俺が全てを投げ捨てたら、この世界はどうなるのかな」
侑人が自身の心の奥底を、人としての弱い部分をさらけ出して語る姿を初めて見たマリアは、大きな驚きと少しの嬉しさと、ほんの少しの寂しさを感じている。
マリアに対して心を完全に開いてくれた事に対する驚きと喜び、そしてそれに対して何の解決する力を持たない自分自身の弱さ。この二つに挟まれたマリアの心情は、微妙に揺れ動いていた。
黒髪の勇者としてこの世界に召喚された侑人は、この世界にとっては唯一無二の存在。それに対してマリアは、この世界では星の数ほど居る存在の中の一人にしか過ぎない。
異世界に召喚されたユートと最初に出会っただけの私に、一体何が出来るのだろう。マリアは夜空を見上げながらそんな事を考えていた。
マリアは侑人の横で夜空を見上げたまま寝転ぶ。その拍子にマリアの右手が侑人の左手に偶然重なり、マリアは侑人の手を反射的に軽く握り締めながら侑人に向かって話し掛ける。
「ユート。私の話を聞いてくれる?」
侑人は左手に感じる柔らかい感触に少しドキドキしながら、マリアの言葉に対してゆっくりと頷く。
そんな侑人の仕草を横目で見たマリアは、左手を夜空に掲げてまるで星を掴み取る様な仕草をしながら、子供の頃に起こったある事件を侑人に向かって語り始めた。
「私のお母さんが死んじゃってから五年くらい経った後の話だから、私が十二歳の時かな。その頃にはお母さんがいないのにも慣れて、ティルト村の中を元気に遊びまわっていたんだ。勿論家事も自分なりにやってたけど、まだお父さんが家に居たからね」
「子供の頃のマリアか。可愛かったんだろうね」
「もー。まあ、自分で言うのも何だけど、結構人気者だったんだよ」
「あはは。それは今もだね」
マリアがハルモ教を嫌うもう一つの原因。五年前に起こったある事件だが、これもハルモ教の人族至上主義の弊害で起こった出来事だった。
セビルナ王国はハルモ教法王庁教圏国家群の中でも、比較的宗教観が緩い国家である。とはいえ国教はハルモ教であり、宗教の自由までは認めてはいなかったが。
前王の代からこの流れは続いていたが、六年前に即位した賢王と名高いカルロス国王の方針で、その流れはさらに加速した。エルフ族のアルクィンが宰相に抜擢されたりと、亜人族でも優秀であれば重要なポストにつく事ができるようになったのだ。
しかし王国内の門閥貴族には敬虔なハルモ教信者も多く、門閥貴族との関係上完全に平等とまではいかなかった。だが他の王国の国民、特にエディッサ王国の国民から見れば、驚くほど平等な扱いをしていたのだ。
罪を犯せば人族、亜人族を問わず平等に罰し、また亜人族を理由なく傷つければ人族であろうとも厳罰に処される。亜人族にとっては住みやすい王国であるため、妻がエルフ族であるマリアの父親も結婚と共に移住してきたのだ。
国王の権力が強く、国の方針がしっかりとしていれば地方もそれに習う。特にティルト村のような地方の小村では差別などほとんどなかった。
マリアも優しい村人に囲まれて伸び伸びと育っていた。
「今もそうだけど、当時のティルト村も平和でね。それに慣れちゃった私には、ちょっと危機感が足りなかったんだ」
「平和に慣れる事が悪い事だって思いたくはないよな」
「そうだね。まあ、今はユートが居るから安心だけどね」
「期待に沿えるように頑張るさ」
そんなマリアがのびのびと暮らすのどかな村に、あまり柄の良くない傭兵団が来たのは、本当に偶然の事だった。
ティルト村は傭兵団が来る事などほとんどない地方の小村であり、村は異様な空気に包まれたが、村長は友好国の出身者が数多くを占める傭兵団を無下にはできず、補給の為の駐留を許可したのだ。
その傭兵団はエディッサ王国出身者が数多く所属していた。しかしその事がマリアに悲劇を招く事となる。
「セビルナ王国では国王陛下のおかげで差別なんてほとんど感じないけど、この国を一歩でも出ると亜人族の扱いって結構酷いんだよ……」
「そうなんだ。ペッカートを見てたらそんな気はしたけどさ」
「あそこまで酷いのも珍しいけどね」
「ありゃ。でも程度の問題で済ませる訳にはいかんよな」
エディッサ王国はハルモ教正教会が置かれているのも影響しているのか、敬虔なハルモ教信者が数多く住む国家だ。治安もそれなりに高く、人々は助け合いながら生活している。
しかしそれは人族に限ればの話だ。亜人族は排斥の対象になりやすく、陰湿な差別は数多く存在していた。
その傭兵団はプロセン王国と、北の国境を接するグランツ帝国の間で、最近小規模な戦闘が繰り返し行われているのを聞きつけ、プロセン王国に雇ってもらう為に戦場に向かっている途中らしかった。
平和な村の子供たちにとって傭兵団は物珍しく、皆で集まって見学に出かけた。好奇心旺盛なマリアもその中の一人だったのだ。
「初めて見る傭兵団はすごく新鮮でね。でもちょっと怖いから村の皆と遠巻きに見てたんだ。何か忙しそうだったから邪魔もできないからね」
「なんか今の俺の扱いみたいだ……。子供達によく見物されてるし」
「だねー。でも遠慮しないで側まで来ればいいのにね。ユートは優しいから、遊んでー。って言えばきっと相手してくれるのにさ」
「おいおい。まあ、暇があれば少しくらいは相手するとは思うけどな。いや、全力で遊んでしまうかもしれん」
「あはは。その時の私もユートの事を見ている子供の一人みたいなものだったのかな。背伸びしてみたり木に登ってみたりして、一生懸命見てたんだ。そしたら少し目立っちゃったみたい」
「可愛いなら黙ってても目立つと思うのは俺だけか?」
そして十二歳ながら美しく成長したエルフ族の血を引くマリアの姿は、傭兵団の一部の者の目に留まる。
しかも持っている魔力の量は一流の魔導士に匹敵するか、それよりも多い位なのだ。目を引かない訳がなかった。
「ありがと。でもその時はそんな平和な状況じゃなかったの。夕方近くになって辺りが暗くなってきた頃、私が意識を取り戻した時には、目の前には気持ち悪い笑顔を浮かべた数人の男達が居た。私をどうしようとしてたのかは判らないし考えたくもない。でも、他の子供達と別れて家に帰っていたはずの私は、気づくと水車小屋の中に押し込められてた」
「意識を取り戻す? 押し込められていた?」
「うん……。傭兵団の数人に攫われたの」
「はあ!?」
亜人は咎人だ。咎人相手なら何をしても構わない。そんな思考を持った者が傭兵団の中に何人かいて、その毒牙が無邪気なマリアに向けられたのだ。
長い傭兵生活で心が荒んでいたのかもしれないし、魔が差しただけかもしれない。しかし幼いマリアには何の罪も無いはずだ。
だがそんな事情など顧みる事なく、暴力は無慈悲にも無力なマリアに襲い掛かる。それがマリアの身に起こった悲劇だった。
「突然殴られて訳も判らないまま縛られて、意識を取り戻すまで水の魔法で顔に水を掛けられ続けてたみたいでね。気づいた時には上半身がずぶ濡れだった」
「ちょっ!」
「でね、その時に感じた恐怖からか、魔法にも嫌悪感を持っちゃったみたいなんだ。結構前にユートに話したよね。魔導士の修行をした事があるけど上手くいかなかったって。あれはこの事件の後に心配したお父さんが、私に魔法を習わせようとした時の事なんだ。でも水の魔法に苦手意識を持っちゃった私は、小さな火の魔法しか使えなかったの」
「マリア……」
侑人の横で寝転ぶマリアは、少しはにかむ様な笑みを浮かべているが、語っている過去は壮絶なものだった。初めてマリアの過去を聞かされた侑人は絶句していた。
いつも元気に笑顔を浮かべているその裏で、マリアは自分の過去と戦っていたのだ。その事を知った侑人に衝撃が走る。
マリアの母親が既に亡くなっているのを聞かされていた侑人は、何かを乗り越えているだろう位の事は考えていたが、そんな想像のはるか上をいっていた。
しかもそんな事を知らなかった侑人は、出会った頃のマリアに魔法を教えてくれと頼んでしまっていたのだ。
「すまん……。そんな事も知らないで魔法を教えろなんて言っちまって。しかもその後あれこれ魔法について話しちまった」
「大丈夫だよ。私だって火の魔法を使ってる位だし、ユートと会った頃にはそこまでの嫌悪感を持ってなかったから。むしろ教えてる時にユートの楽しそうな顔を見て、魔法って使う人によってこんなにも違うんだなって思えたから、むしろ良かったかな」
「そうか……。そう言ってくれるなら助かる」
「そんな顔しないで。そんな事言ったら、私がユートを連れてきた事から間違った事になっちゃうんだから。あ、ちなみに私は無事だったんだから、変な想像はしないでね」
「変な……? あー! わ、判った判った! しないしないぜーったいしない!」
「あはは。変なユート」
幸いにもその事件は未遂に終わりマリアに大きな怪我はなかった。その頃はまだマリアの父親はティルト村におり、マリアを襲った不届き者達を全員返り討ちにして役人に突き出したのだ。
しかし襲われた事に対する恐怖と、『亜人は罪人だ、それに手を出して何が悪い!』と役人に文句を言っている犯人の姿が、マリアの心に大きな傷を残す事となる。
「今はこんな感じになったけどね、その後の私は結構酷かったんだ。最初の頃なんてお父さん以外の男の人をみると脅えちゃってね。家から出る事もできなくなっちゃった。でもそんな話を聞いたおじーちゃんが神官を辞めて、エディッサ王国からセビルナ王国に越してきたの」
「じゃあ、ヨーゼフさんが神官を辞めた理由は……」
「そう、私の為だよ。理由を話さなかったのはこの話のせいなんだ。この事を知ってるのは、おじーちゃんとお父さん、後は数人の年配の村の人達位かな」
「俺に話しちゃって良かったのか?」
「いーのいーの。ユートには聞いて貰いたかったの。それに私から話してるんだから気にしないで。ちょっと恥ずかしかったけどね。それに懺悔の気持ちもあったりするんだよ」
「懺悔?」
少しだけ遠い目を浮かべているマリアは、星空を見ながら一つだけ溜息を吐く。
そしてそのままの姿勢を崩さず、少しだけ改まったような声色で話を続けた。
「ユートを家に連れ帰った日の事を覚えてる?」
「ああ、あの日だけは決して忘れられん」
「あの時いきなり矢を突きつけちゃってごめんね」
「森の中でいきなり黒髪の勇者っぽいのに会ったらそりゃびっくりするだろ。警戒するのは当たり前なんじゃないか?」
「そうじゃないの……。私は黒髪の勇者が怖かったんじゃなくて、若い男の人が怖かったの」
「え……?」
五年前に起こった事件は、マリアの中にもう一つの傷を残していた。
未遂であったとはいえ、下卑た男の浅ましい視線に晒されたマリアは、男性が持つ本能に強い嫌悪感を懐くようになってしまったのだ。
人目につく容姿をしているマリアにとって、そのトラウマは本当にきつい物だった。
マリア自身はできるだけ目立たないようにしているつもりでも、どうしても男性の目を引いてしまうのだ。そして相手が好意からする行動に対して恐怖感しか覚えないマリアと、好意でしかない相手の間に決定的な齟齬をきたす。
侑人と出会うまでのマリアの人気が若い男の間で今ひとつだったのは、マリアの男性恐怖症が原因だった。
「男性恐怖症って言えばいいのかな? とはいっても大分改善はされてたんだけどね。五年前の事件の直後なんて、お父さんとおじーちゃんにしか心を開けなかったから。その頃の私はいつも、おじーちゃんの後ろに隠れてたの」
「ちょっと待て。つうか犯人がどこのどいつか教えて。今から殴りに行ってくる」
「あー、セビルナ王国では誘拐は極刑だから、今頃は多分……」
「あーそうか。ならいいや。話の腰を折って済まん」
「ありがと。ユートの気持ちは嬉しいよ。それでね、いつまでも男の人を怖がってたら、生活に支障が出るっていうか、その……、私が結婚する時に困るだろうっておじーちゃんが言ってね、村のあちこち散歩に連れ出されて段々と直っていったんだ。でも、どうしても若い男の人に対してだけは、怖いって感情が抜けなかった」
男性恐怖症のマリアが、黒髪を持つ若い男の侑人と森の中で相対していた時の恐怖感は計り知れない。あの時よく撃たれなかったなと考えた侑人は心底安堵した。
しかしそれと同時に疑問が浮かぶ。男性恐怖症なマリアが、なぜ侑人をホラント家へ連れ帰ったのかという、単純な謎が残るのだ。
「よく俺を連れて帰ったな。怖くなかったのか?」
「正直に言ってよく判んない。初めは怖かったんだけと、言葉が通じないって事が判ってどうしようって悩んでるうちに、お互いの名前を知る事ができてなんか嬉しくなって、そのまま勢いで家まで連れてっちゃった感じなのかな」
「なんて言ったらいいのか判らんが、一応俺も若い男のつもりなんだけどな」
「だよね。だから初めの一週間位は連れ帰ったのを少し後悔してた。言葉を教えているうちに段々打ち解けてきたような気がしてたけど、それ以外はできるだけユートの事を避けるようにしてたの。でもユートはすごく紳士的だった。男の人がたまにするあの目を、私に一切向けなかったし」
侑人も若い男なので、見目麗しいマリアの事が気にならない訳はなかったのだが、異世界に召喚されたばかりでそれどころではなかった、というのが正解なところだ。
そして命の恩人であるマリアを、そんな目で見ては駄目だと自分自身に制約を掛け、たまにモンモンとする夜を一人で乗り越えてきたのだが、妙なところでそれが役に立っていたようだ。
「そして魔法を教えてくれってユートが言ってきた後からかな、私はユートの事が全く怖くなくなったんだ。そしたら他の若い男の人の事も余り気にならなくなったかも。深く関わろうとまでは思えないけど、普通に挨拶する位なら平気かな」
「俺も役に立ってたみたいだな。狙ってやってなかったけどさ」
「そうだね。だからこの事をユートにいつか話したかったんだ。後ね、謝りたかった。怖がってごめんなさい」
「いやいや。謝ることなんてないさ。迷惑ばっか掛けてたって思ってたから、少しでも役にたってたのは嬉しいよ」
素直な気持ちを語る侑人に対して、少し照れを感じたマリアは握った手に少し力を込めた。
マリアの柔らかい感触を少し強く感じた侑人は、真っ赤な顔をしたまま黙りこむ。
「綺麗な星空を見ていると、色々な事を考えてしまう気持ちは良く分かるの。私もその当時は星空を眺めながら、色々考えたりしたんだ。なんで私がこんな目に合うんだってよく考えたし」
マリアは星空から侑人に視線を動かして笑いかける。マリアの視線を感じた侑人もマリアと顔を合わせた。
思い出話を静かに聞いている侑人は、なぜこの話をこのタイミングでしたのか少し考えていた。黒髪の勇者の使命の話から、マリアの過去の話へと繋がるものは今のところない。
しかしマリアの目は何かを伝えようとしている。証拠は何もないが、そんな確信めいた思いが侑人の心に浮かび上がっていた。
「小さい頃の私は毎晩想像をしたけど、自分で何か行動を起こす事はなかった。おじーちゃんが一生懸命私にしてくれたけど、私が変わらなければ駄目だったんだ。ユートの使命と私のトラウマ、比べる対象が間違っている事は判ってる。でも考える事も大事だけど、何か自分自身で行動を起こすほうがもっと大事。私はそんな風に思うの」
そんなマリアのたどたどしい、でも心が篭っている言葉を聞いた侑人は、頭を何か硬いもので思いっきり殴られたような衝撃を受ける。
考えなしに動くのは愚の骨頂だが、考えるだけで行動しないのは何もしないのと同じ事。黒髪の勇者の使命の事を気に掛けるあまり、肝心な事を忘れていたのだ。
その事に気付いた侑人は、気付かせてくれたマリアに対して深く感謝した。そして悩んだ目をしていた侑人に生気が戻る。
色々と悩んでいた侑人の雰囲気が変わった。マリアは自分の右手に感じる侑人の左手の感覚で、心情の変化を察したのだ。
侑人の左手はいつの間にか、マリアの右手を力強く握り締めていた。侑人の行動は無意識のものだったが、その事が逆に変化を如実に表す。
最初に無意識に手を握ったのはマリアの方だったが、少し冷静になってしまったマリアの顔は真っ赤になっている。
侑人の方は逆に最初の頃は意識してしまっていたが、今ではマリアの手を無意識に強く握り締めている事に気づいてさえいない。
「強く握り締めてくれるのは嬉しい気もするけど、少し痛いかな」
「す、済まん!」
真っ赤な顔で慌てて言葉を発する侑人だったが、その左手は少し力を緩めるだけであり、マリアの右手を離す事はなかった。
そんな侑人の態度に、マリアは少しの照れと喜びを感じている。
朴念仁の侑人と男嫌いのマリア。この二人が奇跡的に見せる良い男女の雰囲気だったが、あるきっかけでその空気は無残にも壊れる。
「ほほう。やはり二人は恋仲だったのじゃな」
二人の頭上から突然聞こえる、何かニヤニヤとした雰囲気を感じさせる声。その声の主はアンナだった。
「いっ、いつからそこに?」
「きゃっ、いつから見ていたの?」
同時に飛び起き、少しだけ距離を取る侑人とマリア。いまさら感が漂うが、アンナの目の前で手を握り続ける事などさすがにできない。
そんな二人の姿を見つめるアンナの顔には笑みが浮かんでいる。
「うーむ……。マリアが真面目な顔で、自分自身で行動を起こすほうがもっと大事。って言っておる位からかの?」
「ほっ、結構最後の方か。ちょっと焦った」
「そうみたいだね」
「最初の方だったらもっと熱々な感じじゃったのか? ひょっとしたら接吻の一つや二つしてたりも? そりゃ惜しい事をしたかもしれん」
「「してねえよ!(ないわよ!)」」
アンナの言葉に対して、二人は同時に突っ込みを入れる。
真っ赤な顔で照れる二人を見ているアンナは、非常に嬉しそうな顔をしていた。二人を同時にからかえる機会をみすみす逃す理由はない。
「わらわは新郎側の来客でいいのかの? それとも新婦側の方が、問題が起きにくくて良いのかの?」
「「ーーーーーー!!」」
二人の声にならない声がティルト村の夜空に響くのであった。
挿絵:卯堂 成隆様
2014/5/16:話数調整




