ヤンデレ王子に監禁された社畜令嬢、「家賃タダ、三食昼寝付き、残業なし!? 最高のホワイト環境じゃないですか!」と歓喜する
「今日から、お前はここで暮らす」
第二王子セヴランは、鍵のかかった扉を背にしてそう告げた。王都北部にある離宮の最上階。白い大理石の壁には細かな金細工が施され、窓の向こうには庭園まで広がっているのに、唯一の出入口には騎士が立ち、窓には鳥一羽すら抜けられそうにない結界が張られていた。
俗にいう、黄金の鳥籠というやつだろう。
「王宮には戻さない。財務局にも行かせない。手紙も仕事の書類も通さないし、俺の許可なく誰にも会わせない。これからのお前の生活に必要なものは、全部俺が用意する」
「……殿下?」
「何度会えば、偶然ではなくなると思う?」
いつものセヴランなら、どれほど苛立っていても王族らしい余裕を崩さない。けれど今は違った。何年も胸の奥に押し込めてきたものを、とうとう隠すことをやめたような目をしている。
王宮財務局があるのは西棟、第二王子の執務室は反対側の東棟だ。本来なら仕事中に一度顔を合わせることすら珍しい。それなのに私は、朝にも夜にも、何度となくセヴランとすれ違っていた。
「俺が早く登城した日にも、お前がいた。夜会が終わったあとにも、お前がいた。誰もいない渡り廊下で何度も目が合った。これだけ重なって、それでも全部偶然だと思えと?」
何と答えればいいのか分からず黙っていると、セヴランの声が少しずつ荒くなった。
「俺は、気づいていないとは思わなかった。お前も何か感じているのに、それでも仕事を選び続けているんだと思っていた。俺との夕食より仕事。休日に誘っても仕事。夜会が終わったあとまで王宮に残っている。挙げ句に『俺のそばに来い』と言えば、翌朝には異動案を持ってくる!」
「それは、第二王子付きの予算担当へ異動するお話かと……」
「そういうところだ!!」
セヴランは額に手を当て、しばらく何も言わなかった。怒りを鎮めたというより、理性を保つ努力そのものを諦めたように見える。やがて深く息を吐くと、今度はかえって静かな声になった。
「……もういい。お前が分かっていて仕事を選んでいるのか、本当に何も分かっていないのか、それすらもうどうでもいい。俺が全部終わらせる」
セヴランが一歩近づいた。
「仕事も、同僚も、王宮も、お前から取り上げる。服も食事も住む場所も、全部俺が与える。もう他の誰にも、お前の時間を一秒たりとも渡さない」
腰に下げた鍵を握り、セヴランは私を真っ直ぐ見た。その目には、冗談も脅しもなかった。
「恨め。憎め。最低の男だと思えばいい。運命だと認めなくても構わない。もう、そんなことすらどうでもいい。俺はもう、お前を離さない」
なるほど。思っていたより、ずっと本格的な監禁だった。
「確認してもいいでしょうか」
「…………何だ」
「明日から財務局へ出勤しなくていい、という理解で合っていますか? 年度決算の途中でも、陛下から至急の確認が来ても、残業も休日出勤も夜間の呼び出しも全部なしで?」
セヴランは、そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。数秒こちらを見たあと、苛立ったように眉を寄せた。
「仕事そのものをさせないと言っている。明日も、その次の日も行かせない。父上から呼び出しが来たなら、俺から事情を話す。お前は行かせない」
胸の奥で何かが震えた。恐怖ではない。まだ最後まで条件を確認していないので断定はできないが、かなり良い話になってきた。
「では、食事は三食出て、掃除と洗濯も自分でしなくていいんですよね? それと、ここに住むためのお金は……」
「料理人も侍女もいる。家事は全部やらせるし、金を取るわけがない。生活に必要なものは俺が用意すると言っただろう!」
家賃無料。三食付き。家事不要。ここまででも相当強い。私は部屋の奥に置かれた天蓋付きの寝台へ目を向けた。見るからに柔らかそうで、枕など普段使っているものの三倍は厚い。
「最後に一つだけ。あのベッドは自由に使っていいんでしょうか。夜だけでなく、昼間に眠くなった時も」
「お前のために用意したんだ。いつ眠ろうが好きにしろ!」
ここまで提示された条件を頭の中で整理する。家賃無料。温かい食事が一日三回。掃除も洗濯も不要。通勤なし、残業なし、休日出勤なし、夜間呼び出しなし。そのうえ昼寝まで自由で、求められている条件は働かないことだけだった。
「家賃タダ、三食昼寝付き、残業なし……?」
思わず声が震えた。セヴランはようやく私が自分の置かれた状況を理解したと思ったらしく、逃げ道を塞ぐように一歩近づいてくる。
「そうだ。理解したか? お前にはもう、好きな時に外へ出る自由も、好きな相手に会う自由もない」
「最高のホワイト環境じゃないですか!!」
「…………は?」
セヴランの顔から、さっきまで浮かべていた冷たい威圧感がきれいに消えた。
「だって出勤禁止ですよね!? 残業なし、休日出勤なし、深夜呼び出しなし! 三食付きで家事不要、家賃まで無料! そのうえ昼寝も自由なんですよね!?」
「待て。お前は今、監禁されているんだぞ!? 仕事どころか、外へ出る自由まで奪われているんだ!」
「はい。だから仕事に行けないんですよね?」
「そこを喜ぶな!!」
初めてセヴランの声が裏返った。どうやら彼の想定では、ここから私は泣くか、怒るか、命懸けで逃げようとする予定だったらしい。しかし残念ながら、今の私が気になっているのは別のことだった。
「殿下。このあと私に予定はありますか? 監禁について追加説明があるとか、尋問されるとか。特にないなら、今から寝たいのですが」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます!」
許可が出た瞬間、私は寝台へ向かった。慌てたセヴランが後ろから呼び止める。
「待て、本当に寝るのか!? 俺は今、お前を一生閉じ込めるくらいの覚悟で話していたんだぞ!」
「昼寝は好きにしろって言ってくださったので。それに、もうかなり限界です」
「言ったが……そういう意味で喜ばせるために言ったんじゃない!!」
まだ何か言っていたが、もう聞いている余裕がなかった。靴を脱ぎ、寝台へ身体を沈める。柔らかい。腰も痛くない。枕はちゃんと首を支えてくれる。何より、今日はもう誰も書類を持ってこない。
その事実だけで、意識がものすごい勢いで遠のいていった。
私は前世でも、よく似た働き方をしていた。朝から深夜まで働き続け、最後は過労で倒れて、そのままこの世界へ転生した。今度こそまともに生きようと思っていたはずなのに、家の事情で王宮財務局へ入り、仕事ができると言われるたびに案件を引き受けた。
誰かに説明するより、自分でやった方が早い。困っている人から頼まれれば断れない。その繰り返しで、二度目の人生でも前世とほとんど同じことをしていた。転生した意味について考えようとしたところで、意識が完全に落ちた。
次に目を開けた時、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。頭が妙に軽い。身体はまだ重かったが、頭の奥に何年も張り付いていた靄が、少し薄くなっている気がする。
寝台の脇を見ると、セヴランが椅子に座っていた。いつからそこにいたのか分からないが、昨日よりずっと険しい顔をしている。
「おはようございます。少し寝すぎましたか? 最近は三時間くらいだったので、久しぶりによく眠れた気がします」
「少しどころではない。お前は十七時間寝ていた」
「…………十七時間!? そんなに何もしてなかったんですか!? 十七時間あれば、月次報告書なら三本は作れましたし、歳出集計もかなり進められたのに……!」
「そこを悔しがるな!! 昨日、俺はお前に仕事を禁止したばかりだろう!」
寝台から降りようとした私の肩を、セヴランが押し戻した。乱暴ではないが、有無を言わせない力だった。そこでようやく、彼の表情から呆れが消えていることに気づく。
「それに今、三時間と言ったな。昨日だけの話じゃないのか?」
「最近はそれくらいですね。繁忙期なので。でも毎日ではありませんよ。四時間くらい眠れる日もあります」
「……最近とは、どれくらいだ」
「五か月くらいでしょうか」
セヴランの顔色が明らかに変わった。返事が途切れたので、何かおかしなことを言ったかと首を傾げる。
「食事はどうしていた。まさか、それもまともに取っていないんじゃないだろうな」
「食べていますよ。ただ、忙しい日は昼を抜くこともあります。机でパンを齧れば済みますし、それほど困りません」
セヴランは何も言わなかった。さっきまでなら呆れて怒鳴っていたはずなのに、今度は逆に静かすぎて少し怖い。
「今、俺はものすごく嫌な予感がしている」
「大げさですよ。私は元気です」
「その言葉が一番信用できなくなった!」
しばらくして呼ばれた老医師は、私の脈を取り、顔色を見て、食事や睡眠について細かく質問した。診察が進むほどセヴランは黙り込み、最後には腕を組んだまま一度も口を挟まなくなった。
「慢性的な睡眠不足と栄養不足ですな。昨日今日始まったものではありません。身体がかなり無理をしています。このまま続ければ、遠からず倒れていたでしょう。場合によっては命にも関わります」
「…………命に関わる?」
「はい。最低でも一か月は仕事から離し、まず睡眠と食事を戻してください」
医師がそう言い残して帰ったあとも、部屋には長い沈黙が残った。セヴランは窓辺に立ったまま、しばらく動かなかった。怒っているというより、今まで別々だった何かが頭の中で繋がり始めているように見える。
「殿下?」
「……朝、よく会ったな。王宮の東棟へ続く回廊だ。俺が早く登城すると、何度もお前がいた。財務局は西棟なのに、なぜお前があそこまで来るのか分からなかったから……俺は、あれを運命だと思っていた」
「ああ。夜明け前でもお湯が使える給湯室が東棟にしかないんです。徹夜した日は、お茶を淹れに行っていました」
セヴランがゆっくりこちらを見た。
「…………徹夜?」
「はい?」
「では、夜会が終わったあとに何度も会ったのも……俺と会うために残っていたわけではなく」
「残業です。夜会中は執務室の出入りが少なくて、溜まった決裁書類を片づけるのにちょうどいいので」
セヴランが両手で顔を覆った。
「全部残業だったのか……!? 俺が何年も運命だと思っていたもの、全部お前の残業だったのか!?」
「運命については分かりませんけど、王宮にいた理由ならだいたい仕事ですね」
「今それを冷静に訂正するな!!」
叫んだあと、セヴランは急に静かになった。顔を覆ったまましばらく動かず、やがて手を下ろした時には、笑いも怒りも消えていた。
「……俺は、お前を見ていたつもりだった。朝にも会った。夜にも会った。ぼんやり俺を見ることもあった。俺はそれを、俺に向けられた何かだと思っていた。でも違った。見ていたんじゃない。自分が見たいものだけ見ていたんだな」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「殿下が気づかなくても仕方ないですよ。殿下が私を見かけるのなんて、せいぜい廊下ですれ違った時くらいでしょうし。繁忙期なら皆さん残業しますから」
「……まだ普通だと思っているのか」
「忙しい時期なら、それくらいはあると思います。食事だって毎回抜いていたわけではありませんし、仕事が落ち着けば睡眠も戻ります」
セヴランは一度目を閉じ、大きく息を吐いた。怒鳴るのを堪えているのがはっきり分かる。
「医師に命に関わると言われた直後に、それを言えるお前の方が怖い。なぜ壊れるまで引き受ける。なぜ休むことに理由が要る。どうして自分の身体より書類を先にする」
「私がやった方が早いからです」
「早ければ死んでもいいのか!!」
部屋に怒声が響いた。思わず肩をすくめると、セヴラン自身もはっとしたように口を閉じる。
「…………すまない。お前を怒鳴りたいわけじゃない。ただ今、誰から順番に怒ればいいのか、本気で分からなくなっている」
「まず私では?」
「候補には入っている!」
少しだけ可笑しかった。
その日の昼、温かいスープと焼き立てのパン、香草を使った白身魚が運ばれてきた。いつもは仕事机で冷えたパンを齧る程度なので、料理が冷める前に食べられること自体が新鮮だった。書類を読みながらではないせいか、魚に香草の香りがついていることにも、野菜が甘いことにも気づく。
午後には侍女が柔らかな室内着を何着も持ってきた。仕事用のかっちりしたドレスは一着もない。
「外へ出す時の服も俺が用意する。お前が選ぶ必要はない」
「朝に服を決める時間までなくなるんですね! 毎日五分くらい使っていたので助かります」
セヴランはしばらく私を見つめたあと、疲れ切った顔で額を押さえた。
「俺は昨日まで、お前の自由を奪って俺だけを見させるために、これをやっていたんだぞ。今はあの職場へ返したら本当に死にそうだから余計に返したくない。それなのに、なぜ条件を追加するたびに喜ぶんだ」
「待遇がいいので」
「頼むから監禁を待遇で評価するな……!」
監禁した側が、監禁された側より明らかに疲れていた。
三日目の午後、廊下から聞き慣れた声が響いた。
「アニエス様! 一度だけでいい、話を聞いてください! 国境守備費の処理が止まっています!」
財務局長の声だった。私は反射的に寝台から立ち上がったが、扉へ向かおうとしたところでセヴランに腕を掴まれた。
「国境守備費なら急ぎです。私にしか分からない処理なら、せめて説明だけでもしてきます」
「医師に一か月休めと言われた翌日に、もう仕事へ戻るつもりか!?」
「でも、本当に私にしか分からないなら放っておけません!」
「だから、それを今から直させると言っている!」
セヴランは私を背後へ下がらせ、自分で扉を開けた。廊下には大量の書類を抱えた財務局長と数人の職員が立っている。
「殿下、ご無礼は承知しております。しかしアニエス様にしか分からない処理が多く、このままでは決算そのものが遅れかねません。ほんの一時間だけでも、お力を借りられれば」
セヴランは局長をしばらく見たあと、低い声で言った。
「まだ働かせるのか。こいつが倒れるまで仕事を積んで、それでもまだ足りないのか?」
「……そこまでとは、我々も。本人もいつも大丈夫だと……」
「大丈夫ではない!!」
一瞬だけ怒声が廊下に響いた。青ざめる局長を前に、セヴランは一度息を吐き、今度は声を落とした。
「こいつは三時間しか寝ず、昼食まで抜いて、それでも『普通だ』と言う。本人が大丈夫と言ったから使い続けました、で済ませるな。もっとも、こいつ自身にも問題はある。頼まれれば全部抱え、自分でやった方が早いと言って仕事を手放さない。だから誰か一人だけを悪者にする気はない」
そこでセヴランは一歩だけ前へ出た。
「人を増やせ。引き継げ。必要な予算は俺からも父上に掛け合う。だが、こいつを連れ戻す理由には二度とするな」
財務局長は深く頭を下げ、職員たちを連れて引き返していった。扉が閉まると、私は少し居心地が悪くなって俯く。
「私にも責任があります。説明するより自分でやった方が早いと思って、引き継ぎを後回しにしていましたから」
「分かっている。お前にも問題はある。頼まれたものを全部引き受けて、自分が潰れる可能性を一度も数えなかった」
否定されると思っていたので、思わず顔を上げた。
「だが、お前が悪いから好きに壊れろとは言わない。むしろ今は、好きに壊れようとするお前を誰が止めるんだと思っている」
胸の奥が妙に詰まった。
前世でも今世でも、仕事ができると言われた後には必ず新しい仕事が来た。君ならできる。君なら早い。そう言われることが、自分の価値の証明だと思っていた。できるからといって、やらなくていい。そんな考え方は、自分の中にはなかった。
「……なぜ泣いている」
「泣いてません。たぶん、まだ疲れているだけです」
「そうか。なら今日はもう何もしなくていい。飯を食べて、眠ければ寝ろ」
乱暴な言い方なのに、不思議と嫌ではなかった。
それからしばらく、本当に何も起こらない日が続いた。朝起きれば温かい食事があり、庭を眺めたり、本を読んだり、侍女と話したりして過ごす。眠くなれば昼でも寝たし、王宮から仕事の連絡は一件も来なかった。
最初の数日は、何もしないことに落ち着かなかった。一週間ほど経つ頃には、朝目覚めた瞬間に今日の締切を数えなくてもいいことに気づいた。そのうち、起き上がる前にもう少し寝ようかな、と考えられる日まで出てきた。
そして、その頃にはもう一つ変な癖がついていた。夕方になると、扉を見る。
セヴランは毎日ほとんど同じ時刻に顔を出した。果物を持ってきたり、読みたいと言った本を抱えていたり、何も持たずに来てただ私が食事を取ったか確認したりする。
その日は、いつもの時刻を過ぎても来なかった。本を開いているのに同じ行を三度読み、侍女が茶を足してくれても、何となく廊下の方が気になる。
「今日は殿下、遅いですね」
口にしてから、自分で少し驚いた。別に来なくても困ることはない。食事は出る。本もある。寝台もある。仕事の連絡も来ない。それなのに、扉が開いたのはそれから一時間ほど経った頃だった。
「すまない。会議が長引いた」
「今日は遅かったですね。いつも同じくらいの時間なので、何かあったのかと思いました」
言いながら、なぜ自分がこんなことを気にしていたのか分からなくなる。セヴランは少し目を見開いたあと、妙に嬉しそうな顔をした。
「……待っていたのか?」
「待っていたというほどではありません。ただ、少し気になっただけです」
その日のセヴランは、いつもよりかなり機嫌がよかった。私の方は、どうして扉ばかり見ていたのか、うまく説明できなかった。
数日後、セヴランが妙なことを聞いた。
「アニエス。お前は、この部屋が気に入ったのか」
「はい、とても。夜中に起こされませんし、温かい食事が出ますし、仕事の連絡も来ません。最近は朝十時まで眠っても誰にも怒られませんし、お風呂も広いです。何より、あの寝台が本当に素晴らしくて」
最初は少し嬉しそうだったセヴランの顔が、話を続けるほど曇っていった。
「……俺については、何かないのか」
「もちろん感謝しています。殿下が監禁してくださらなかったら、今も仕事をしていたと思います」
セヴランは無言になった。しばらくしてから、ものすごく複雑そうな顔で口を開く。
「俺は、お前を俺だけのものにするために閉じ込めたんだぞ。運命を認めさせるために仕事も王宮も全部取り上げた。それなのに、お前は俺より寝台の話をしている」
「でも、本当に寝心地がよくて……」
「俺より寝台の方が好きなのか!?」
「比較したことはありません」
「比較しろ!!」
とうとうセヴランが頭を抱えた。
「仕事には勝ったと思ったのに、今度は自分で用意した寝台が敵になるとは……!」
可哀想な気もしたが、寝台の寝心地が素晴らしいのは事実だった。
しばらくして、セヴランはゆっくり顔を上げた。さっきまでとは違い、声に妙な静けさがあった。
「……一つ聞く。もし明日から俺がここへ来なくなっても、お前はこの部屋にいたいか? 俺は来ない。でも食事は出る。寝台もそのままだ。仕事の連絡も来ない。お前が好きだと言った環境は、何一つ変わらない」
なぜそんなことを聞くのか分からなかった。少し考えてから、正直に答える。
「それなら……たぶん、ここにはいると思います。仕事は来ませんし、寝台もありますから」
「…………そうか」
セヴランは笑った。けれど、その笑い方が妙だった。
「殿下?」
「いや。よく分かった」
その日は、それ以上何も言わずに帰っていった。扉が閉まったあと、なぜか部屋が少し広く感じた。寝台も同じ。食事も同じ。仕事も来ない。それなのに、さっきまでより静かだった。
翌日の夕方、セヴランはいつもより口数が少なかった。窓辺に立ったまま長いこと庭を眺め、やがて腰から小さな鍵を外す。
「アニエス。今日で、この監禁は終わりにする」
「…………え? なぜですか?」
「昨日、分かったからだ」
セヴランは扉へ歩き、自分の手で鍵を差し込んだ。金属の小さな音がして、閉ざされていた扉がゆっくり開く。けれど彼は、すぐには扉の前を退かなかった。
「……開けたくない。今すぐ閉め直したい。お前があの廊下を歩いていったら、絶対に後悔する。財務局へ戻ると言われたら、たぶん俺はまたお前を閉じ込めたくなる」
「それなら、なぜ開けるんですか?」
「開けなければ分からないからだ」
セヴランは鍵を握りしめた。
「俺は運命だと思っていた。何度も会ったことも、目が合ったことも、全部そういう証拠だと思っていた。でも違った。俺が勝手に意味をつけていただけだった。それでも、お前が好きなのは変わらなかった」
胸の奥が強く鳴った。
「昨日、お前に聞いただろう。俺が来なくても、この部屋にいたいかと。お前は、いると言った。その時ようやく分かった。俺が欲しかったのは、この部屋に閉じ込められているお前じゃない。俺がいなくても成立する鳥籠なんて、何の意味もない」
セヴランは扉から一歩離れ、手の中の鍵を見下ろした。
「出ていってほしくない。俺を選んでほしい。でも、選ばせるために鍵をかけたままなのは違う。開けたくない。でも開ける。お前がここに残るなら、お前の意思で残れ」
それから、まっすぐ私を見る。
「お前がここにいる理由が、鍵しかないのは嫌なんだ」
この人は、私を自分だけのものにしたかった。嫌われても、憎まれても、そばに置ければいいと思っていた。それなのに、本当に閉じ込めてしまったら、それでは足りなくなったのだ。
「帰りたければ帰れ。財務局へ戻ることも止めない。人員は増やしたし、業務も分け始めている。ただ、以前と同じ働き方だけは許さない。それと、一つだけ覚えておけ」
セヴランは開いた扉の横で、静かに言った。
「お前の価値は、倒れるまで働けることではない」
胸の奥が痛くなった。
休む時には、いつも理由が必要だった。熱があるから。倒れたから。監禁されているから。ここに来てからは、監禁されているから休むしかない。そう思えば、自分を責めずに済んだ。
でも、扉はもう開いている。
「仕事へ戻るのか?」
セヴランは急かさなかった。私は廊下をしばらく見つめ、それから首を横に振った。
「今日は戻りません。明日も、その次の日も……お医者様に言われた一か月は、ちゃんと休んでみます。それから、ここにいたいです」
セヴランが固まった。
「鍵は開いているぞ。俺の命令でもないし、財務局へ戻ることだってできる。それでも残ると言っているのか?」
「はい。今度は私がそうしたいので」
セヴランはしばらく何も言わなかった。やがて片手で顔を覆い、深く息を吐く。
「……閉じ込めていた時より嬉しいのは、どういうことなんだ」
どうやら、また情緒が追いついていないらしい。
でも私には、昨日とは少し違う理由もあった。
「それに……昨日、殿下が帰ったあと、少し静かすぎました。寝台も食事も同じだったのに、何となくつまらなくて。今日も来るかな、と考えていました」
セヴランが完全に動かなくなった。
「殿下?」
「待て。今のは……俺に都合よく解釈していいのか?」
「どうでしょう」
「そこは分かれ!!」
怒鳴っているのに、顔は笑っていた。
やがてセヴランは一度大きく息を吐き、今度は真正面から私を見る。最初に監禁を宣言した時とは違い、そこにあったのは確信ではなく、少しの不安だった。
「もう一つ、今度こそ誤解できない言い方をする。俺はお前を愛している。運命だから愛しているんじゃない。朝に何度会ったからでも、夜に何度目が合ったからでもない。そんなものが全部俺の勘違いでも、それでもお前が好きだ。アニエス、俺の妻になってほしい」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。そして、過去の出来事がものすごい勢いで繋がっていく。
「……あれ、全部そういう意味だったんですか!? 二人きりの夕食も、『俺のそばに来い』も……?」
「そうだ! 夕食に誘ったらお前は三十枚の予算資料を持ってきたし、そばに来いと言ったら翌朝には人事異動案を提出した! 俺は朝も夜も会うから運命だと思い、お前は単に帰っていなかった。俺が誘えば仕事の話だと思い、閉じ込めれば福利厚生だと喜ぶ! ここまでくると、俺の恋愛が下手なのか、お前が鈍いのか分からなくなってきた!!」
「……両方では?」
「お前が言うな!!」
ようやく私も笑った。恋愛については、正直よく分からない。前世でもまともに経験する暇がなく、今世ではさらに仕事ばかりしていた。
それでも、閉じ込めたいとまで言った人が、自分から扉を開けてくれた。そのことの方が、どんな甘い言葉より胸に残っている。
「私は、たぶん普通の令嬢ほど恋愛が上手ではありません。仕事も完全には辞めたくないです。でも今度は、定時には帰って、休日にはちゃんと休んで、眠い時には昼寝もしたいです。それでもいいでしょうか」
「むしろそうしろ。俺が止めなければ、お前はまた倒れるまで働くだろう。仕事を続けることは止めないが、お前の『あと少しだけ』だけは今後一切信用しない」
「そこまで信用がないんですか……」
「三時間睡眠を五か月続けて『元気です』と言った女を、どう信用しろというんだ」
反論できなかった。
「では、その条件でもいいのでしたら……私も、殿下のそばにいたいです」
セヴランはすぐには動かなかった。しばらく私の顔を見たあと、ようやく恐る恐るというように手を取る。
「確認する。今のは、この部屋に住みたいという意味ではないな?」
「殿下と一緒にいたい、という意味です」
「…………本当に?」
「本当にです」
ようやく肩から力が抜けた。閉じ込めていた時には一度も見せなかった、安心したような顔だった。
私はそんな彼を見ながら、ふと一つだけ気になっていたことを思い出した。
「ところで殿下。婚約したあとも、この部屋は使っていいでしょうか」
「…………何に使う」
「昼寝です。この寝台、今まで使った中で一番よく眠れるので」
セヴランはしばらく何も言わなかった。
「……結局、そいつは残るのか」
「寝台ですか? はい! でも、もちろん殿下の方が好きですよ!」
セヴランの顔が止まった。
「……もう一度」
「殿下の方が好きです」
「よし」
今度は即答できた。セヴランが、ようやく笑った。
黄金の鳥籠に閉じ込められたはずだった。けれど結局、最初に扉を開けたのは監禁した本人で、開いた扉の前で出ていかないと決めたのは私だった。
その後、王宮財務局には人員が増え、私一人に集中していた仕事は少しずつ分散された。最初は自分以外の人間が処理しているだけで落ち着かなかったが、一日休んでも決算は止まらず、一週間休んでも王国は滅びなかった。
もっとも、セヴランのヤンデレが治ったわけではない。むしろ婚約後は、私の退勤時刻に関して以前よりずっと厳しくなった。
「今日は年度末なので、三十分だけ残ってもいいでしょうか」
以前なら当然のように深夜まで働いていた私がそう尋ねると、執務室まで迎えに来たセヴランは壁の時計を確認した。
「三十分だけだ。それ以上かかるなら明日へ回せ。三十分後にまだ席にいたら、今度は椅子ごと連れて帰る」
「椅子ごとですか!? さすがにそこまではしませんよ」
「お前の『さすがに』は一度も信用できたことがない。時間になったら帰れ。それだけ守れば椅子は置いていく」
周囲の同僚たちが笑っている。以前なら恥ずかしくて仕方なかっただろうが、今はそれほど嫌ではなかった。
三十分後、約束どおり私は自分で書類を閉じた。扉の外では、セヴランが待っていた。
監禁生活は終わった。扉にも、もう鍵はかかっていない。それでも私は今日も仕事を切り上げて、彼と一緒に帰る。
あの頃よりずっと自由になったはずなのに、今の方が彼のそばから逃げる気はなかった。




