第1話:平和の残照
意図せず掴みかけた些細なきっかけでも、両手から零れ落ちてしまうと人は不安定な存在となる。
動乱の中を生き抜いた剛の者なら動揺を表に出さない。しかし平凡な人生を歩み一般的な感性を持った者は、天地がひっくり返ったような衝撃を受け、なかなか立ち直れないはずだ。
比較的平和な世界だった日本で日々生活していた侑人が、剣と魔法が支配する世界から帰る手段を一時的にでも失えば、泣き叫んでもおかしくない。
しかしそうはならなかった。
勿論侑人が百戦錬磨の剛の者になった訳でも、全てを悟りきった賢者になった訳でもない。
通常の人間では持ち得ない『どんなものでも理解できる能力』を得て、様々な困難へと立ち向かった経験を積んではいる。しかし侑人の内面は驚くほど変化していなかった。
マグナマテルの住人から見ると、平和ボケしている風変わりな人物だと評されてもおかしくない程、侑人の思考形態は元の世界に居た時のままだ。
変わったものは唯一つだけ。得たものと言い替えてもいいだろう。
何の心構えもなく異世界へと召喚され、黒髪の勇者としての役割を押し付けられつつある侑人にとって、最大かつ最上の支えがある。
それは彼女達との幸運な出会いだった。
「病み上がりだから、本当は無理しちゃ駄目なのに。まあ、ユートにそんな事を言っても無駄だとは思うけどさ。さすがワーカホリックだね」
「ほんとにもう大丈夫だよ。でもまあ今日に関しては、心配して付いて来てくれるマリアがいたから何かあっても平気だったし……。って、ワーカホリック扱いは流石に酷くないか?」
悪びれた様子もなく柔らかい笑みを向ける侑人とは対照的に、マリアは頬を少しだけ朱に染めつつジト目を向けている。しかし内面から浮かび上がる密やかな喜びを隠し切れていなかった。
金色の柔らかなそうな長い髪の毛の隙間から覗く金色の目は侑人を射抜いているが、浮かんでいる色はどことなく優しい。
やわらかそうな長い髪を二つのおさげに結わえ、すっきりと通った鼻筋と、形の良い桃色の唇を持つ彼女の容姿は、透き通るような白い肌と相まって、十人が十人とも振り返るほどの印象を放っている。
普段であれば彼女のそんな空気に押され、侑人がたじたじになる場面が多いのだが、今日は心の持ちようが違うのか、侑人のペースで物事が進んでいた。
「はぁ……。そう言われちゃうと言い返せないよ」
やがてマリアは何かを諦めたような表情を一瞬だけ見せ深く溜息を吐くと、今度は満面の笑みを侑人に向ける。
二人の間に流れる空気は相手を思いやる色を帯びており、どこまでも優しい音色を奏でていた。
「今日は私が折れたけど、少しでも調子が悪そうだったら今度こそ引き止めるからね」
「その時は必ずマリアの言う事を聞くさ。でもほんとに体調は良いし、少しぐらいの作業で倒れる事はないと思うんだ」
今日の侑人は市場を囲う防壁を補修する為、ティルト村の中心地まで赴いていた。不満そうなマリアの言葉の通り、出かける前にひと悶着あったのは紛れもない事実だが。
マリアは昨日までベッドに寝込んでいた侑人の体調を気遣い、外出する事に関して最後まで反対していた。しかし一度物事を決めるとなかなか折れない頑固な侑人を説得できず、最終的にはマリア自身が付いて行く事を条件に渋々認めたのだ。
「しばらく私も付いて行こうかな。家に居ても、最近やる事がほとんどなくて暇だし」
「マリアが付いて来るのは構わんけど、つまんなくないか?」
「ユートみたいにすごい事はできないけど、私なりにできる事はあるんだよ。それにユートは私が見てないと無茶するからすごく心配なの」
「うーん、俺ってその辺の信用ないなぁ……。まあ良いか、マリアがそう言ってくれるなら俺もかなり助かるし、しばらくの間はお願いしようかな」
監視と称し一日中侑人の事を心配そうに見つめて甲斐甲斐しく手伝っているマリアと、そんなマリアに向かって優しげに微笑みかける侑人の姿はかなり目立っていた。二人は村人達から生暖かい目で見守られていたのだが、その事に全く気づいていない。
結局太陽が西の空へと傾き、世界が茜色に染まりかけた頃になんとか侑人の作業は完了し、今は二人並んで帰宅の途についている。
「最近暑くなってきたけど、俺は夏が好きじゃないんだよな。ここがどれだけ暑くなるか俺には判らんから、結構不安だ」
「ティルト村はそこそこ暑いって感じかな? 私は行った事ないけど、王都はここよりもう少し暑いって話だよ」
「山に近いから都市より気温が低いのか。避暑地みたいなものかな」
「うーんそうかも。たまにだけど貴族の人が夏に来たりするよ。家とは反対の方にそういう建物が集まってる場所があるんだけど、そっちにはほとんど行かないからよく判んないけどね」
二人はティルト村の中心地からホラント家へと向かう長閑なあぜ道を、のんびりした足取りで他愛のない会話をしながら歩く。
楽しそうな笑みを浮かべつつ、時折侑人の肩を叩いているマリアの姿は心底楽しそうだ。しかしそんな雰囲気を断ち切るような事態が起こる。
『わらわも二人の邪魔をしたくはないのじゃが』
突然侑人の脳内に声が響く。申し訳なさそうな声色の中にも少しからかいの色が混じった独特の口調。
脳内に直接語り掛ける芸当ができる人物など一人しかいない。
『この雰囲気は、わらわの体調に色々と宜しくなさそうじゃ』
『いきなり何言い出すんだよ! つうか今までどこに行ってたんだ?』
侑人の問い掛けに対して、村内の散歩をしていただけじゃと答えつつ、二人の目の前に突如姿を現したのは、赤みがかった少しきつめの瞳と赤みを帯びて光り輝く長い髪を持ち、しなやかで健康的な褐色の肌が印象深いアンナだった。
「今日も仲が良いようじゃのお二人さん」
「仲が悪いよりは良い事じゃないの?」
「良すぎるように見えるんじゃがなー」
アンナは人形のような整った顔立ちで、侑人とマリアの顔を交互に眺めている。からかう気満々の悪戯っ子のような目だ。
丈夫そうな素材を丁寧に裁縫した簡素な衣服を着用しているので、一見すると町娘のようにも見える。しかし、
「病み上がりにからかうのは勘弁してくれ。つうかアンナは姫らしくもう少しおしとやかな態度を取ったらどうだ?」
「それは偏見という物だぞユート。城に篭り社交の場で貴族の相手をするだけの姫など、もはや時代遅れなのじゃ」
アンナは、れっきとしたクーラント魔国の第一王女だった。
生き生きとした表情を浮かべながら、アンナは大きな素振りで力説している。村内の散策が思いのほか楽しかったようだ。
道端に転がっている石を蹴飛ばしつつ、楽しげに語り続けるアンナの姿は好ましくもあるが、ここ最近の行動は少々目立ちすぎているようにも思えた。
「しかしユート、自由に歩きまわれるというのは良いものよのう」
「いいから少し落ち着け。ハルモ教正教会との一件は何とかなったけど、この先どうなるかまでは判らんのだぞ」
「だからこそ今のうちに平穏を楽しんでいるのじゃよ。そんな事も判らんとはユートの器も底が知れる。そのうちマリアにも愛想をつかされてしまうぞ」
「なんでそこに私の名前が出てくるのよ!」
反論しつつもマリアをからかう事を忘れないアンナの律儀さには頭が下がるが、それに巻き込まれるこちらの身にもなって貰いたい。
そんな事を考えつつ侑人はアンナの顔を見つめるのだが、その意図は全く伝わらなかった。
その後もしばらくの間、二人の少女のじゃれ合いは続く。
主にアンナが悪戯めいた表情でからかい、マリアが真っ赤な顔で反論していた。しかしどことなく楽しそうな雰囲気にも見える。
女の子の勢いには敵わんし俺にはどうにもできん。侑人は自嘲気味にそんな事を考えていたのだが、
「それはそうとユート」
突如アンナが問い掛けてきた事により、その思考は中断された。
ふと気づけばアンナは、真面目な表情で侑人を探るように見つめている。
「身体の方は大丈夫なのかの? 今日の作業でも魔法を使ったとは思うが、何か違和感があったりとかは? どうじゃ?」
「ああ、大丈夫。寝込む前となんら変わりないって」
侑人は自身の身体を見回してみたが、特に違和感を覚えるような箇所はなかった。
一日中作業していたので少しの疲れは残っているが、それも許容範囲内の事だ。
「あれ? どうしたのユート?」
「ん? 今日も良い日だったなーって考えていただけ」
身体の状態を確認しながら侑人は無意識のうちに微笑んでいたようだ。そんな侑人の顔をマリアは不思議そうに見つめていた。
侑人はマリアに向かって何でもない事をアピールしつつ、アンナの方へとゆっくり向き直る。すると視界に入ったのは、少しだけ怒ったような表情をしたアンナの顔だった。
何も気にしていないような素振りを見せつつも、内心ではかなり心配しているアンナの態度は、幼い感じがして何やら微笑ましい。
反抗期を迎えている実の妹の姿をアンナに重ねていたのだが、侑人は空気を読んで口に出しはしなかった。
「ありがとな」
「ふんっ! 大丈夫ならそれで良いのじゃ。これに懲りたら今後はもっと気をつけることじゃの!」
笑顔の侑人とは対照的に、アンナは真っ赤な顔をしながらそっぽを向く。そんなアンナの姿を見たマリアが、反撃とばかりにからかい始める。
賑やかな二人のやり取りを聞きながら侑人が空を見上げると、夜の帳が降りかけた空には満天の星空が瞬いていた。
今日の日付は水の月の第八週の四日。日々シトシトと恵みの雨が降り続いていた雨季は少々早めに過ぎ去り、季節は夏に移り変わろうとしていた。
侑人が死力を尽くしてハルモ教の狂信者――ペッカート・ウルティム・ミーレス――を退けてから十日が経過しているティルト村は、いつもと同じ長閑な雰囲気を保っている。
「しっかし、よく生きてたな俺」
騒がしい二人を他所に、侑人は一人呟く。
意識は二日で戻ったが、十日の間全く動けなくなるまで侑人は追い詰められていた。ちなみに侑人が戦う羽目になった理由は、ハルモ教の教義の一節が原因だ。
ハルモ教では、全ての人は神のもとに平等であると教えられる。現実には貧富の差は存在しているが、問題点はそこではない。
全ての人という言葉の中にエルフなどの亜人種は含まれておらず、それどころ人種より劣っている下賎な存在であるとまで書かれていた。
亜人であっても、ハルモ教を信仰すれば全ての罪が許される。ハルモ教典にはそういった意味合いで解釈できる内容も書いてあるが、侑人はその一文にも納得ができなかった。
そんな侑人の考えを受け入れる事ができなかったハルモ教正教会司教ペッカートは、侑人がマグナマテルに召還された際に目覚めた礼拝堂での話し合いで決裂すると、有無を言わさず襲い掛かってきたのだ。
その戦いの余波で礼拝堂は再建不能なまでに破壊され、侑人は元の世界に戻る手掛かりを一時的に失い今に至っている。
しかしハルモ教正教会の司教が黒髪の勇者に明確な敵意を向け、命がけの戦闘まで行った事実は隠蔽されたらしく、表立った動きは今のところない。まるでハルモ教正教会からの接触がなかったかの様な静けさが不気味ではあるが。
だが侑人はその状況を歓迎していた。魔力を限界まで行使しすぎた余波で身動きが取れない間に、再び厄介事を持ち込まれるのを嫌がったのだ。
そんな心境をアンナに語った際に『平和ボケしてるユートは交渉というものがどうやればいいのか知らんのか情けない』と怒られたので、どうやらアンナの考えは違うようだ。
悪い笑顔を浮かべたアンナは問題の芽を早めに摘むべく、ハルモ教正教会の再接触を手ぐすね引いて待っている。しかもどうやらマリアも同じ考えのようであり、侑人にはそれが不思議でならなかった。
だがこれにはちゃんとした理由がある。
侑人は教えられてないが、礼拝堂から出たばかりの侑人は一時危ない状態まで追い詰められていた。マリアが危険を顧みず礼拝堂へと飛び込んで助け出し、アンナがその場で魔力を注入しなければ命を落としていたかもしれないのだ。
そこまで侑人を追い詰めたハルモ教正教会に対して二人は激怒し、次に接触があれば責任の所在をきっちり問い質そうと考えていた。二度とこの様な事態を起こさせない様、しっかりと釘を刺そうとしてたのだ。
侑人の穏やかな生活は、色々な優しい思惑に守られていた。
「あれ?」
夜空を見つめ思考に耽っていた侑人がふと我に返ると、周りに誰もいなかった。
久々の労働で心地よい疲労感を覚え頭の回転が鈍くなっている状況で、半ば上の空になりつつ思索に耽っている時ほど、周囲の時間の流れを速く感じる事はない。
しかも考えていた内容が、もう取り返せない過ぎ去った日々の出来事を振り返っていた程度の事なので、自分自身でも呆れかえってしまうのだからお話にもならなかった。
所々コマ落ちしたような記憶の断片には、楽しそうに会話を続けているマリアとアンナの姿があるのだが、何処までが現実なのかはっきりと把握できない。
どこかに自分の妄想が混じっていないか?
もしもそんな風に問われると、今の状態では否定できないはずだ。
どんな切欠で思考が元の状態に戻ったのか判らないが、ふと我に返った侑人は思わず苦笑いを浮かべる。
回転の鈍くなった頭を左右に振り、軽い重りを付けられたかのような手足を動かしつつ視線を前へ向けると、少しだけ小さくなった二人の影が、長閑なあぜ道の少し先で揺らめいていた。
「色々と考えてたのが嘘みたいだ」
そんな事を侑人が口走るのとほぼ同時に、さらに先へと進んでいた二人がこちらを振り返る。
マリアは心配そうに小首を傾げつつこちらを静かに見つめ、それとは対照的にアンナは少し怒ったような口調で『早く来るのじゃ』などと侑人を怒鳴りつけていた。
まさに平凡。いつもの日常だ。
侑人はもう一度だけ苦笑いを浮かべると二人に向かって軽く手を上げ、心配を掛けた事に対する謝意を表す。そんな仕草だけで何となく意志が通じる関係が心地よい。
これからの事を前向きに、皆で考えていけばいいじゃないか。
一人で居ると後ろ向きになりがちな思考も、皆と共に居れば変えられる。それだけの事だがなんて素晴らしい事なんだ。
二人の方へ向けて小走りで走り寄る侑人の姿は、どことなく喜びに包まれているようだった。
「クロウが守衛さんの正式な弟子になった?」
雲の無い満天の夜空に輝く、三割ほど欠けた二つの月が周囲を優しく照らしている。
少しだけ目を細めて淡い光を見つめている侑人がそう問い掛けると、同じ様に夜空を見上げていたアンナが『そうじゃ』と短く言葉を発し軽く頷いた。
「散策の途中にクロウと偶然会って少し立ち話したのじゃが、本人がそう言っとったぞ。あやつも先の戦いを目の当たりにして、このままじゃいかんと気がついたようじゃ。多分ユートの弟子のままで居たかったじゃろうが、人の理から外れた存在の真似をしているだけは強くなれんと決断したのではないかの。まずは基本からじゃと。そのうち挨拶に行くとも言っておった」
まるで人外の存在のような扱いを受けた事に対して一言文句を言いたかったが、我ながらやり過ぎた感もあり反論できない。
侑人は少し困った顔をしながらマリアの表情を伺ったのだが、そこには侑人自身が浮かべている色が浮かんでいた。
「そうか……元気そうだったか?」
「まあそうじゃな。少しだけ強がっているようにも見えたが、あの目は本気だとわらわには思えたぞ」
普段はおちゃらけた姿を良く見せるアンナだが、人を見る目は確かだ。マリアも同じ気持ちだったらしく、しきりに頷いている。
アンナとクロウが二人きりで話している姿など見た事がなかったが、いつの間にか仲良くなっていたようだ。案外侑人の知らない所で交友を温めていたのかもしれない。
人の縁など無限に転がっているもので、比較的距離感の近かった二人が意気投合してもおかしくない。むしろ性根は素直なアンナとクロウが、二人で会話を交わした事がないと決め付ける方が不自然だ。侑人はそう結論付けた。
「アンナもすっかり村に馴染んだよな。つうか、普段より機嫌が良さそうだけど何かあった?」
「別に普段通りじゃぞー」
二人の一歩先を軽快な足取りで進んでいるアンナの背中を、侑人は静かに見つめる。
いつの間にかアンナは一本の枝を手に持ち、規則正しいリズムで前後に振り回していた。少しだけ覗ける横顔からは、機嫌の良さが滲み出ているようだ。
「なにやら微笑ましい感じね。年相応というより、もう少し幼く見えるかな」
「そんな事言ってるとアンナに怒られるぞ。まあアンナも俺と同じく微妙な立場だから、楽しそうな姿を見るとホッとするけどな」
「すっかりアンナも馴染んじゃったよね。ずっと前から家に住んでるみたい」
「アンナと会う前の出来事が遠い昔の様に思える時があるから、俺もマリアと同じ感覚かな」
侑人の横で恥ずかしそうに微笑むマリアの姿も、普段と比べて少しだけ幼く見えたが、この雰囲気を壊すような返答をするほど子供ではない。
素直に自身の心境を語る侑人の言葉を、マリアは静かに頷きながら聞いている。
周囲から見ていると付き合い始めた二人の、初々しいやり取りにも見えるが、残念ながらその事実はない。二人は今の距離感で満足しているのだ。
だが周囲から見れば非常にじれったい状態であり、アンナがからかう一因にもなっている。
「黙って聞いておれば二人仲良く勝手な事を言ってくれるの。じゃが、わらわも否定はできんし、今回ばかりは大人しく聞いておるしかないのじゃがな」
アンナがしてやられたという様な表情をしながら舌を出す。こんな顔をされたら侑人もマリアも笑い返す事しかできなかった。
「素直すぎるアンナは少々怖いぞ。反撃する時は手加減しろよ」
アンナは侑人の言葉を、意味深な笑顔を浮かべつつ軽く聞きながしている。やはり役者はアンナの方が一枚上手のようだ。
しかしそんな姿を見ていた侑人の胸中に、ある思いがふと沸きあがった。
ハルモ教に対しては、アンナの心の内で簡単には割り切れないものがあり、本来であれば侑人と敵対する立場になっていてもおかしくない。そんなアンナが黒髪の勇者に付き従う従者という役柄を受けた時、一体どんな心境だったのだろうか。
確かにやむを得ない事情はあったが、それだけで片付けてはいけない事だ。侑人は思わず問い掛ける。
「アンナは今の生活で満足してるか?」
「わらわはユートとは違い、割り切るときはすっぱりと割り切る性質じゃ。下手な心配などするだけ無駄じゃぞ」
侑人は努めて冷静に応対したつもりだった。しかし隠しきれない微細な表情の変化を見逃さなかったアンナは、直ぐにこちらの心情を察したらしい。
バツが悪くなった侑人はとぼけた表情をしながら頬を指先で掻いている。マリアも何やら複雑そうな表情を浮かべていた。
そんな雰囲気を嫌いとっさに話の転換を図る侑人。それはアンナの故郷についての話題だった。
「そういや、アンナの故郷の話って聞いた事なかったな。どんな所なんだ?」
「アンナは結構遠い所から来たよね」
「わらわの生まれはクーラント魔国じゃの。冬は国土の半分が雪と氷で閉ざされてしまうのじゃが、夏はなかなかに過ごしやすいのじゃ。しかしセビルナ王国からじゃと徒歩で三ー四ヶ月は楽に掛かる距離にあるゆえ、赴くのは大変かもしれんのう」
マグナマテルの北東に位置する亜人族が治める国、それがクーラント魔国である。
元々はマグナマテルの北側全部を支配する大国だったが、八百余年前に黒髪の勇者クロウ・ミナトにより国土の半分を奪われたという過去を持つ。
とはいえ、その当時のクーラント魔国は国としての体裁をほとんど取っていなかった。力のある者が力のない者を無理やり従わせて支配する、そんな弱肉強食の世界だったのだ。
亜人族は数が少ないが魔力や腕力に長け、人族は数こそ多いが突出した能力を持つ者は少ない。その為、当時のクーラント魔国では人族は常に詐取される側だった。
「ユートが一人でクーラント魔国に赴いたら、間違いなく大騒ぎになるの。黒髪の怨敵が攻めてきた、皆で立ち向かえってな具合に話が進むと、大騒ぎでは済まないかもしれんが」
「怨敵って……。もし俺がクーラント魔国に行く事になったらアンナを頼るよ。マジで」
「あの時にユートをクーラント魔国へ誘ったアンナの考えが判らないよ」
「わらわが一緒に居れば大丈夫じゃ。クーラント魔国の第一王女という肩書きは、伊達や酔狂で名乗れるほど甘くはないのじゃぞ」
ハルモ教法王庁教圏国家群では黒髪の勇者として崇められる侑人だが、場所をクーラント魔国に移すと立場が大きく変わる。
黒髪の勇者クロウ・ミナトは、虐げられるクーラント魔国に住む人族の解放の為に戦ったので、クーラント魔国から見ると憎むべき敵なのだ。
しかも黒髪の勇者クロウ・ミナトの快進撃により、クーラント魔国は一時滅亡の寸前まで追い詰められていた。しかし追い込まれた亜人達は一人の有能な者を王として立て、なんとか国の体裁を整えクロウ・ミナトに対抗し滅亡を免れたのだ。
皮肉にも現在のクーラント魔国の国家としての形態は、怨敵クロウ・ミナトの存在がきっかけとなり作られたものだった。
今のクーラント魔国と国境を接する国は、西側のグランツ帝国のみである。
地理的には南西側でエディッサ王国と接しているが、両国の間には八千メートル級の山脈が横たわっており、山脈を越えての交流や侵攻はない。そして北側は海に囲まれ、東側には未開の地が広がっている。
「一人でそんな遠い所から来たのか?」
「足手まといなど、わらわには要らぬからな」
「相変わらず凄い自信だね」
「事実じゃから仕方あるまい。まあ、ユートやマリアのような存在がおれば、わらわも供を許したじゃろうけどな」
「私までアンナにそう言って貰えるとは思わなかったよ。ありがとね。でも供を許すどころか、今じゃアンナがユートの従者になってるよね」
「ククク。人生とは不思議じゃの。あれほど憎んでいた黒髪の存在を、今では頼もしく思っているわらわの心境の変化が一番の驚きじゃよ」
「姫様の期待に沿えるように頑張るさ」
「ユートは適度に頑張ってね」
「さすがにちとユートを褒めすぎたやもしれんがの」
「上げるか下げるかはっきりしてくれ……」
唯一国境を接するグランツ帝国は、黒髪の勇者クロウ・ミナトが興した国を源流としているが、現在はハルモ教法王庁教圏国家群と敵対している。二十年前に即位した皇帝がハルモ教を廃止した為だ。
しかしクーラント魔国にとっては相手がどのような状況であっても関係ない。奪われた大地を取り戻す事が何事にも優先される。
クーラント魔国とグランツ帝国は八百余年の長きに渡り、大小の差はあれ常に争いを演じ続けてきたのだ。
「わらわには飛べるという強みがあるゆえ、移動の速さは桁違いじゃからの。それに警備が厳しい帝都に忍び込むのはさすがに骨が折れるが、警戒が緩い場所を選んで飛べば国を超えるなど容易い事じゃ」
「飛べるってのは便利だよな。俺も飛べたらよかったのに」
「ユートは飛ぶというか、むしろふっ飛んでたからの」
「ほっとけ」
風の魔法の中には飛翔の魔法もあり、空を飛んだアンナを目の当たりにした侑人は自分でも飛べるか試したのだが、結果的に無理だった。
予想以上に姿勢制御が難しく、無理やり魔力を込めて浮かび上がったまでは良かったが、そのまま制御不能に陥って、裏庭の薪小屋へと頭から突っ込んだのだ。
その時の苦い思い出が侑人の脳裏に蘇っている。
「まあ飛べるだけで全てが上手くいくほど、世の中は甘くはないがの。わらわが飛べるだけの単なる姫なら、父上もエディッサ王国にあるハルモ教正教会へと進入する事を許してはくれんじゃろう」
「そりゃそうか。実際にアンナの魔法は凄いしな」
「国王である父上と比べたらわらわなどまだまだじゃ。とはいっても魔法では負けん。亜人族で成り立ってる国という事もあり、魔法が得意な者がクーラント魔国には多いのじゃが、はっきり言って父上には魔法の才がないのじゃ。じゃが武術の才にはかなり恵まれており、総合的な武力で考えると他の者を圧倒しておる。クーラント魔国の国王という肩書きは、クーラント魔国最強の証でもあるのじゃよ」
「なんか凄い国だね。私には無理そうだよ」
「判りやすくてわらわは好きじゃぞ。まあわらわもクーラント魔国の第一王女とはいえ、己の研鑚を怠れば直ぐに足元をすくわれるがの。仮の話じゃが父上が王位から退いた際に、わらわやわらわの親族がクーラント魔国の中で最強の存在ではなかったら、わらわ達は即座に王族ではなくなるのじゃよ」
アンナの語るようにクーラント魔国の国王は世襲制ではない。現国王が死去した際には魔国の中で一番力のある者が新国王となるのだ。
武術に秀でている者か魔法に秀でている者が、次代の王としてクーラント魔国を治め国民を守っていく。国家としての形態は整っているが、根本的な部分は昔と大して変わっていなかった。
「しかしこんな状況ではクーラント魔国にいつ戻れるのか判らんの。アレクやローザはまだまだ幼いゆえ、わらわが側で支えてあげたかったのじゃがな」
「アレクとローザって誰だ?」
「弟と妹じゃよ。わらわに似て美男美女なんじゃぞ」
「アンナが言うと説得力があるわね。可愛いだろうなぁ」
「目に入れても痛くないほどじゃ。今度いつ会えるのか判らんのが辛いとこじゃの……」
三人を取り巻く空気が少しだけ沈み、辺りに響き渡る虫の音が沈黙に包まれた夜の闇に吸い込まれていく。
いつの間にか三人は歩を止め、その音に聞き入っていた。しかし不意に小石を踏みしめるような音が聞こえ、続いて侑人の右腕に心地よい衝撃が走る。
「わらわはこれでも一国の姫じゃからな。それ相応の振る舞いなど容易い事なのじゃ!」
アンナは左腕で侑人の右腕を、右腕でマリアの左腕を抱え込みながら満面の笑みを浮かべていた。
発した言葉と今の行動はどう考えても結びつかないが、これがアンナの良さでもありいつものアンナらしい姿だ。
「アンナも大変ね」
「うむ。わらわも色々と大変なのじゃぞ」
今のアンナの言葉は本当か嘘かはっきりとは判らない。しかし侑人やマリアの前では素の自分をさらけ出している。
黒髪の勇者とそれに付き従う従者の立場など抜きにして、頼りがいのある家族が心を開いてくれるその事実は、侑人の心まで軽くしてくれた。
「でもまあ、ユートの方がわらわなんかよりもっと大変じゃと思うがの。色々とな」
「確かに色々とだね」
いつも甲斐甲斐しく側にそっと寄り添い、陰日向で侑人を支え続けてくれるマリア。
自由奔放に見えるが、微細な変化を見逃さず的確な助言を常に与えてくれるアンナ。
この二人の為に今自分ができる事はなんだろう。二人の存在を側に感じながら侑人はそんな事を考える。しかし直ぐには結論は出なそうだ。
やがて一つになった三人の影は、もう一人の家族が待つ、暖かい光を放つ建物の中へと吸い込まれていった。
2014/5/16:話数調整




