仕立てとしか呼ばれない私を、辺境伯だけが3年探していました
「おい、仕立て。辺境伯の婚礼衣装、お前がやれ」
工房長ギルベルトは、仕立て台から顔も上げずにそう言った。
リーネ・ヴェーバーは針を止めた。止めはしたが、驚きはしなかった。上級仕立て官が3人続けて辞退した仕事だ。4番目に回ってくる場所に、いつもリーネがいる。
「承知しました」
「返事が早いな」
「断る理由がありません。仕事ですので」
名前で呼ばれなくなって、2年になる。工房では「おい、仕立て」で通っている。最初は訂正していた。「リーネです」と。返ってきたのは「どっちでもいい」だった。それ以来、訂正をやめた。針を持つ手のほうが大事だ。
隣の仕立て台のメルダが小声で囁いた。
「辺境伯ヴォルフって、前の仕立て官が泣いて帰ってきたって聞いたわよ」
「泣く理由は?」
「注文通りに仕立てたのに、『違う』としか言わないんだって。何が違うかも教えないの」
「注文書は丁寧でした。怖い方の注文書は丁寧ではありません」
メルダが首を傾げた。リーネにとってはそれが全てだった。
注文書には婚礼衣装一式。生地、裏地、ボタンの数、襟の高さ、袖口の折り返し幅。ただ、花嫁の衣装が含まれていなかった。
「メルダ。花嫁の衣装がありません」
「別の工房じゃない? ねえ、本当に受けるの?」
「仕事ですので」
「それしか言わないのね、あなた」
「それしか言う必要がありません」
◇
翌日。採寸のために、辺境伯が工房を訪れた。
背の高い男だった。黒髪、灰色の目。表情が動かない。リーネの第一印象は――衣装映えする肩幅だな、だった。完全に職業病だ。
従者のカールが一歩後ろに控えている。
「本日採寸を担当いたします、リーネ・ヴェーバーと申しま――」
言葉が途中で止まった。
辺境伯の右袖口に、ほつれが3か所。左袖のボタン糸が1か所緩んでいる。裏地の縫い代が、わずかに表に響いている。
リーネの視線がそこに吸い込まれた。
「……失礼いたしました。ヴェーバーです」
辺境伯が片眉を上げた。
「今、私の袖を見たな」
「……はい。職業病でございます」
「何が見えた」
「ほつれが3か所、ボタン糸の緩みが1か所、裏地の縫い代が表に響いております」
辺境伯は自分の袖口を見下ろした。何の変哲もない袖にしか見えない。
「……挨拶を中断してまで見るものか」
「見えてしまいます。採寸の前に補修させていただけますか」
「好きにしろ」
リーネは即座に針と糸を取り出した。挨拶より先に。採寸より先に。他人の袖口のほつれが、どうしても許せない。
カールが扉の横で小さく笑った。
補修を終え、採寸に入った。
リーネは採寸紐を辺境伯の胸に回した。
「呼吸を止めてください」
「……なぜだ」
「胸囲が変わります。息を吸った状態と吐いた状態で最大3センチの差が出ますので」
辺境伯は無言で息を止めた。
リーネの指先が辺境伯の背に触れた。温かかった。――体温が高い。冬物は裏地を1枚減らせる。
「結構です」
辺境伯は動かなかった。5秒。10秒。
「……閣下」
リーネは念のため確認した。
「息をしておいでですか」
「合図がなかった」
「今が合図です」
カールが扉の横でもう声を殺しきれずに笑った。
次は袖丈を測る。辺境伯の腕を持ち上げ、肩口から手首までの距離を取った。
「その前に聞きたい」
「はい」
「呼吸を止めろと言った仕立て官は初めてだ」
「正確な仕事には必要です」
「前の3人は言わなかった」
「前の3人は辞退されたと伺いましたが」
「辞退ではない。私が断った。手が雑だった」
仕立て官にとって、「手が雑」は最も重い言葉だ。リーネは黙って次の寸法を記録した。
「閣下の注文書を拝見しました。細かいのではなく、丁寧な方だと思いました」
辺境伯は何も答えなかった。
◇
3日後。カールが工房を訪れた。
「閣下が仕立ての過程を見たいそうです。明日から工房にお邪魔してもよろしいですか」
10年の職歴で初めての依頼だった。
「……どうぞ」
翌日から、辺境伯は工房の隅の椅子に座った。黙って、リーネが生地を裁ち、針を運び、縫い合わせる姿を見ていた。一言も発さない。邪魔もしない。
2日目。ギルベルトが工房に入ってきた。
「おい、仕立て。3番の糸を棚から出せ」
リーネは針を置き、立ち上がった。
「承知しました」
ギルベルトが去ったあと、辺境伯が初めて口を開いた。
「名前で呼ばれないのか」
リーネの手が一瞬止まった。再び動いた。
「工房では役職で呼ぶのが通例です」
嘘だった。上級仕立て官は名前で呼ばれている。リーネだけが「おい、仕立て」だった。
辺境伯はそれ以上何も言わなかった。
3日目。リーネが裏地の始末をしているとき、辺境伯が聞いた。
「仕立て直しは利くのか」
「裏地を解けば。ただ、最初の針穴は消えません」
「……消えないのか」
「布についた穴は埋まりません。一度入った針の跡は、ずっと残ります」
辺境伯は黙った。リーネは針を運び続けた。
しばらくして、辺境伯がまた聞いた。
「右の肩と左の肩は同じ高さか」
「人体は完全に左右対称ではありません。閣下の右肩は左より3ミリ高いです」
辺境伯が自分の肩を見た。
「……3ミリ」
「仕立て官には見えます」
「目で見て分かるものなのか」
「一度会っただけの人間の肩の差が3ミリ単位で分かるのか」
「職業病です」
カールが咳払いをした。
「閣下、仕立て官殿はお仕事中です。質問はあと10個ほど控えていただけますか」
「10個もない」
「もう7つは聞いていらっしゃいます」
「数えていたのか」
「従者ですので」
辺境伯は口を閉じた。リーネの口の端が、ほんの少し上がった。
夕刻、仕立て台の脇に湯呑みがあった。冷めていた。いつ置かれたのかも分からない。
カールが帰り際に言った。
「閣下が入れたものです。お声をかけるタイミングが分からなかったようで」
リーネは冷めた茶を飲んだ。少しだけ、甘かった。
◇
仮縫いの日。
リーネは仮縫いの衣装を辺境伯に着せた。肩の位置を確認し、背中の収まりを見て、丈にピンを打つ。肩口に手を当てたとき、至近距離で顎の線が見えた。――顎の角度は襟の高さに影響する。それだけだ。それだけのはずだ。
「ここの縫い代ですが、お体が変わられた場合の余裕を持たせますか」
「変わらない」
「お食事の量や訓練の頻度が――」
「変わらない」
2度、同じ声で断定された。灰色の目は本気だった。
「……かしこまりました。縫い代は最小で」
リーネが記録帳に『体型変化の余裕:不要(本人強固に主張)』と書いたのを、カールが覗き込んで盛大に噴き出した。
「閣下、『強固に主張』だそうです」
「事実を書いた」とリーネが言った。
「事実だ」と辺境伯も言った。
カールだけが笑っていた。
「お二人とも真顔で同じことを言うのが一番面白いのですが」
「面白くはない」
リーネと辺境伯が同時に言った。
カールはもう駄目だった。
仮縫いの合間に、辺境伯の普段着の上着を預かった。ボタンの付け直しだ。
裏地を開いて、リーネの手が止まった。
袖口の裏に、補修の跡があった。素人の手だ。糸の色が合っていない。針目が不揃いで、間隔もばらばらだ。
でも――丁寧だった。
一目ずつ、慎重に、失敗したら解いてやり直した痕跡がある。何度も。何度も。
この人は、自分のほつれを、自分で繕っていた。誰にも頼まずに。
リーネは裏地をそっと戻した。何も言わなかった。
針を持つ左手だけが、少し震えた。
◇
本縫いに入った朝。ギルベルトが工房に来た。辺境伯はまだ来ていない。
「おい、仕立て」
白い絹の衣装を仕立て台に投げてよこした。
「辺境伯の前の婚約者の衣装が見つかった。寸法を直せばいける。新しく縫うな、時間の無駄だ」
見事な刺繍。上級仕立て官の手だ。リーネは広げて確認した。技術は確かだ。裏地の処理も美しい。
「承知しまし――」
足音がした。
振り返ると、辺境伯が入口に立っていた。いつから聞いていたのか分からない。灰色の目が、ギルベルトの背中を見ていた。
ギルベルトが辺境伯に気づき、慌てて姿勢を正した。
「辺境伯閣下。本日もお越しいただき――」
「仕立て官の名前は」
「は?」
「今、指示を出していた仕立て官の名前だ」
ギルベルトの口が開いて、閉じた。
リーネは息を吸った。
2年間、飲み込んできた言葉があった。針を持つ手のほうが大事だと思ってきた。仕事で証明すればいいと。名前などどうでもいいと。
でも。
「――リーネ・ヴェーバーです」
リーネは辺境伯に向かって名乗った。ギルベルトではなく。辺境伯に。
「この工房で2年、仕立て官をしております。閣下の婚礼衣装を担当しております」
ギルベルトの顔が強張った。工房の序列を飛び越えて、直接注文主に名乗る行為だ。
辺境伯はリーネを見た。3秒。
「リーネ・ヴェーバー。承知した」
それだけだった。声に温度はなかった。
リーネは白い衣装を見た。
――私の手で補正すれば使える。使えてしまう。新しく仕立てる必要はない。
この仕事が終われば、辺境伯と採寸紐を挟んで向かい合う日々も終わる。
「閣下。この衣装で補正が可能です。新しく仕立てるのと遜色のない仕上がりになります。工期も短縮できます」
辺境伯はリーネを見た。長い沈黙があった。
「仕立て官としての判断か」
「はい」
「それでいい。使え」
辺境伯は立ち上がった。出口に向かった。振り返らなかった。
扉が閉まった。
リーネは白い絹を見下ろした。正しい判断だった。正しくて、苦しい。
その日、辺境伯は工房に来なかった。
翌日も来なかった。
リーネは白い絹の衣装の補正に手をつけた。採寸紐を取り、肩幅を測った。手が、勝手にヴォルフの寸法を再現していた。――3ミリ、右が高い。
針を置いた。
3日目も来なかった。
椅子だけが、工房の隅に残っていた。
◇
4日目の朝。カールが現れた。
「閣下からの伝言です。花嫁の衣装を発注していた工房から、辞退がありました。花嫁が決まっていないと仕立てようがない、と」
リーネは眉を寄せた。花嫁が決まっていないのに婚礼衣装を?
扉が開いた。辺境伯が入ってきた。3日ぶりだった。
「前の衣装は処分する。使うな」
リーネの手が止まった。
「花嫁の衣装は新しく仕立てる。お前がやれ」
「……承知しました。花嫁のご寸法をいただけますか」
辺境伯は、リーネの手元の採寸紐を見た。
「目の前にいる」
リーネの脳が3秒止まった。
「……は」
「採寸は得意だろう。自分の寸法くらい分かるのではないか」
「――あの。閣下。それは」
カールが扉の横で声を上げて笑った。もう隠す気がない。
「閣下、仕立て官殿が壊れかけておりますが」
「黙れカール」
「記録いたしましょうか。『求婚:発注形式にて実施。相手方、機能停止中』」
「カール」
リーネは採寸紐を握ったまま、口を開いて閉じた。
「……閣下。前の衣装は使えと仰ったのでは」
「3日考えた。あの衣装の裏地はお前の針ではない」
リーネの呼吸が止まった。裏地の針。なぜこの人が、裏地の針の違いを――
「――まだ返事を聞いていない」
リーネは採寸紐を持ち直した。手が震えていたが、仕立て官の手は道具を離さない。
「……花嫁のご衣装、仕立てさせていただきます」
「自分の衣装だと理解しているか」
「――はい」
「名前を呼べ」
「……ヴォルフ、様」
「様はいらない」
「っ……ヴォルフ」
「もう一度」
「ヴォルフ」
辺境伯の目が細くなった。初めて見る顔だった。
◇
翌日。辺境伯が工房長のもとに現れた。
仕立て官たちが一斉に手を止めた。
「リーネ・ヴェーバーを専属仕立て官として迎える。本日付で」
ギルベルトの顔から血の気が引いた。
「せ、専属……?」
「私の婚約者だ。当然だろう」
工房が静まった。
メルダが信じられないという顔でギルベルトを見て、それから――小さく拍手した。
「嘘。リーネ、あなた辺境伯の婚約者?」
「……そうなりました」
「辞退した3人にも教えてあげなきゃ。あなたたちが断った仕事、リーネが受けて、婚約者になったわよって」
隣の仕立て台の老職人が呟いた。
「そういえば、あの子の名前、なんだったか」
「リーネよ。リーネ・ヴェーバー。――工房長、知ってましたか?」
ギルベルトは答えられなかった。
仕立て台の向こうで、若い仕立て官が手を挙げた。
「あの、工房長。私も名前で呼んでいただきたいのですが」
もう一人が続いた。
「私もです」
ギルベルトの顔が白くなった。リーネだけではなかった。下級の仕立て官を2年間、1人も名前で呼んでいなかった。
辺境伯がギルベルトを見下ろした。
「リーネが抜けた後、残りの仕事は回せるのか」
ギルベルトの口が震えた。回せない。面倒な仕事を全てリーネに回していた。裏地の仕上げ、急ぎの補修、難しい注文。名前も呼ばない仕立て官に、全部任せていた。
「で、ですが辺境伯閣下、彼女には今抱えている仕事が――」
「リーネが抱えている仕事の一覧を出せるか」
ギルベルトは答えられなかった。把握していなかった。
「二度と名前を間違えるな」
ギルベルトは何も言えなかった。
◇
すべてが終わったあと、リーネは採寸紐を手の中で巻いていた。巻いて、ほどいて、また巻いた。
「ヴォルフ」
「ああ」
「なぜ私だったのですか。4番目の仕立て官を指名する理由が分かりません」
ヴォルフは古い外套を持ってきた。灰色の生地が日に焼けて、裾はすり切れている。
「この外套、何年お召しですか」
「3年だ」
「仕立て直しを勧めます。裾がすり切れています」
「断る」
「……理由をお聞きしても」
「裏を見ろ」
リーネは裏地を開いた。
左袖の内側。見覚えのある針の運び。――自分の手だ。
「3年前の王都の式典で、外套の裾がほつれた」
記憶が戻ってきた。式典の合間に、壁際に掛けられた外套のほつれが目に入って――誰のものかも確認せず、直した。いつもの職業病だ。
「式典が終わって気づいた。裾のほつれが消えていた。裏を見たら、知らない針の跡があった」
ヴォルフの指が、リーネの縫った跡をなぞった。
「それから探した。この針を使う人間を。宮廷の仕立て官に衣装を頼んでは、裏地を確認した。一人ずつ」
リーネの呼吸が止まった。
「裏地の針の運びは一人一人違う。表からは見えない。だが癖がある」
ヴォルフがリーネを見た。灰色の目が、初めて揺れていた。
「上級仕立て官が3人辞退したのではない。私が断った。裏地が違ったからだ。最初から、お前を探していた」
3年間。
誰にも見えない裏地の針の跡を、この人だけが探していた。
「ヴォルフ――」
「前の上着の裏も見ただろう」
リーネは頷いた。素人の手で、丁寧に繕われた袖口。
「あれは私が縫った。お前の針の運びを真似ようとして、できなかった」
リーネの視界が滲んだ。真似ようとしていた。3年間、この人は――
「泣くな。採寸紐が濡れる」
リーネは笑った。泣きながら笑った。
「――それは困ります。濡れると伸びますので」
「知っている。正確な寸法が取れなくなる」
「……覚えていらしたんですか」
「全部覚えている。お前が言ったことは全部だ」
ヴォルフの手が、リーネの手の上に置かれた。採寸紐ごと、包むように。
「もうひとつ聞いていいか」
「……仕事ですか」
「仕事ではない」
「……はい」
「花嫁の衣装の採寸だが」
リーネは反射的に採寸紐を握り直した。職業病は治らない。
「呼吸は止めなくていいのか」
リーネの顔が、耳まで真っ赤になった。
「――それは自分で測ります」
カールの笑い声が、廊下の向こうから聞こえた。
リーネは採寸紐を握ったまま、ヴォルフの外套の裏地に目を落とした。3年前の自分の針の跡が、今もそこにあった。
一度も、仕立て直されていなかった。
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