第17話:正教会からの使者
「ただいま帰りましたー」
「おじゃましまーす」
案の定というか予想通りというか、玄関先から見える内部の状況も普通ではなかった。
屈強そうな二人の衛士が応接間の入り口に直立不動の姿勢で控えており、できる事ならこのまま回れ右をして見なかった事にしてしまいたいがそうもいかない。
『かなりの身分の者が訪れていると考えた方が良さそうじゃな』
『俺と会ったって何かが変わるって事はないと思うんだが』
心の底から憂鬱だと思っている事を少しも隠そうとしない侑人は、アンナに対して愚痴をこぼしつつ応接間の入り口へと向かって歩いていく。
そんな侑人の姿を視界に捉えた衛士達は、一瞬だけ身構える素振りを見せたのだが、視線を黒髪に移した瞬間に元の直立不動の体勢に戻り、手に持った短めの槍を身体に引き寄せて敬礼の姿勢を取った。
『ユート、こやつらは無視してこのまま入っても問題ないぞ』
『そう言われても落ち着かんだろ実際……』
どうでもいいから早く行けと急かすアンナの意見は正しいが、侑人はこの雰囲気に慣れる事ができず応接室に入るのに躊躇してしまう。
侑人の黒髪を見て態度をあからさまに変えた衛士達の何かが引っかかった。黒髪の存在がどう扱われるかは村人達を相手にして学んでいる。しかしどうも勝手が違うのだ。
最近慣れてきたとは言え、村人達の態度にも畏怖や恐れといった感情が表れている。だがその根底には温かい物が流れているような気がするのだが、目の前の彼らからは感じられない。
「はぁ……入るか」
『ボケとらんではようせい』
とはいえ侑人が中に入らないと話にならない。そう決意し半分諦め気味に応接室の扉に手を掛けた侑人の背後で、金属同士が擦れ合う音が響く。
慌てて後ろを振り返ると、衛士達が持つ槍が交差してクロウの入室を阻んでいるのが見えた。クロウの身体は衛士達に押されて徐々に下がっていく。
侑人が一瞥すると彼らは青い顔をしながらその行動を改めたのだが、一連のやり取りを見た侑人の気分はどんどん重くなる。どう考えても面倒な出来事が舞い込んできたとしか思えないのだ。
侑人の予想通り、いつも賑やかなホラント家の雰囲気に似つかわしくない程の沈黙が、応接室の中を支配していた。
「一体何の騒ぎです?」
「おおユート、ようやく帰って――」
ようやく帰ってきた侑人を出迎えようとしたヨーゼフの言葉は、ある者の言葉によって中断される。
応接室の上座で偉そうに座っていたその男は侑人の姿を目に留めると、上品な立ち振る舞いで静かに立ちあがり、仰々しく頭を垂れながら長い口上を口にした。
「お初にお目にかかります黒髪の勇者様。私は若輩者の身でありながら、幸運にもハルモ教正教会の司教を勤めさせて頂いている、ペッカート・ウルティム・ミーレスと申します。此度は黒髪の勇者様のお噂を聞きつけ、隣国のエディッサより駆けつけた次第です。我が生が尽きぬ前に黒髪の勇者様に出会えた僥倖は、正にハルモ神の御慈悲の賜物。このペッカート、感動で胸が張り裂けそうにございます」
そう言い終えると優雅な動きで姿勢を正し、温和な笑みを浮かべて侑人の事を見つめるペッカート。
年齢は二十代中盤位に見えるが、洗練された立ち振る舞いは全く隙を感じさせず、一筋縄ではいかない相手のように思えた。
『こやつは……ユート油断するでないぞ。とんでもない奴が現れおったわい』
『アンナはこいつの事知っているのか?』
噂で聞いた事があるだけじゃかと前置きを付けて、アンナは自身が知るペッカートの情報を侑人に伝える。
ペッカート・ウルティム・ミーレスは、二十九歳という年齢でありながらハルモ教の総本山であるハルモ教正教会の司教の座に上り詰め、周囲の者達から時期法王に最も近いと評されている人物らしい。
最年少で司教に任ぜられた実力もさる事ながら、ハルモ教の教えを従順に守り人生の全てを捧げるその姿が、ハルモ教の司教の間でかなり評価されており、ハルモ教信者からの人気もかなりのものとの事である。
しかしその裏ではきな臭い噂も数多く存在し、今の立場に上り詰める為に相当あくどい事をしてきたとの話もそこかしこで囁かれ、油断できない人物だという印象を受けたと。
そんな話を聞かされた侑人は、表面上は普通に振舞いながらも内心では困惑していた。
『それはマジな話?』
『わらわがエディッサ王国にあるハルモ教正教会に忍び込んだという話は前にしたであろう。その際にエディッサ王国の城下町で情報を仕入れたのだが、こやつの噂話はかなりの頻度で聞かされたわい』
長めの金髪をきっちりと整えて後ろに流し、端正に整った顔に微笑を湛えたペッカートの姿は、華美な装飾が施された司教服とも相まって、一見すると物語の主人公のように見える。
どこからどう見ても好人物としか思えない雰囲気だが、アンナがそう言うのなら間違いないだろうと侑人は考え、飄々と佇む目の前の人物に向かって深く一礼した後、真っ直ぐに目を見つめながら言葉を発した。
「はじめまして。俺……じゃなかった、私の名前はユウト・コサカです。早速で申し訳ないんですけど、わざわざ隣の国まで足を運ばれた訳を聞いても良いでしょうか?」
「ユート・コサカ様……。なんて荘厳で素晴らしいお名前なんでしょう……」
侑人に話し掛けられたペッカートは、恍惚の表情を浮かべながら目を瞑っている。用件を聞かれた事に気がついているのかいないのかよく判らない雰囲気だ。
そんなペッカートの姿を見た侑人は、ただならぬ姿に首を少しだけ傾げつつも、そんな事よりマリアはどこにいるのかと考えて、部屋の中をぐるりと見回す。
先ほどから声が全く聞こえないので、マリアが応接室に居ない可能性も考えられたのだが、侑人の予想はあっさりと外れ直ぐに見つかった。
しかしマリアは下を向いて床を見つめたままの姿で微動だにせず、応接室の片隅で立ち竦んでいる。どう考えても様子がおかしい。
「マリア? 一体どうし――」
ただならぬ雰囲気を感じた侑人は、マリアの元へと足早に向かおうとしたのだが、突如右腕を掴まれその動きを止める。
何事が起こったのかと訝しみながら振り向いた侑人の目に、少しだけ鋭い目をしたペッカートの姿が映った。
「なりません勇者様、神の代行者とも言えるお方が、その様な下賎の者と関わるなどあってはならない事。このような空気の悪い場所からは、いち早くお出になるべきです。ささ、私めが用意した馬車にお乗り下さい、直ぐにでも出立致しましょう」
「それはどういう意味だ?」
泣きそうな顔で肩を震わせるマリアの姿を横目で確認した侑人は、射るような目をペッカートに向ける。思わず口調が元に戻ってしまったが、前もってアンナに冷静になるように言われてなければ怒鳴りつけていただろう。
そんな侑人の感情を察したペッカートは、心底意外だと言わんばかりの表情をした後、淡々とした雰囲気を全く崩さずに、諭すような口調で語り掛けてくる。
「黒髪の勇者様ともあろうお方が何を躊躇っておいででしょうか。咎人をお救いになられようとするその姿勢には心底感服致しますが、今はその様な時ではないはずです。いまだにご尊顔を拝見していないハルモ教信者の為にも、一刻も早く正教会へと足をお運び下さいませ」
「…………」
空いた口が塞がらないとは、正にこのような状況の事を指すのだろう。ペッカートが持つ価値観の全てはハルモ教の教義によって定められ、それ以外の要素が挟まる余地はないのだ。
その証拠にペッカートの目には一点の曇りもなく、侑人が自分の言葉を聞いて喜んでくれると心底信じきっている。狂信者――そんな単語が脳裏を過ぎった。
「まずは手を離して下さい」
「はっ! 大変失礼致しました」
音を立てずに二歩ほど下がり、そのまま膝をついて頭を深く垂れるペッカート。侑人はその姿を見つめながら、この男が自分を見ていない事に気づく。
一見すると侑人の言葉に従っているように見えるが、その本質は表面上に現れている行動と異なる。ペッカートが従うのはあくまで黒髪の勇者という存在であり、勇者の向こうにハルモ教の神の姿を見ているだけなのだ。
「俺の考えがハルモ教の教義と違っていたらどうします?」
「何を突然仰るのかと思えばそんな戯言を。私の信仰心をお試しになるおつもりですか? しかし勇者様から問われたのなら、私は答えねばなりません。もし万が一、億が一そんな事が起こりうるとしたら、私は私の全身全霊を賭けて勇者様を正しい道へとお戻しします。そんな覚悟はいつでも持っております」
『自分達が間違っている可能性を疑わないところがさすがじゃの……』
『厄介すぎて頭が痛いんだが……』
呆れと感心が半々に混じったアンナの声が脳裏に響く。同じ感想を抱いていた侑人も思わず思考で相槌を打ったが、状況を打破する手立てが何も見つからず、心底困り果てていた。
そんな二人の気持ちを慮る事もなく、ペッカートは頭を垂れたままの姿勢でその場に佇んでいる。侑人がこのまま何も言わなければ、いつまでもその姿勢を崩さないはずだ。
『この手の人間を説得するのはまず無理じゃから、今日のところは帰す事だけを考えるべきじゃ。しかしマリアの様子が気になるの……』
『ハルモ教関係者が来たから機嫌が悪くなった……なんて事じゃないよな間違いなく』
ホラント家での生活が長くなっている侑人は、普段の会話の中でマリアの過去を本人から聞かされており、ハルモ教に嫌悪感を抱いている事実も知っていた。
ユートの事は嫌じゃないけどねと言いながら微笑んでいるマリアの姿が、どことなく寂しげな雰囲気だったのをよく覚えている。目の前にいるペッカートが、何か傷つくような言葉を投げ掛けていなければよいが……そんな事を危惧しつつ、侑人は姿勢を正す。
「頭を上げて貰えません?」
「仰せのままに」
ペッカートは跪いたまま深く一礼すると、おもむろに立ち上がり視線を侑人にぶつける。全てを見透かすような眼がどことなく不気味に思え、一瞬だけたじろぎそうになったが何とか堪えた。
本音を言えば早々にご退席を願いたかったが、自分がいない間に何があったのかを確認するのがまず先決だ。
「なんか雰囲気がおかしいけど、貴方はこの二人に何か言いました?」
「はて? 私には特に心当たりなどありません」
少しだけ首をかしげて怪訝そうな表情をするペッカート。何を言われているのか理解できないと、心の底から思っている雰囲気だ。
そんな様子を見た侑人は少しだけ安堵しかけたが、次にペッカートが言い放った言葉を聞いて愕然とする。
「そこにおられる元神官のヨーゼフ殿には、勇者様をハルモ教正教会へとお連れする為に赴いた事をお伝えしましたが、咎人の娘とは口をきいてすらおりません。咎人の更生を促すのも司教の役目ですが、若輩者の私にはまだ荷が重いようですので」
『こやつ、言わせておけばいい気になりおって!』
侑人に冷静になるように諭していた筈のアンナが突如切れる。エルフやヴァンパイアといった亜人を咎人という蔑称で繰り返し表現するペッカートの態度に、どうしても我慢ならなくなったのだ。
クーラント魔国の姫君であるアンナが、自身の誇りを穢される事に対して強い憤りを感じている事は、侑人にも痛いほど理解できた。しかし今は冷静に事を進めなくてはならない。
『アンナ! お前が切れてどうする!』
『じゃがユート! こやつの態度には我慢ならん!』
『そんな事は判ってる! 俺だって頭に来てるんだ!』
『ユート……いや、ユートの言う通りじゃな……すまん』
怒りに震えるアンナが魔力を開放し、実体化しそうになる気配を感じ取った侑人は、強い口調でその行動を押し止める。ハルモ教の勇者である侑人のみに向けられているペッカートの興味を、他の人物に向けてしまう事は得策でないと考えたのだ。
しかも黒髪の勇者を招致する際の障害に対して、狂信者のペッカートがどのような行動を起こすのか今の段階では判らず、ヴァンパイアのアンナがペッカートと対峙しても今回の事態が良い方向へと進むとは思えなかった。
「ほほう……これはなかなか魔力ですね。さすがは勇者様と言ったところでしょうか」
「まだまだ修行中なんで、たまに抑えられなくなるんです」
アンナの魔力だという事を伏せて、ペッカートに応対する侑人。今更アンナに魔力を隠させたところで、一度見せてしまった事に変わりはなく、自分の未熟さのせいにしてしまった方が害が少ないと判断したのだ。
侑人の身体から溢れ出る魔力――正確にはアンナのものだが――を目の当たりにしたペッカートは、動じる事もなく目を細めている。狼狽している衛士達とは対照的に、侑人の能力を冷静に推し量っているような気配すら感じた。
『マリアの様子がおかしい訳がよーく判った。とにかくこいつはムカつく』
『全くじゃ! 心底腹立たしい!』
ペッカートの言う通り、マリアに対しては何もしていなかったようだ。話し掛けるどころか、返事をする事も姿を見る事さえもしなかっただろう。ペッカートはマリアの存在を完全に無視していたのだ。
それがどれだけマリアを傷つけた事だろうと考えた侑人は、一言どころかかなりの文句を言いたい気分になったが、いまだに底が見えないペッカートとこのままの状態で話を続けても得にはならないと判断し、軽い溜息を付きつつ外の景色に眼を向ける。
「今日のところは帰って下さい」
「仰せのままに。また近いうちに馳せ参じますので出立の準備だけはお忘れなきよう、何卒宜しくお願い致します」
ペッカートは侑人に深々と一礼した後、立ち尽くしている衛兵達に目配せし、優雅な動作で扉へと向かって行く。
そのまま衛兵達によって仰々しく開けられた扉から退出しかけたペッカートは、不意に何かに気づいたような素振りをみせ、一瞬だけ立ち止まる。
「一つだけ言い忘れていた事がありました。罪深い従者殿に宜しくとお伝え下さい」
「……判りました」
侑人は内心の動揺を抑え、表面上は何とか平静を保ってそう答えた。今までの会話の内容からはペッカートがどこまで知っているのか判断が付かないが、こちらの予想をはるかに超えた内容まで把握しているように思えたのだ。
軽い音を立てて扉が閉まり、部屋を支配していた妙な緊張感は霧散する。しかし誰一人として言葉を発しない。ホラント家はいまだかつてない程の重苦しい空気に包まれていた。
「ここまで……モグ……気分が悪くなったのは……ング……初めてじゃ……」
「食べながら話すのは行儀が良くないよ」
ペッカート一行がホラント家を去ってから数時間が経過し、夕食時に差し掛かる頃になってもアンナの怒りは収まっていなかった。
暫くの間マリアの雰囲気は暗かったが、現時点では普通の状態に戻っているように見える。空元気の可能性は捨てきれないが、いつまでも暗い顔をしているよりは何倍も良い事だ。
ちなみにヨーゼフはこの場に居ない。ペッカートの件を報告する為にレサク村長の家へと赴いている。ついでに今後の事を相談してくると言っていたので、戻りはかなり遅くなる事が予想された。
普段より一人少ないホラント家の夕食の場は、その分だけ賑やかさに陰りが見えるはずなのだが、今日は普段以上に騒がしい。と言うのも、
「うめー! おかわり!」
「おぬしは食いすぎじゃ。わらわの分がなくなってしまうじゃろ」
クロウがそのままホラント家に居座っていたからだ。元気のないマリアを心配したクロウは、あれこれとマリアの手伝いを申し出てホラント家に長々と滞在し、そのままの流れで夕食の相伴に与っている。
そんな三人の姿を見つめる侑人の目はどこまでも優しい。しかし侑人はある決意を胸に秘めており、食事が終わったら皆に話すつもりだった。
そして夕食後。侑人は食後のヌクとヌハ茶を用意しているマリアの後ろ姿を、物憂げな目で静かに見つめていた。アンナは訝しげな表情をしながら、侑人の姿を見守っている。普段であれば茶化したりからかったりするのだが、そんな雰囲気に思えなかったのだ。
やがてマリアが人数分の飲み物を用意し終わり、キッチンから足早に戻ってくる。全員分の飲み物を配り終えたマリアが席に着くのを見計らうと、侑人はおもむろに口を開いた。
「家に帰るのが遅れて本当にごめん。変なのが来てるって気づくのに遅れて……マリアにどう謝ったらいいのか俺には……」
「ユートは何も悪くないよ。約束もなしにいきなり訪問してきたあの人達が失礼なだけだよ」
食後のヌクに手をつけず、深々と頭を下げて皆に謝罪する侑人。そんな姿を見たマリアは右手を顔の前で振りながらフォローしている。
二人の姿を見ていたアンナは、バツが悪そうな顔をして頬を掻いていた。しかし一度だけ小さく頷くと、侑人に続いて勢いよく頭を下げる。
「わらわの方こそ軽率な行動をして済まなかった。もしあの時ユートに止められていなければ、とんでもない事になっていたやもしれん」
「アンナの気持ちはよく判る。とりあえず我慢してくれて助かった」
その後も侑人とアンナは、俺が悪かった、いやいやわらわの方こそ短慮じゃった……等と謝り合っていた。そんな二人をマリアは一生懸命慰めていたが、なかなか収拾がつきそうもない。
妙な雰囲気に包まれ、にっちもさっちも行かない状況に陥りつつあったホラント家の空気を変えたのは、今まで一言も言葉を発さず、侑人の真似をして頼んだヌクを苦そうに啜っているクロウだった。
「アンナの魔力は凄かったよな。俺にも師匠みたいな才能が欲しかったよ。目指せ魔法剣士って感じでかっこよかったのにさー」
クロウの軽口のおかげでのんびりとした空気が戻る。狙ってやったならば大した才能だが、そんな思惑などクロウには露程もなく、純粋な気持ちがそのまま口から出ただけだろう。
しかし場の雰囲気が良くなったのは紛れもない事実であり、侑人はそんなクロウの存在に感謝していた。
「ありがとなクロウ」
「師匠はすぐそうやって俺を子供扱いするー」
侑人は暫くの間、頬を膨らませているクロウの頭を撫でながら微笑んでいたのだが、やがておもむろに真剣な表情へと戻り、マリアとアンナの顔をゆっくりと見回す。
そんな侑人の顔を見た三人は姿勢を正し、次に発せられるであろう侑人の言葉を静かに待っていた。
「まず結論から言うけど、俺はこの家を出ると決めた」
「ペッカートの誘いに乗る……訳ではなさそうじゃの」
「あいつと一緒にハルモ教正教会へ行く気はないし、あの考え方ははっきり言って嫌いだ。皆の為って言うなら少しは考えたかもしれんけど、あそこまで選民思想に凝り固まっているハルモ教正教会の考えは俺には合わん」
「わたしは気にしないし、このままウチで生活するのは駄目なのかな?」
心配そうな顔をしながら問い掛けるマリアに向かって、侑人はゆっくりと首を横に振る。
マリアの申し出は涙が出るほどありがたいが、侑人を取り巻く状況はもうそれを許しはしないだろう。
「俺だってマリア達と一緒にティルト村でのんびりと生活したいさ。でももう無理だと思う。今のところペッカートの興味は俺にしかないけど、俺が断り続けて今の生活を続けてたら、あの馬鹿がどんな手段に出てくるか判らん。マリアやヨーゼフさんだけでなく、ティルト村にも迷惑が掛かるかもしれない」
「ならばわらわと共にあやつらと戦うか? 全員を屠れば少しは時間が稼げるやもしれんぞ」
「それは襲われない限り絶対にない。自分の事は自分で判るんだ。狩りをする事さえ躊躇していた俺が、命を懸けて戦うなんて無理だよ。身を守る為には仕方ないと思うけど、仮に誰かを殺してしまったら俺が壊れちまいそうだ。情けなくてすまん」
「冗談じゃよ冗談。襲われでもしない限り、あやつらと事を起こすのは下策中の下策じゃ。ふーむ、では、わらわと一緒にクーラント魔国へと赴くかの? わらわと共に居れば悪い様にはならんと思うが」
「うーん、多分だけどそれも無理じゃないか? ハルモ教の勇者が敵国へ寝返ったって噂が流れたらそれこそどうなるか想像すらできないぞ。それに俺に関わった全ての人を巻き込んで一人暢気に過ごすってのは性に合わん」
「じゃあ師匠はどうする気なんだよ!」
苛立ちを覚えたクロウが大声を上げる。侑人が語る内容が判らない訳ではないが、クロウはそれの理不尽さに我慢できなかったのだ。
そんなクロウの姿を見ながら侑人は僅かに微笑んでいる。クロウの真っ直ぐな瞳が心地良く、暫くの間見つめ続けたい気分に駆られたが、侑人は深く息を一つだけ吐き出すと、三人に向かっておもむろに語り始めた。
「俺は元の世界に帰る手段と、アンナとの融合を解除する方法を探る旅に出る。今までは先延ばしにしてたけど、いつか解決しないとまずいからな。簡単にペッカートが諦めてくれるとは思えんけど、矛先は姿を消した俺だけに向くんじゃないかな」
「やっぱりその結論になっちゃうよね。ユートとの生活は楽しかったのに残念だな……」
「俺も楽しかったよ。マリアには本当に感謝してる。あとアンナ、俺はアンナに謝る事しかできん。どう考えてもドタバタに巻き込んじまうと思う」
「気にするなユート。まあ……妥当な線じゃとわらわも思うぞ。ハルモ教正教会を牽制できる力を持つ何処かの勢力が力を貸してくれるか、ペッカートがユートに対して明確な害意を向けてくれれば別の道も開けるのじゃが、今のところそんな都合の良い話はないからの」
不満そうな表情を隠そうとしないクロウを除いた三人は、いつもと変わらない雰囲気で会話を続けていく。釈然としない感情を持て余しているが、残り少なくなったホラント家の生活を有意義に過ごす事を選択したのだ。
泣いても喚いても今までの生活は戻ってこない。その事を十分に理解している三人だった。
「ところでユート、手掛かりを探すって言っても当てはあるの?」
「一つだけあるかな」
興味津々なマリアに向かって、マグナマテルに召喚された際に目覚めた礼拝堂の事を話す侑人。侑人自身にも確証は全くないのだが、訪れる価値はあるように思えた。
アンナは目を瞑りながら何やら考え込んでいるが、どうやら反対意見がある訳では無さそうだ。クロウはいまだに頬を膨らませて不満そうにしていたが、目の奥で輝く好奇心の光を隠しきれていない。
「ペッカートの動き次第ってのはあるけど、隙を見つけて礼拝堂を調査して、そのまま旅に出るってのが一番安全かなって考えてる」
「俺は師匠に付いていくからな! ばーちゃんが心配だから礼拝堂までだけど……」
「それは――」
危険だから俺とアンナだけで行く。そう言い掛けた侑人の言葉はとある人物の発言によって中断される。
侑人の言葉を遮ったのは、少しだけ不満そうな表情を浮かべたマリアだった。
「ペッカートの動きが掴めた上での話だけど、礼拝堂の近くを縄張りにしていたアルレプスはクロちゃん救出事件の時にユートが退治したし、装備をしっかりと整えて注意していればそれほど危険はないと思うよ。本音を言えば私だってユートと一緒に旅に出てみたい。でも、おじーちゃんが心配だからそれは無理だって判ってる。だからせめて礼拝堂までは一緒に居させて欲しいかな……」
クロウに差し出しかけた侑人の右手を抱え込むように強く握り締めたマリアの視線が、真っ直ぐに侑人の両目を射抜く。マリアの意思は岩よりも硬そうであり、何を言っても翻すようには思えない。
侑人は苦笑いを浮かべながら横目でアンナの表情を伺うと、視線に気づいたアンナは大げさに両肩を竦ませ軽く溜息をついた。
「判った。二人の力を貸してくれ」
軽く頭を下げる侑人の姿を見たマリアとクロウは、ハイタッチをしながら嬉しそうにはしゃいでいる。二人の姿は実の姉弟のように見え非常に微笑ましい。
二人の姿を見ていられるのは後どれ位なのだろうか。そんな考えが侑人の脳裏に一瞬だけ過ぎるが、軽く頭を振ってその思考を振り払う。
今はただこの心地よいぬるま湯に浸っていたい。侑人は少し冷めたヌクを口に含みながら、漠然とそんな事を考えていた。
2014/2/10:改訂




