冬の化身
それはある怪物がまだ、
アースガルズへ来る前のお話――。
彼は、怪物だった。
ただ、人の姿をしているだけの。
その男がどこから来たのかを、問う者はいなかった。
それが不自然であると、気づく者も。
彼自身もまた、それを知らないままだった。
彼のいる地は、海でも陸でもなく、
人も神も近寄らない。
地図にも載らず、ただ“ある”場所であった。
ある森の境界にある氷の地。
しかし、誰も来るはずのないその森に
一人の神がやってきた。
それは神の王、オーディン。
彼は召使いと共に、旅の途中であった。
その森へ踏み込むと、急に空気が変わった。
獣と血の臭いが鼻につく。
――何かが、いる。
オーディンは槍を構え、召使いに警戒するよう指示をした。
黒いそれは姿を現した。
見た目は狼のようだが、どこか様子がおかしい。
体が異様に細長く、
口はあまりにも裂けていた。
目の焦点は合っておらず、
足の関節が逆向きになっていた。
それらは次から次へと現れ、
一行は前方を塞がれた。
その魔物は跳ねるように移動し、
一瞬止まってから急加速して迫りくる。
向かってくる魔獣に
召使いの一人は弓を引き、
もう一人は剣で斬りかかる。
オーディンはそれを槍で仕留めていった。
しかし、魔獣は数が多すぎた。
仕留めても仕留めてもやってきた。
奴らは集団で波のように動き、
唸り声を上げた。
三人はどんどんと周りを取り囲まれ、
一人の召使いは腕を失い、
もう一人は歩けなくなった。
そしてその時、オーディンは氷の地へと
足を着いた。
その瞬間、氷の地にいた怪物が
立ち上がった。
彼は氷槍を地に突き、目が氷のような光を放った。
すると、槍から地へと氷が走り、
魔獣の群れは波のような形を保ったまま
その全てが凍りついていった。
オーディンはその怪物を眺めた。
それは人の姿をしていた。
オーディンは口を開いた。
「お前は何者だ」
「俺に名はない」
オーディンは思い出した。
この地に存在すると云われる
冬の化身の怪物の噂を。
奴は人の姿であり、戦闘能力は高い。
オーディンは聞いた。
「あれは何なんだ」
「霜喰いだ。
ここは奴らの縄張り。
お前は侵入者だ。
……そして俺にとってもな。
ここへ何をしに来た」
「ルーンの欠片を探している」
「ここらでは見かけない。
他を当たれ」
オーディンは思った。
――あの戦闘能力は、アースガルズに欲しい。
「怪物よ、我が王国に来い。
お前の力は、ここに置いておくには惜しい」
怪物は眉をひそめた。
「断る」
その時、うめき声が聞こえた。
召使いの一人だった。
怪物は振り返り、言った。
「彼らはどうするんだ」
オーディンは言った。
「それぞれの役目を終えたのみだ」
怪物はオーディンを見た。
「まだ息がある」
オーディンは返した。
「それが秩序を守る世界だ」
怪物は呻く召使いを見ていた。
オーディンはまた言った。
「来い、怪物。
お前がどこに属するかは、私が決める」
「……断る」
オーディンは言った。
「お前の名を定めよう」
怪物は顔を上げ、言った。
「……やめろ!」
オーディンはルーンを刻み始めた。
怪物の頭上に、光の文字が表れる。
Ásgarðr――アースガルズ
Vetr――ヴェトル
オーディンは言った。
「お前の名はヴェトルだ。
これよりアースガルズに属する」
怪物のいた氷の地は
オーディンによって封じられた。
“Vetr”
彼は一人の神によって
名を支配されることとなった。




