第1話:異世界への誘い
「何……だと……」
ドアノブに手をかけたままの姿勢で硬直し、間抜け面を浮かべたまま小坂侑人は自室を見つめている。
左手でぶら下げたコンビニ袋は辛うじて指先に引っかかった状態でユラユラと揺れ、このままでは中身のペットボトルとサンドイッチが廊下にぶちまけられそうだ。
廊下と一枚の扉を隔てただけの自室は、暗闇の中でアイマスクをしてそのまま目を瞑ったような、暗黒の世界へと変わっていた。
「いくらなんでも暗すぎだろこの部屋……」
下はジーパン、上はグレーのトレーナーと黒のジャケット姿という、人ごみに石を投げればダース単位で同じ様な格好をした奴にぶち当たる……好意的な表現をすれは、動きやすくラフな服装をした侑人は、疑問をそのまま口にする。
侑人の背は日本人の平均身長より高めだが、それ以外は取り立てて目立った要素がない、月並みな容姿をしていた。
体型は太くも細くも無く、両の眼は二重なのだが容姿端麗とまでは言えない微妙な感じだ。むしろ暫く床屋に行っていない伸び放題のボサボサ頭のせいで、周囲に根暗な印象を与えるかもしれない。
そんな一般人代表のような侑人が理解できない現象を目の当たりにしたのだ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔でオロオロするしかできないのも無理はない。
侑人が近所のコンビニへと夜食を買いに行く前の室内の様子はこんなではなかった。
空腹が我慢できず、家族が寝静まった夜中に照明を消してから外出したので、帰ったばかりの室内が暗いのは当たり前の事だ。
しかし物には限度がある。
入り口のドアと対角にある窓には、いつもなら部屋の外にある街灯の光が映る。しかし今の状況では窓すらあるのかないのか判らない。
それどころか比較的ドアの近くにあるはずのベッドや机すら見えないのだ。
「何がどうなってるのかよく判らん。判らんが俺の部屋……だよな?」
明るい所から急に暗い所へと移動した瞬間ならば侑人にも理解できた。
だが侑人は勝手知ったる我が家の玄関からホール、階段から廊下という移動の際には灯りを付けず、基本的に暗闇の中にいたのだ。
「まあ、灯りを点ければ万事解決ってとこか。今日は英単語を覚えようかなー」
しかし侑人は、目の前の不可解な現象を『気のせい』という魔法の言葉であっさり片付けた。
比較的おおらかな性格の侑人は細かい事を気にしない。そして気にしていられない状況に置かれてもいる。
全ては自業自得の結果だが、侑人に残されている時間は少ないのだ。
侑人は大学受験に失敗した。
しかも母親が熱心に進める塾通いを断固拒否して、結果が全落ちという最悪な形で。
それなりに机に向かっていた記憶はある。しかし今思い返せばまさに向かっていただけで、その内容を聞かれるといささか返答に困ってしまう状況だ。
自分の中で本命だと信じていた大学への夢は、全国共通マークシート試験の結果で無残に散った。慌てて取り組んだ滑り止め大学の対策も付け焼刃ではどうにもならなかった。
「来年に向かって勉強勉強ー」
侑人の言葉とは裏腹に、両親からは大学だけが人生ではないと言われ、就職をかなり強行に勧められている。
一つ目の理由だが、一つ下の妹も進学志望の為、侑人が一浪すると学費や諸々の負担が四年間重複してしまうのだ。
そして二つ目の理由。これがシンプルかつ強力な根拠だった。
普通に考えると受験の失敗が確定した後に就職活動をしても少々手遅れである。ところが父親の友人の大工がたまたま弟子を探しており、侑人の事を聞きつけ大工にならないかと持ちかけてきたのだ。
本人のやる気があればとの話だが、破格の労働条件を提示された両親の気持ちは就職へと傾く。しかし侑人は来年改めて受験に挑戦させてくれと必死にお願いし続け、結果として希望は認められたのだ。
ただし条件が付けられた。猶予期間は一年であり、しかも国立大学のみという厳しいものだった。しかも勉強をしないなら直ぐにでも弟子入りさせるというオマケ付きで。
国立大学を狙える頭脳を持っていない侑人にとってはかなり厳しい状況だが、当の本人は何とかなるだろうと楽観的に考えている。
「一日一歩ー三日で三歩ー三歩下がって二歩下がるー」
そんな能天気な侑人が鼻歌交じりで自室に入ろうとした瞬間、事態は動き出した。
侑人は動悸を伴うほどの激しい頭痛に襲われ、こめかみに右手を添えながらその場に座り込む。その姿勢のまま朦朧とする意識をなんとか繋ぎとめようと思考を集中させた時、脳内に直接呼び掛ける不可解な声を聞く。
『汝は何を望むか?』
頭の中に響き渡る謎の声を聞いた侑人はかなり驚いたが、特にリアクションを起こそうともせず無視を決め込んだ。不可解な現象に対する驚きよりも、激しい頭痛による生命の危機の方が何倍も緊急性が高かったのだ。
その場で大人しくうずくまり、頭痛が収まるまで待ち続けた侑人は、動けるようになった事を確認した後、ゆっくりと立ち上がりつつ辺りを見渡す。
「俺の……部屋だよなぁ……残念ながら」
目の前にある暗黒空間は、先ほど脳髄に強制的に叩き込まれた不可解な声との相乗効果で、何とも言えない不気味な雰囲気を漂わせている。
自室でなければ、間違いなく回れ右して足早にこの場から立ち去ったはずだ。
しかし勉強するにしても寝るにしても、侑人はこの部屋を使っている。服も私物は全て室内にあるというどうにもならない事情もあり、消極的にそれを断念した。
「出る前にカーテン閉めたっけかな」
遮光カーテンを閉めてもここまで真っ暗になるとは思えないが、何か理由をつけないと精神がおかしくなりそうだ。
現実逃避と言われてしまえばそれまでなのだが、平凡な侑人が不可解な現象に対して取れる唯一の対抗策はそれしかなかった。
「ひょっとして俺の目がおかしくなったとか?」
慌てて後ろを振り返る侑人の目に映るのは、またもや普段と変わらない自宅の廊下と階段。自分の目が普通に見えているのを確認できた侑人は少しだけ安心する。
とはいえ先ほどと何も変わっていない階段を見ているだけで、何となく恐怖感を覚えてしまうのは気のせいだよな。とも考えていた。
「いつまでも部屋の前で立ち往生している訳にもいかんよな。でもなぁ……やだなぁ……」
奇妙な空間になってしまった自室の前で、侑人は考え込む。
このまま部屋の中に突撃するのは少々怖いが、両親や妹を叩き起こす訳にもいかない。
幼児が夜のトイレに恐怖感を覚え、両親を起こす話はよく聞く。
しかし選挙権は無くとも国民投票が可能な年頃の男が『お部屋に入るのが怖いの』などと言い出すのは、悲劇を通り超えて喜劇になる恐れもある。
「時間の無駄だ、仕方ないか」
とにかく部屋が怖くても余計な時間を使ってる暇は無い。
理不尽な事が社会で巻き起こってようが、世界が謎に包まれていようが関係ない。今の侑人にとって勉強こそが最も重要であり、優先順位が一番高いのだ。
侑人は決意をあらたに……実際には恐る恐る室内へと移動していく。しかし、
「マジで何も見えんな」
自宅の中でも一番隅々まで知っている自室へと入っただけなのに、侑人の胸中には妙な胸騒ぎが巻き起こった。
毎日踏み慣れているフローリングの感触が、妙に硬く冷たくなっている気がして、侑人は酷く落ち着かない。柔らかな木の感触というより硬質な石の上を靴下のままで歩いているような場違いな感覚が、歩くたびに襲い掛かってくる。
暗闇の中で視覚を奪われその他の感覚が鋭敏になっただけ。そう思い込むことで何とか平静を保とうと侑人は努力しているが、背に伝う冷たい汗を止める事はできなかった。
「多分気のせいだ。明かりさえつけばなんて事ない」
冷静になれと自分に言いきかせながら、侑人は右手を壁に触れさせる。普段触りなれているはずのクロスも今日は妙に冷たい。
侑人は手探りでペタペタと壁を触りながらスイッチを探した。しかしどういう訳か右の掌が脳に送りつける情報の中にスイッチらしきものが見当たらない。
「スイッチがない?」
思わず声に出してしまった瞬間、侑人は心底後悔した。
あるべき場所にあるべき物が無かった事実を知り、改めて困るだけなら問題ないが、先ほど感じてしまった恐怖心が感情を支配し始めたのだ。
「壁が駄目なら机だ机!」
考えを無理やり口に出して自分を鼓舞する侑人。
ただの空元気だが、こういった状況では案外役に立つ。
その場に縫い付けられそうになっていた両脚がその機能を取り戻し、一歩一歩ゆっくりであるが、元々机があるはずの場所へと移動していく。
「机? 石?」
結論から言えば机っぽいものはあった。材質が石っぽく思えるのが気のせいでなければの話だが。侑人は多少戸惑ったが、開き直ったままの勢いで机らしき物体の上を手探りで撫で回す。
机の上に置いてある手元灯を探しているのだがなかなか見つからない。その代わりにもならないが、置きっぱなしにしていた参考書らしき本を掴む事ができた。
「本かよ……何の役には立たないけどさ……」
机らしきものの上に本を戻しながら、侑人は文句を口にする。だが言葉とは裏腹に、内心ではかなりの安心感を覚えていた。
自分の私物が自分の部屋から出てきたという、誰が考えても当たり前の事がとても心強い。
しかし侑人がほっととした瞬間、それをあざ笑うかのように事態は再び動き始める。
『汝は何を望むか?』
「うわ! 今度は何だよ!」
先ほど感じた脳内に直接呼び掛ける不可解な声が頭の中に大きく響き渡り、それと同時に身体を支えているはずの両脚から力が抜けバランスを崩す。
コンビニの袋が床に落ち中身が床に散らばる音が聞こえるが、どうしても身体が上手く動かなかった。
侑人は全身に力を込め必死に抵抗する。
しかし自分の意思に反して意識は段々遠くなり、元々暗闇に支配されていたはずの視界が更なる漆黒の闇へと閉ざされていく。
『汝は何を望むか?』
「何を望むかって急に言われても……そうだなぁ」
疲れ果てて抵抗を諦めた侑人が朦朧とした意識の中で、受験もあるしどんなものでも理解できる能力なら欲しいかもな……などとぼんやり考えると、
『そ――願い――る。汝と――契――成れ――』
そんな思考に反応したのか、謎の声が言葉を返してきた。しかし返答を把握する前に視界が暗転し、侑人の意識は暗黒の中に沈み――
――この瞬間、侑人の姿は世界から完全に消え去った。
2014/2/10:改訂