契りの女神
二人がアースガルズに戻ったのは、日が傾く頃だった。
ロキは何事もなかったかのように歩いていた。
ただ、腕から落ちる血だけが目立っていた。
誰かが声をかけた。
ロキは振り返らなかった。
トールは一度だけロキを見た。
だが、それ以上は何も言わなかった。
ロキは自室に戻ると
包帯で腕を巻こうとした。
だが、片腕で包帯を巻くのは
難しかった。
誰かが部屋の扉を叩いた。
女神シギュンだった。
「……何の用だ」
「手が必要かと思いまして」
「……いい」
包帯はまた外れた。
シギュンは言った。
「やりましょうか」
ロキは睨んだ。
「……馬鹿にしてるのか。
いい趣味だな」
シギュンはロキを見て言った。
「……頼ることは、悪ではありません」
ロキは黙った。
シギュンに包帯を手渡すと
手際よく巻いていった。
「これで今日は大人しくしててくださいね」
「親か」
シギュンは目を細めると
去っていった。
しばらくすると
また扉の叩く音が聞こえた。
ロキはベッドから起き上がる。
「入れ」
ヴェトルだった。
「生きてるみたいだな」
ロキは笑った。
「俺を殺すな」
ヴェトルは何かを投げた。
「見舞いだ」
ロキはそれを受け取る。
リンゴだった。
ロキは聞いた。
「イズンのリンゴか?」
「そうだ。自分で行くのはきついだろ」
「そりゃどうも」
「大人しくしてろよ」
「お前もかよ」
「…何がだ?」
「……なんでもない」
ヴェトルも去っていった。
その後、誰かが扉を叩きもせずに入ってきた。
スカジだった。
「懲りないのね」
ロキは鼻で笑う。
「お前まで見に来るとは、暇だな」
「ええ。暇なのよ」
スカジは淡々と答えた。
「あなたがどうなったか、確認するくらいには」
ロキは笑った。
「ああ、それなら見ての通り俺も暇だぞ」
「……見に来ただけよ」
スカジは去っていった。
ロキは思い出していた。
――あの女と一夜を過ごしたこともあった。
まだ気があるらしい。
ロキは最初の女、アングルボザを思い出した。
――ああいう女は来ない。
ロキは笑った。
――女なんて皆同じだ。
神々でさえ、例外などない。
フリッグは夫の留守に他の男に抱かれ、
フレイヤは兄とすら関係を持つ。
――信用するだけ無駄だ。
ロキはいつの間にか眠っていた。
起きると夕刻になっていた。
誰かがまた扉を叩いた。
「入れ」
またシギュンだった。
ロキは言った。
「今度は何だ」
「包帯を替えにきました」
――律儀だな。
ロキは言われるがまま、
腕を差し出した。
包帯を替え終えると、彼女は言った。
「明日にはもう大丈夫でしょう」
「……そうか」
シギュンは去っていった。
ロキはその背を見ていた。
数日後。
ロキは腕が治り、久しぶりに宴に顔を出していた。
神々は酒を飲み、相変わらず戦の話を繰り返している。
誰がどれだけ倒したか。
どれだけ強かったか。
ロキはそれを聞き流しながら、
女神たちと話をしていた。
「ヨトゥンの宴では
あいつら、酒より先に殴り合いを始めるんだぜ」
女神たちは口を覆う。
「で、勝ったやつが席に着く。
最後まで残ったのは椅子だけだった」
女神たちは笑っていた。
「神ってのは面白いぞ。
酒を飲むと、自分の話しかしなくなる。
だから俺がいないと、誰も聞いてない」
女神たちは笑いながら皆集まってくる。
ロキは話を続けた。
「ああ、そういえば鳥になって逃げたときもあったな。
俺を追ってきたやつは魚になったんだ。
食ってやろうかと思ったぜ」
女神たちはロキから目が離せない。
「ロキ、次は何を聞かせてくれる?」
誰かがそう言い、
別の誰かが肩に触れた。
だが——
その中に、彼女はいなかった。
看病の間、世話を焼いていた女神が
そこにはいない。
ロキは視線を巡らせた。
少し離れた場所に、シギュンはいた。
誰とも話さず、ただ静かに座っている。
ロキは一度、杯を置いた。
——珍しいな。
そう思ったのは、初めてだった。
ロキは席を立った。
ロキはシギュンに近づき、言った。
「お前は来ないのか」
シギュンは顔を上げた。
「呼ばれていませんので」
ロキは彼女を見た。
「……少し付き合え」
ロキは杯を持ち、
回廊へと彼女を誘った。
ロキは手すりを背にして宴の席を見た。
シギュンは手すりに手をかけ、外を見ていた。
「珍しいこともあるのですね」
「……何がだ」
「あなたが私に話しかけるなぞ」
ロキは鼻を鳴らした。
そして、宴の席を見ながら思った。
――女など皆同じだ。
珍しいのはお前だ。
「お前は一人が好きなのか」
「必要がないから行かないのです」
ロキは笑った。
――面白いやつ。
「……お前が必要だと言ったら?」
彼女はロキを見、
そして顔を赤らめ、逸らした。
「……おそばにいても良いのですか」
ロキは彼女の腰を抱き寄せ、
顔を寄せた。
シギュンは、目を閉じた。
「……来ないくせに。
わかりやすいな」
ロキは唇に触れる前に止まって笑う。
シギュンは熱を持った顔で目を開いた。
ロキは静かに口づけた。
黄金の杯が石畳に
カランと落ちる音だけが響いた。
彼女は、ロキが選んだ
ただ一人の女だった。




