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仕立てとしか呼ばれない私を、辺境伯だけが3年探していました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/02

「おい、仕立て。辺境伯の婚礼衣装、お前がやれ」


 工房長ギルベルトは、仕立て台から顔も上げずにそう言った。


 リーネ・ヴェーバーは針を止めた。止めはしたが、驚きはしなかった。上級仕立て官が3人続けて辞退した仕事だ。4番目に回ってくる場所に、いつもリーネがいる。


「承知しました」


「返事が早いな」


「断る理由がありません。仕事ですので」


 名前で呼ばれなくなって、2年になる。工房では「おい、仕立て」で通っている。最初は訂正していた。「リーネです」と。返ってきたのは「どっちでもいい」だった。それ以来、訂正をやめた。針を持つ手のほうが大事だ。


 隣の仕立て台のメルダが小声で囁いた。


「辺境伯ヴォルフって、前の仕立て官が泣いて帰ってきたって聞いたわよ」


「泣く理由は?」


「注文通りに仕立てたのに、『違う』としか言わないんだって。何が違うかも教えないの」


「注文書は丁寧でした。怖い方の注文書は丁寧ではありません」


 メルダが首を傾げた。リーネにとってはそれが全てだった。


 注文書には婚礼衣装一式。生地、裏地、ボタンの数、襟の高さ、袖口の折り返し幅。ただ、花嫁の衣装が含まれていなかった。


「メルダ。花嫁の衣装がありません」


「別の工房じゃない? ねえ、本当に受けるの?」


「仕事ですので」


「それしか言わないのね、あなた」


「それしか言う必要がありません」


   ◇


 翌日。採寸のために、辺境伯が工房を訪れた。


 背の高い男だった。黒髪、灰色の目。表情が動かない。リーネの第一印象は――衣装映えする肩幅だな、だった。完全に職業病だ。


 従者のカールが一歩後ろに控えている。


「本日採寸を担当いたします、リーネ・ヴェーバーと申しま――」


 言葉が途中で止まった。


 辺境伯の右袖口に、ほつれが3か所。左袖のボタン糸が1か所緩んでいる。裏地の縫い代が、わずかに表に響いている。


 リーネの視線がそこに吸い込まれた。


「……失礼いたしました。ヴェーバーです」


 辺境伯が片眉を上げた。


「今、私の袖を見たな」


「……はい。職業病でございます」


「何が見えた」


「ほつれが3か所、ボタン糸の緩みが1か所、裏地の縫い代が表に響いております」


 辺境伯は自分の袖口を見下ろした。何の変哲もない袖にしか見えない。


「……挨拶を中断してまで見るものか」


「見えてしまいます。採寸の前に補修させていただけますか」


「好きにしろ」


 リーネは即座に針と糸を取り出した。挨拶より先に。採寸より先に。他人の袖口のほつれが、どうしても許せない。


 カールが扉の横で小さく笑った。


 補修を終え、採寸に入った。


 リーネは採寸紐を辺境伯の胸に回した。


「呼吸を止めてください」


「……なぜだ」


「胸囲が変わります。息を吸った状態と吐いた状態で最大3センチの差が出ますので」


 辺境伯は無言で息を止めた。


 リーネの指先が辺境伯の背に触れた。温かかった。――体温が高い。冬物は裏地を1枚減らせる。


「結構です」


 辺境伯は動かなかった。5秒。10秒。


「……閣下」


 リーネは念のため確認した。


「息をしておいでですか」


「合図がなかった」


「今が合図です」


 カールが扉の横でもう声を殺しきれずに笑った。


 次は袖丈を測る。辺境伯の腕を持ち上げ、肩口から手首までの距離を取った。


「その前に聞きたい」


「はい」


「呼吸を止めろと言った仕立て官は初めてだ」


「正確な仕事には必要です」


「前の3人は言わなかった」


「前の3人は辞退されたと伺いましたが」


「辞退ではない。私が断った。手が雑だった」


 仕立て官にとって、「手が雑」は最も重い言葉だ。リーネは黙って次の寸法を記録した。


「閣下の注文書を拝見しました。細かいのではなく、丁寧な方だと思いました」


 辺境伯は何も答えなかった。


   ◇


 3日後。カールが工房を訪れた。


「閣下が仕立ての過程を見たいそうです。明日から工房にお邪魔してもよろしいですか」


 10年の職歴で初めての依頼だった。


「……どうぞ」


 翌日から、辺境伯は工房の隅の椅子に座った。黙って、リーネが生地を裁ち、針を運び、縫い合わせる姿を見ていた。一言も発さない。邪魔もしない。


 2日目。ギルベルトが工房に入ってきた。


「おい、仕立て。3番の糸を棚から出せ」


 リーネは針を置き、立ち上がった。


「承知しました」


 ギルベルトが去ったあと、辺境伯が初めて口を開いた。


「名前で呼ばれないのか」


 リーネの手が一瞬止まった。再び動いた。


「工房では役職で呼ぶのが通例です」


 嘘だった。上級仕立て官は名前で呼ばれている。リーネだけが「おい、仕立て」だった。


 辺境伯はそれ以上何も言わなかった。


 3日目。リーネが裏地の始末をしているとき、辺境伯が聞いた。


「仕立て直しは利くのか」


「裏地を解けば。ただ、最初の針穴は消えません」


「……消えないのか」


「布についた穴は埋まりません。一度入った針の跡は、ずっと残ります」


 辺境伯は黙った。リーネは針を運び続けた。


 しばらくして、辺境伯がまた聞いた。


「右の肩と左の肩は同じ高さか」


「人体は完全に左右対称ではありません。閣下の右肩は左より3ミリ高いです」


 辺境伯が自分の肩を見た。


「……3ミリ」


「仕立て官には見えます」


「目で見て分かるものなのか」


「一度会っただけの人間の肩の差が3ミリ単位で分かるのか」


「職業病です」


 カールが咳払いをした。


「閣下、仕立て官殿はお仕事中です。質問はあと10個ほど控えていただけますか」


「10個もない」


「もう7つは聞いていらっしゃいます」


「数えていたのか」


「従者ですので」


 辺境伯は口を閉じた。リーネの口の端が、ほんの少し上がった。


 夕刻、仕立て台の脇に湯呑みがあった。冷めていた。いつ置かれたのかも分からない。


 カールが帰り際に言った。


「閣下が入れたものです。お声をかけるタイミングが分からなかったようで」


 リーネは冷めた茶を飲んだ。少しだけ、甘かった。


   ◇


 仮縫いの日。


 リーネは仮縫いの衣装を辺境伯に着せた。肩の位置を確認し、背中の収まりを見て、丈にピンを打つ。肩口に手を当てたとき、至近距離で顎の線が見えた。――顎の角度は襟の高さに影響する。それだけだ。それだけのはずだ。


「ここの縫い代ですが、お体が変わられた場合の余裕を持たせますか」


「変わらない」


「お食事の量や訓練の頻度が――」


「変わらない」


 2度、同じ声で断定された。灰色の目は本気だった。


「……かしこまりました。縫い代は最小で」


 リーネが記録帳に『体型変化の余裕:不要(本人強固に主張)』と書いたのを、カールが覗き込んで盛大に噴き出した。


「閣下、『強固に主張』だそうです」


「事実を書いた」とリーネが言った。


「事実だ」と辺境伯も言った。


 カールだけが笑っていた。


「お二人とも真顔で同じことを言うのが一番面白いのですが」


「面白くはない」


 リーネと辺境伯が同時に言った。


 カールはもう駄目だった。


 仮縫いの合間に、辺境伯の普段着の上着を預かった。ボタンの付け直しだ。


 裏地を開いて、リーネの手が止まった。


 袖口の裏に、補修の跡があった。素人の手だ。糸の色が合っていない。針目が不揃いで、間隔もばらばらだ。


 でも――丁寧だった。


 一目ずつ、慎重に、失敗したら解いてやり直した痕跡がある。何度も。何度も。


 この人は、自分のほつれを、自分で繕っていた。誰にも頼まずに。


 リーネは裏地をそっと戻した。何も言わなかった。


 針を持つ左手だけが、少し震えた。


   ◇


 本縫いに入った朝。ギルベルトが工房に来た。辺境伯はまだ来ていない。


「おい、仕立て」


 白い絹の衣装を仕立て台に投げてよこした。


「辺境伯の前の婚約者の衣装が見つかった。寸法を直せばいける。新しく縫うな、時間の無駄だ」


 見事な刺繍。上級仕立て官の手だ。リーネは広げて確認した。技術は確かだ。裏地の処理も美しい。


「承知しまし――」


 足音がした。


 振り返ると、辺境伯が入口に立っていた。いつから聞いていたのか分からない。灰色の目が、ギルベルトの背中を見ていた。


 ギルベルトが辺境伯に気づき、慌てて姿勢を正した。


「辺境伯閣下。本日もお越しいただき――」


「仕立て官の名前は」


「は?」


「今、指示を出していた仕立て官の名前だ」


 ギルベルトの口が開いて、閉じた。


 リーネは息を吸った。


 2年間、飲み込んできた言葉があった。針を持つ手のほうが大事だと思ってきた。仕事で証明すればいいと。名前などどうでもいいと。


 でも。


「――リーネ・ヴェーバーです」


 リーネは辺境伯に向かって名乗った。ギルベルトではなく。辺境伯に。


「この工房で2年、仕立て官をしております。閣下の婚礼衣装を担当しております」


 ギルベルトの顔が強張った。工房の序列を飛び越えて、直接注文主に名乗る行為だ。


 辺境伯はリーネを見た。3秒。


「リーネ・ヴェーバー。承知した」


 それだけだった。声に温度はなかった。


 リーネは白い衣装を見た。


 ――私の手で補正すれば使える。使えてしまう。新しく仕立てる必要はない。


 この仕事が終われば、辺境伯と採寸紐を挟んで向かい合う日々も終わる。


「閣下。この衣装で補正が可能です。新しく仕立てるのと遜色のない仕上がりになります。工期も短縮できます」


 辺境伯はリーネを見た。長い沈黙があった。


「仕立て官としての判断か」


「はい」


「それでいい。使え」


 辺境伯は立ち上がった。出口に向かった。振り返らなかった。


 扉が閉まった。


 リーネは白い絹を見下ろした。正しい判断だった。正しくて、苦しい。


 その日、辺境伯は工房に来なかった。


 翌日も来なかった。


 リーネは白い絹の衣装の補正に手をつけた。採寸紐を取り、肩幅を測った。手が、勝手にヴォルフの寸法を再現していた。――3ミリ、右が高い。


 針を置いた。


 3日目も来なかった。


 椅子だけが、工房の隅に残っていた。


   ◇


 4日目の朝。カールが現れた。


「閣下からの伝言です。花嫁の衣装を発注していた工房から、辞退がありました。花嫁が決まっていないと仕立てようがない、と」


 リーネは眉を寄せた。花嫁が決まっていないのに婚礼衣装を?


 扉が開いた。辺境伯が入ってきた。3日ぶりだった。


「前の衣装は処分する。使うな」


 リーネの手が止まった。


「花嫁の衣装は新しく仕立てる。お前がやれ」


「……承知しました。花嫁のご寸法をいただけますか」


 辺境伯は、リーネの手元の採寸紐を見た。


「目の前にいる」


 リーネの脳が3秒止まった。


「……は」


「採寸は得意だろう。自分の寸法くらい分かるのではないか」


「――あの。閣下。それは」


 カールが扉の横で声を上げて笑った。もう隠す気がない。


「閣下、仕立て官殿が壊れかけておりますが」


「黙れカール」


「記録いたしましょうか。『求婚:発注形式にて実施。相手方、機能停止中』」


「カール」


 リーネは採寸紐を握ったまま、口を開いて閉じた。


「……閣下。前の衣装は使えと仰ったのでは」


「3日考えた。あの衣装の裏地はお前の針ではない」


 リーネの呼吸が止まった。裏地の針。なぜこの人が、裏地の針の違いを――


「――まだ返事を聞いていない」


 リーネは採寸紐を持ち直した。手が震えていたが、仕立て官の手は道具を離さない。


「……花嫁のご衣装、仕立てさせていただきます」


「自分の衣装だと理解しているか」


「――はい」


「名前を呼べ」


「……ヴォルフ、様」


「様はいらない」


「っ……ヴォルフ」


「もう一度」


「ヴォルフ」


 辺境伯の目が細くなった。初めて見る顔だった。


   ◇


 翌日。辺境伯が工房長のもとに現れた。


 仕立て官たちが一斉に手を止めた。


「リーネ・ヴェーバーを専属仕立て官として迎える。本日付で」


 ギルベルトの顔から血の気が引いた。


「せ、専属……?」


「私の婚約者だ。当然だろう」


 工房が静まった。


 メルダが信じられないという顔でギルベルトを見て、それから――小さく拍手した。


「嘘。リーネ、あなた辺境伯の婚約者?」


「……そうなりました」


「辞退した3人にも教えてあげなきゃ。あなたたちが断った仕事、リーネが受けて、婚約者になったわよって」


 隣の仕立て台の老職人が呟いた。


「そういえば、あの子の名前、なんだったか」


「リーネよ。リーネ・ヴェーバー。――工房長、知ってましたか?」


 ギルベルトは答えられなかった。


 仕立て台の向こうで、若い仕立て官が手を挙げた。


「あの、工房長。私も名前で呼んでいただきたいのですが」


 もう一人が続いた。


「私もです」


 ギルベルトの顔が白くなった。リーネだけではなかった。下級の仕立て官を2年間、1人も名前で呼んでいなかった。


 辺境伯がギルベルトを見下ろした。


「リーネが抜けた後、残りの仕事は回せるのか」


 ギルベルトの口が震えた。回せない。面倒な仕事を全てリーネに回していた。裏地の仕上げ、急ぎの補修、難しい注文。名前も呼ばない仕立て官に、全部任せていた。


「で、ですが辺境伯閣下、彼女には今抱えている仕事が――」


「リーネが抱えている仕事の一覧を出せるか」


 ギルベルトは答えられなかった。把握していなかった。


「二度と名前を間違えるな」


 ギルベルトは何も言えなかった。


   ◇


 すべてが終わったあと、リーネは採寸紐を手の中で巻いていた。巻いて、ほどいて、また巻いた。


「ヴォルフ」


「ああ」


「なぜ私だったのですか。4番目の仕立て官を指名する理由が分かりません」


 ヴォルフは古い外套を持ってきた。灰色の生地が日に焼けて、裾はすり切れている。


「この外套、何年お召しですか」


「3年だ」


「仕立て直しを勧めます。裾がすり切れています」


「断る」


「……理由をお聞きしても」


「裏を見ろ」


 リーネは裏地を開いた。


 左袖の内側。見覚えのある針の運び。――自分の手だ。


「3年前の王都の式典で、外套の裾がほつれた」


 記憶が戻ってきた。式典の合間に、壁際に掛けられた外套のほつれが目に入って――誰のものかも確認せず、直した。いつもの職業病だ。


「式典が終わって気づいた。裾のほつれが消えていた。裏を見たら、知らない針の跡があった」


 ヴォルフの指が、リーネの縫った跡をなぞった。


「それから探した。この針を使う人間を。宮廷の仕立て官に衣装を頼んでは、裏地を確認した。一人ずつ」


 リーネの呼吸が止まった。


「裏地の針の運びは一人一人違う。表からは見えない。だが癖がある」


 ヴォルフがリーネを見た。灰色の目が、初めて揺れていた。


「上級仕立て官が3人辞退したのではない。私が断った。裏地が違ったからだ。最初から、お前を探していた」


 3年間。


 誰にも見えない裏地の針の跡を、この人だけが探していた。


「ヴォルフ――」


「前の上着の裏も見ただろう」


 リーネは頷いた。素人の手で、丁寧に繕われた袖口。


「あれは私が縫った。お前の針の運びを真似ようとして、できなかった」


 リーネの視界が滲んだ。真似ようとしていた。3年間、この人は――


「泣くな。採寸紐が濡れる」


 リーネは笑った。泣きながら笑った。


「――それは困ります。濡れると伸びますので」


「知っている。正確な寸法が取れなくなる」


「……覚えていらしたんですか」


「全部覚えている。お前が言ったことは全部だ」


 ヴォルフの手が、リーネの手の上に置かれた。採寸紐ごと、包むように。


「もうひとつ聞いていいか」


「……仕事ですか」


「仕事ではない」


「……はい」


「花嫁の衣装の採寸だが」


 リーネは反射的に採寸紐を握り直した。職業病は治らない。


「呼吸は止めなくていいのか」


 リーネの顔が、耳まで真っ赤になった。


「――それは自分で測ります」


 カールの笑い声が、廊下の向こうから聞こえた。


 リーネは採寸紐を握ったまま、ヴォルフの外套の裏地に目を落とした。3年前の自分の針の跡が、今もそこにあった。


 一度も、仕立て直されていなかった。


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