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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

なたでここ

作者: 豊島谷春馬
掲載日:2026/04/28

なたでここ

 「うめえー。」家での食事終わり、必ずこれを食べるのが毎日の習慣だ。スプーンですくい、こぼれないように口に運ぶ。コリ、コリっと口の中で弾ける感触がたまらなかった。古びたマンションの一室でこれを食べることだけが唯一のストレス発散なのだ。「明日の分がないな。」うちのはこだわりの自家製だ。重い腰を起こし、押入れから材料を取り出して台所に向かった。「かったいなあ。」ズダンっ、鉈を振りかぶって真っ二つに割る。ツンとした匂いが鼻の奥を突いてきた。「これこれ、うわ。」思い切り振り過ぎてしまい、顔にまで飛沫が飛んでくる。それを手の甲で拭って作業を続けた。昔は包丁を使ってやっていたのだが、あれでは上手くいかなかった。取り出したジュースをボウルに移し砂糖を混ぜて味見をする。「うん、うまい。」出来栄えに満足して押入れの中に戻した。この中で発酵しなければ完成しないのだ。がさごそと材料の残りをゴミ袋に詰め込む。今のうちに掃除しておかないと、未来の自分が絶対に片付けをしないことはわかっていた。袋の口をしばって玄関前に置く。完成を心待ちにしながら風呂に入った。「ふう極楽、極楽。」とはいえ明日も仕事だ。「めんどくせえー。」身体をしっかりと洗って髪を乾かす。「太ってきたな。」体重計は自身の怠惰をひたすらにたたきつけてくる。タオルを首にかけたままリビングに戻り、冷えたビールを流し込んでから就寝した。

 「和美、起きなー。学校間に合わないよ。」「うーん。」いつもの声で起こされて渋々目を覚ます。「やばっ。」スマホで時間を確認すると、後二十分で家を出なければいけない時間になっていた。「何で起こしてくんなかったの。」「何回も起こしてたでしょ。」どたどたと階段をかけ降り、用意された食パンを口に詰め込み牛乳で流しこんだ。「やばい、やばい。」洗面台で急いで髪の準備に取り掛かる。「和美ー。もう開店の時間だから私行ってるからね。弁当は今日時間無かったから焼いたパン持ってって。」「はーい。」母は一昨年から自宅のガレージを改装してパン屋を営んでいた。何度か鏡の自分を見直して満足すると制服を着用し、玄関を出る前に母の所へ向かった。「行ってきます。」「気を付けなさいよ。」「和美ちゃん気を付けてね。」「あっ、小林さんおはようございます。」玄関を出て自転車にまたがって高校へ出発した。

 「和美ん家っていいよねえ。」「どうして?」「だって毎日焼きたてのパン食べられるじゃん。」昼休み、数人の友達とお喋りしながらお弁当を食べる。「いやいや、もうとっくに飽きてるし。お米のが好き。」「それでもねえ。」「だねー。」「えー。」そうは言ったものの、母のことを褒められているようで内心嬉しかった。食べなれたパンにガブリとかじりつく。「そういえば和美、委員会の集まりは?」「あっ、忘れてた。」集合時間はとうに過ぎているため急いで立ち上がった。その際、机に足をぶつけてしまい痛かったが、我慢して委員会の教室に走っていった。「はあー、疲れた。」今日も終業の鐘が鳴り、帰りのホームルームの時間になった。教師が何か喋っているが、ざわついていて聞き取りにくい。「連絡事項は特にないんですが、・・・あっそうだ。最近ここら辺で不審者情報が上がっています。予定のない者は真っ直ぐ帰宅、部活がある人も終わったらすぐに帰宅してください。」「えー、怖いね。」「だね。」「不審な人を見つけたらすぐに報告してください。じゃあまた明日。日直。」「起立、礼。」学校帰り、友達と近くのハンバーガー屋に寄って勉強をすることになった。「勉強つまんないなあ。もう受験生かー。」「本当嫌だ。」家か塾でやった方が間違いなく集中できるのだが、こういう時間がストレスの発散になっていた。「でもさ、まじで不審者って怖くない?」「それな。」「春は変な奴が増えるんだってよ。」「ちょっと分かるかも。」「はは。」「ほら、一応勉強なんだからちょっとでもやんないと。」「えー。あっそれよりさ。・・・」結局、英単語帳を机に置いてそのまま一時間以上話しただけで解散になった。「じゃねー。」「ばいばい。」友達といる時は何ともなかったが、一人で帰り道を進むのは流石に少し怖かった。ああいう話を聞いてしまうと背後から視線を向けられているような感覚になる。いつもより少し力を入れてペダルを漕いだ。家が見えてくると、ほっとして足の力を緩める。「ただいまー。」家に帰ってしまえば全くなんてこともなかった。「お帰り。」「お腹減った、ご飯は?」「まだしばらくかかるよ。」「えー。」仕方なく部屋に戻って制服をハンガーにかけ直し、さっきの時間を取り戻すべく机に座って勉強を始めた。一人で私の面倒を見てくれている母のためにも何とか国立に行って学費の負担を減らしてあげたいのだ。「和美、ご飯できたよ。」「はーい。ちょっと待って。」問題の答え合わせに一区切りつけてから食卓へと向かった。そうしてお腹一杯ご飯を食べ、すぐに風呂に入ると、再び机に戻って勉強してから眠りについた。

 「おはよう。」「あら、今日は早いわね。」「昨日早めに寝たからね。」寝ぼけ眼を擦りながら洗面台に向かう。顔を洗えばすぐに目は冷めた。「じゃあ、先行ってるからねー。弁当はテーブルに置いといたよー。」「はいはい。」ソファにドカッと寝転がりスマホをいじる。「うわっ。」早めに起きて余裕をこいていたら、いつの間にかぎりぎりの時間になってしまった。今日も急いで用意をして母の元へ顔を出す。「お母さん行ってきます。」「・・・あの人、今日もあそこにいるわね。」「気を付けなきゃ駄目よ。橋本さんも和美ちゃんも可愛いんだから。」「何かしてきたら警察呼ぼうかしら。」「それじゃ遅いわよ。」母は何やら小林さんと会話をしていた。「どうかしたの?」「あら、おはよう和美ちゃん。」「おはようございます。」「あそこの公園のベンチからここをずーっと見てくるおじさんがいるの。危なそうだから絶対、近づかないでね。」「あの公園桜が咲いてて綺麗なのにねえ、あんなのがいたら近づけないわ。」言われた方向に目をやると、キャップを被った小太りのおじさんがまじまじとこちらを見つめているのが分かった。昨日の話も相まって背筋がゾッとする。「まあ、いつも気がついたらいなくなってるから、大丈夫だと思うけどね。ただあそこのベンチで休んでるだけの人かもだし。ほら、学校遅れるから行ってきなさい。」「うん、行ってきます。」玄関を開けて自転車に乗ろうとした時、つい好奇心で公園の方に視線を向けてしまった。ベンチに座るおじさんは視線が合うとにっこりと笑いかけてきた。「うわっ。」バッと目を背けて全力で学校へと向かった。「まじ怖ー。」「本当怖い。」昼休み、朝の出来事を友達に語る。「それ昨日先生が言ってた不審者じゃない?」「・・・だよね。」「本当気を付けなよ。」「うん、しばらく学校終わったらすぐ帰るつもり。」「それがいいかもね。警察には?」「まだ言ってない。でも言った方がいいよね。」「うん、絶対そうしな。」「そういえば、次の教室どこだっけ。」「あー、今日教室じゃないんだったね。えっと、あ、視聴覚室だ。」チャイムが鳴って昼休みが終わり、次の教室へ足を運んだ。数時間後、「起立、礼。」前に向かって適当に頭を下げる。学校が終わるとすぐ友達と一緒に帰宅した。なるべく人通りの多そうな道を選んで進んだ。「じゃーね。」「和美、気を付けて帰ってね。」「うん。」辺りを警戒しながら自転車を漕いでいく。信号で停止している時間すら少し嫌だった。何とか家にたどり着いて朝の公園を恐る恐る覗いてみたが、もうベンチには誰もいなかった。 

 「・・・今日もいるわね。」「橋本さん、もう警察に連絡しましょうよ。何もしてないっていったって流石に不気味だわ、あんなの。」「お母さん、私も怖いから。」「うーん、でもねえ、こっち見てるかもってだけで何もしてない人を通報するってのもねえ。」「じゃあ、僕が直接伝えてきましょうか?」「あっ、斉藤さん。」「自分男ですし。話してみれば分かってくれるかもしれないですよ。」「いやでも危ないです。」「大丈夫。こう見えても中学まで空手やってたんですよ。それに和美ちゃんも怖がってる。」そう言って斉藤さんはシャドーボクシングのような動きを取る。「斉藤さんビシっと言ってきてね。」小林さんも同調したように話した。「ええ、じゃあちょっと行ってきます。」「あっ、ちょっと。」「いいじゃないの、橋本さん。私だって毎日いられていい気分じゃないのよ。」その場の全員で斉藤さんの様子を見守った。斉藤さんはおじさんの横にドカッと座ると、気さくに何か話しかけ始めた。「・・・凄いわね。」「聞いた話じゃ、斉藤さん大手の営業マンやってるのよ。まあ見るからに優秀そうだしねえ。いい腕時計もしてるし。」「へー、そうなんですか。」改めて視線を向けると、斉藤さんはおじさんと随分親しげに会話をしていた。「誰から聞いたんです?」母は苦笑しながら小林さんに尋ねた。「本人からね。ちょっと前からよく来るようになったじゃない?パン買った後にバス停で待ってたらばったり会っちゃってね。そこで話したの。」「そうだったんですね。あっ帰ってきた。どうでした?」「いやあ、話してみれば案外物分かりのいい人でした。何となく日課であの公園に座ってただけなんですって。怖がってるって伝えたら今度から別の所に行くって言ってくれました、良かったですね。」「すいません。本当にありがとうございます。」「いえいえ、僕はこのパン屋さんのファンですから。頑張ってください。じゃあ、いつものサンドイッチを。」「はい。」母は少し上ずった声で返事をした。ショーケースからサンドイッチを取り出して会計を済ませ、斉藤さんに手渡す。「楽しみだなあ。じゃあ和美ちゃん勉強頑張ってね。」「はい。」斉藤さんはにっこり笑うと、時計を確認しながら足早に出ていった。「いい男ねえ。」「・・・そうですね。」そう言った母の視線は入口のドアの方に釘付けだった。「和美、学校は?」「あっ。」時間を見たらもう十分も過ぎてしまっていた。「もういいや。」遅刻が確定したため諦めてゆっくり自転車を漕いで学校に向かった。

 コリっ、コリっ、「うーん、いまいちだな。やっぱりあんなのじゃもう駄目か。」仕入れてきた素材が悪く、がっかりする。「まあいいか。」これから最高級の素材が手に入る予定だ。とりあえず次の仕込みをする。ゴリっ、ゴリっ、鉈を入れているのに簡単には割れてくれなかった。「久しぶりにやると駄目だなあ。めんどくさい。」投げやりになりつつ思い切り力を込める。ダンっ、何とか刃が通り、中を確認した。「ああやっぱりか。」こういうものに限って中身は大したことが無いのだ。いつもと同じ工程を繰り返し、押入れにしまう。余った部分は部屋の隅で飼っている熱帯魚に与えた。二つの穴が空いた白い巣穴から続々と出てくる。「可愛いなあ。じゃあ、ちょっと行って来るね。」玄関に溜まったゴミ袋を抱えて外に出る。「よいしょ。」全て車のトランクに詰めこんでエンジンを吹かした。これから私有地の山に捨てに行くのだ。これは昔からいい肥料になった。どうせ他の車なんて通らないのだが、しっかりと左右を確認し、道路に車を進めていく。このマンションは私有地の山から最も近い場所にあるマンションであった。ほとんど人気がないのが少しさみしくもある。車の音楽プレーヤーで好きな曲をかけて鼻歌を口ずさんだ。目的地に到着し、後ろのトランクを開ける。「おもっ。」山道をしばらく登った所でゴミ袋の口を開けて捨てていった。「くっせえー。」流石にためすぎて腐ったのか匂いがきつい。車に戻って常備してある消臭剤を服に吹きかけた。「帰るか。」そう言って暗い夜道を引き返した。マンションに帰るとすぐに服を脱ぎ、風呂に入る。気分よく大声で歌を熱唱した。今このマンションには耳の遠い老人以外誰も住んでいるものはいないのだ。そのまま上機嫌で風呂を上がり、ウイスキーを少し嗜んでから横になった。

 「お母さん行ってきます。」夏休みが終わり木の葉も落ちてきたこの頃の季節は、肌だけじゃなく心までをも刺してくる。「ああ、行ってらっしゃい。」ここ最近は母の対応も少し冷たかった。一瞬こっちを見た母の唇は妙に艶っぽかった。とぼとぼと歩きながら自転車に手をかける。周りの生徒が本格的に勉強を始めている中、最近は勉強にあまり身が入っていなかった。「和美、最近どうしたの?」「うん?」「なんか最近元気なくない?」「コンビニ弁当ばっか食べてるじゃん。」「・・・最近お母さん忙しいんだよ。」「そうなんだ。繁忙期ってやつ?」「・・・まあ、そんな感じ。」「ふーん。」勉強を頑張っている友達に打ち明けようとは思えなかった。「今日も一緒に塾行く?」「行こー。」自習室に行っても寝ているかスマホをいじっているだけだ。だが、別にそれでも良かった。「ただいま。」塾が終わり、九時過ぎに家に帰る。「お帰り。」「お帰り和美ちゃん。今日も勉強お疲れ。」最近はいつも斉藤さんが家にいた。「和美ちゃん、自分の行きたい大学に行きなよ。国立でも私立でもさ。お金の心配ならいらないから。」斉藤さんは笑みを交えながら言う。「・・・ありがとうございます。」自分に向けてくるこの貼り付けたような笑顔が苦手だった。「和美ー、ご飯キッチンに置いてあるからチンして食べてね。」「・・・はーい。」電子レンジでご飯とおかずを温めると、トレイに乗せて部屋に戻る。机の上の参考書やノートを強引に払いのけてご飯を食べ始めた。温めたはずなのだが、料理は微妙にぬるかった。「うわー、かわいい。」「本当ですね。」食器を洗いにリビングに戻ると、二人はお酒を飲みながらテレビで猫の動画を見ていた。「茂人さん、今夜・・・」「ええ。」「あっ、和美。」黙って食器を洗って風呂に入り、再び部屋に籠る。思春期の娘がいるというのに平気であんなことをしている母に吐き気がした。「はあ。」ベッドに寝そべり、気を紛らわすためだけに短尺動画を見て今日も夜更かしした。勉強机は、今はもうただの物置になっていた。

 「・・・ただいま。」玄関のドアをそっと開けて家に入る。いつもなら母の声と不快な声が返ってくるはずなのだが、今日は一切聞こえなかった。「・・・お母さん?」リビングに行ってもそこには人がいるような空気は感じられなかった。「斉藤さんと出掛けてるのかな。」そう呟いて積まれたお菓子をいくつか手に取り部屋のドアを足で開ける。ベッドに寝そべってお菓子を食べながらスマホをいじり始めた。それから数時間が経っても、母は一向に帰ってくる気配がない。「今どこにいるの?」流石に心配になって連絡を入れた。そもそも母がいない日は珍しかった。どこかに出掛ける時は大体連絡を入れてくれるというのに。その時、外から微かに車の音がするのが分かった。「帰ってきた。」どたどたと階段を降りてリビングで待機する。ガチャ、ガチャと二つのドアロックが解錠されて玄関が開かれる。「おかえり。遅いよ。」「和美ちゃん、ただいま。」帰ってきたのは斉藤さんただ一人だった。「和美ちゃんからおかえりって言ってくれるなんて珍しいね。」「・・・お母さんがまだ帰って来てないんだけど、斉藤さんと一緒じゃないの?」「いや?今日は普通に仕事に行ってただけだよ。玲子さんは家にいるって言ってた気がするけどな。連絡は入れた?」「さっきいれた。」「そう、じゃあもう少し連絡があるかどうか待ってみよう。」チッチッチッ、時計の秒針が嫌に大きく聞こえる。スマホを握り締め、リビングのソファに座ってただただ母の帰りを待った。「そんなに気を張っていたら大変だよ。今コーヒー淹れたから飲みな。ミルク入れるよね?」「・・・お願いします。」斉藤さんはそれを聞くとカチャカチャと音を立ててコーヒーを持ってきてくれた。「いただきます。」フーフーしてから口に含んだが、不安からか全く味がしなかった。数時間後、大きく聞こえていた秒針は最早聞こえなくなってきていた。「どうしちゃったのかなあ。」斉藤さんは怪訝そうに首を傾げる。気を張っていたからか、上体を起こしているのがきつくなり、ソファの上に寝っ転がっていた。その時、ピンポーン、家のインターホンが鳴った。「玲子さんかな?」斉藤さんは玄関へと向かう。母が帰って来る時、インターホンを押したことがないのは気になったが、眠気からか伝える気にはなれなかった。ガチャっ、斉藤さんがドアを開ける。「・・・まだ早いよ。」「まだか。待ちきれないぞ。」斉藤さんが何か話している声が聞こえてきたが、それと同時に瞼は重く閉じてしまった。

 鼻の奥がツンとするような強烈な匂いがして目を覚ました。「おはよう。よく寝てたね。」にっこりと笑いかけてきたのはあの公園のおじさんだった。反射的に後ろに下がろうとしたが、上手く動けないことに気が付く。それに、声を出そうとしても口に何かを挟まれていて喋ることもできなかった。うめき声を上げながらばたばたと身体を動かすもびくともしない。「そんなに暴れないでよ。怖くないから。」口は塞がれ、手足は結束バンドで固く結ばれていた。あの時のインターホンはこいつが押したのか、だとしたら斉藤さんは?手足に思い切り力を込めながら考える。とりあえず今はこいつから逃げなければ。心臓はけたたましく鳴っている。その時、ドアノブを捻る音が聞こえてきた。トン、トンと廊下を歩く音がよく響く。「うぇっ。」思わずそう漏れた。「あれ、和美ちゃんもう起きちゃったんだ。」扉を開けて入ってきたのは斉藤さんだった。「父さん、暴れちゃってるじゃない。怖がらせたら駄目だよ。」「いやあ楽しみでな。」呼吸がどんどん荒くなってきた。「和美ちゃん、お腹空いてるでしょ。丸一日寝てたんだからね。特別に自家製のデザートを振る舞ってあげるよ。」そう言って押入れを開けると今までとは比べ物にならない異臭が漂ってきた。押し入れの奥にちらりと見覚えのある服が目に入った気がしたが、あまりの匂いに嗚咽が止まらず意識の外に行ってしまった。「はい、どうぞ。」凄まじい匂いを放つそれはパッと見ただけでは何か分からなかった。「ああ、ごめん。口を縛ったままじゃ食べられないよね。」斉藤は首の後ろに手を回し、口の拘束を外した。「助けて、助けて。」食欲なんて湧いているはずもなく、口が自由になった直後こぼれたのは命乞いの言葉だった。「それは無理なんだ、ごめんね。ほら食べな。」斉藤はスプーンで掬って私の口に運んできた。明らかに得体の知れないため口を固く閉ざして食べるのを拒んだ。それでもスプーンを無理やり押し込まれたが、しばらく格闘していたらそれは床に落ちた。「何だよ、食べないの?勿体ない。父さん、食べる?」「いいのか。」男はうきうきと台所に向かってスプーンを持ってくるとコリっ、コリっと音を立てて美味しそうに食べ始めた。「・・・これは、何?」「えっ分かんないの?全く薄情な子だなあ。」斉藤は面倒くさそうに立ち上がり、押入れから服を引っ張り出してきた。それを見た瞬間、あまりの衝撃に声は出てこなかった。情報が上手く飲み込めない。あれはお母さんの?訳が分からな過ぎて頭が混乱する。涙が勝手に頬を伝って床に落ちていた。「父さん、うまい?」「めちゃくちゃうまいな。」斉藤は視線をこちら側に戻した。「実はさ、僕らもうある程度の味は飽きちゃったんだ。ものによってはあんまり入ってないからね。」過呼吸でもう何と言っているのかは分からない。殺される、その恐怖が完全に頭を支配していた。視界は霞んでもうよく見えない。「この間、当たりを引いたんだ。大変だったけどね。」結束バンドは未だに固く結ばれてびくともしない。力を籠めすぎたのか手首が痛かった。「あれが美味しくってね。ねえ。」「ああ、あれは美味かった。」「でも、父さんがもう少し慎重に動いてくれればなあ。」「すまん。我慢できなくて。」斉藤は一瞬下を向いてため息を吐く。「まあいいけど、そんな折なんだ。君たちを見つけたのは。パンが本当に美味しくて。これを作る人は、これを作る人が手塩に掛けたのはまず間違いないだろうってさ。」斉藤は興奮気味に語ってくる。こちらを見つめてくる二人の目は、ご馳走を見つめる子供のように純粋だった。「まあ、そんな訳で楽しみにしてるね。」誰か、誰でもいいから、もう助けを祈るしかなかった。「食感が近いから僕たちはこれを・・・、そうだ、ちょっと待ってて。」斉藤は小走りで玄関に向かうと靴箱のところを物色し、頭の割れた髑髏を手に持ってきた。鉈を軽く振ってジェスチャーをしている。「鉈でここを思いっきりやるのが肝心なんだ。・・・はっはっはっ。傑作でしょ。」「はっはっはっ。」二人の爆笑だけが静かな一室にこだましていた。「じゃあ、そろそろ。」「そうだな。楽しみだ。」「・・・けて。」声はかすれてほとんど出てこない。「大丈夫。痛いのは一瞬だからさ。きっとね。」振りかぶられた鉈を目に映したのを最後に、痛みと共に意識は完全に途絶えた。それから数日後、パン屋が何日も営業していないことに疑問を持った常連の小林さんによって事件は明るみに出た。二人の住む部屋、私有地の山からは大量の人骨が発見されたという。二人は勿論死刑判決を下されたが、未だ執行されていない。



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― 新着の感想 ―
…ああ。ダジャレか。 一行に千字を超える文章には誤字報告ができません。 なので送信できなかった箇所を一応、以下に列挙します。ご自由にどうぞ。 〉「斉藤さんビシっと行ってきてね。」 ~『言』っ…
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