第八話
クラスマッチに向けた放課後練習が始まって数日。
俺、橘陽太は、生まれて初めて「マネージャー」という職務に全力を注いでいた。
体育館には女子たちの熱気が渦巻いている。バレーボールのスパイクが床を叩く音、バスケットボールがゴールネットを揺らす音、そして――。
「陽太くん、タオル!」
「橘、ドリンクおかわりお願い!」
ひっきりなしに俺を呼ぶ声。
その度に俺は「はいよ!」と声を張り上げ、コートとベンチを息せき切って走り回る。ドリブルの音を聞いていると自分もやりたくてうずうずするが、まあ、誰かの役に立っているという実感は悪くない。むしろ、思ったより性に合っているのかもしれない。
ただ、一つだけ厄介なことがある。
「陽太くん、私のドリンクだけ、スポーツドリンクじゃなくて麦茶にしてくれない?……陽太くんのための、特別だよ?」
「陽太ー! 今日の練習の後、暇? メアド交換しない?」
日に日に、女子たちからのアピールが過剰というか、露骨になっているのだ。貞操観念が逆転しているせいなのか、みんな距離感が近いし、とにかくグイグイ来る。
俺が「あはは、マネージャーはみんなに平等じゃないとね」なんて愛想笑いでかわしていると、コートの中で練習の中心にいるはずの天野美月から、刺すような視線を感じた。気がする。完璧な笑顔を浮かべているはずなのに、その瞳だけが全く笑っていない。あれは、絶対零度の何かだ。
その日の練習後。
モップがけも終わり、俺が用具室の備品チェックリストに最後のサインをしていると、体育館の方から、まだボールをつく音が聞こえてきた。もうとっくに全員帰ったはずなのに。
「……あれ? 誰か残ってんのか?」
忘れ物かもしれない。そう思って、俺は体育館のドアをそっと開けて中を覗いた。
そこにいたのは、一人で黙々とシュート練習をしている美月の姿だった。
夕日が差し込むコートで、彼女は汗を拭いもせず、ただひたすらにゴールを見つめていた。その横顔は、いつも俺たちが目にしている完璧な学級委員長の顔じゃない。クラスをまとめるリーダーの顔でもない。ただひたすらに、勝利だけを渇望する、負けず嫌いな一人の女の子の顔だった。
「どうしたんだよ、委員長。珍しいな、自主練か?」
俺が声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。振り向いたその瞳には、一瞬だけ、見られてはいけないものを見られた子供のような動揺が浮かんでいた。
「……陽太くん。まだ、残ってたんだ」
「ああ。ボールの空気圧、全部チェックしてた。委員長こそ、どうしたんだよ。なんか悩み事か?」
「別に。……みんなには、内緒だよ。どうしても、勝ちたいだけだから」
そう言って、彼女はまたゴールへと向き直る。でも、そのシュートはことごとくリングに弾かれていた。焦りからか、フォームが少し崩れている。
「……」
見ていられない。俺はしばらく黙ってその様子を見つめていたが、意を決して口を開いた。
「なあ、委員長。よかったらさ、ボール拾いくらいならやるけど」
「え……?」
「マネージャーの仕事だから。選手が最高のパフォーマンスをできるようにサポートするのが、俺の役目だろ?」
俺がそう言って笑うと、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた後、ふふっ、と小さく吹き出した。それは、いつもの完璧な笑顔とは違う、少しだけ力の抜けた、柔らかい響きだった。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
そこから、二人だけの秘密の特訓が始まった。
最初は、俺が彼女のシュートのボールを拾ってはパスを返す、ただそれだけの繰り返しだった。しかし、何本打っても、ボールは無情にもリングを叩く。
「くっ……!」
悔しそうに唇を噛む美月を見て、俺はおそるおそる切り出した。
「あのさ、俺、中学の時ちょっとだけバスケやってたから、少しだけ分かるんだけど……アドバイス、してもいいか?」
「……お願い」
彼女が素直に頷いたことに少し驚きながらも、俺は記憶の引き出しを開ける。
「えーっと、まず、シュート打った後のフォームが崩れてる。ボールを放した後も、手はゴールに向けたままキープする感じ。それと……」
言葉で説明するものの、なかなか伝わらない。美月は真面目だから、俺の言う通りにしようと必死なのは分かるんだけど、体が硬くなってしまっているようだった。
「あー、もう、じれったいな! ごめん、ちょっと失礼!」
俺は彼女の後ろに回り込むと、その両腕にそっと触れて、シュートフォームを直接修正する。
「っ……!」
触れた瞬間、彼女の体がびくりと硬直するのが分かった。近い。ふわりと、シャンプーの甘い匂いが鼻をくすぐる。やばい、意識しすぎるとこっちまで緊張してくる。
「ひ、肘が下がりすぎ。もっとこう、ゴールに対して真っ直ぐ……。で、ボールを放す瞬間に、この手首を、こう!」
俺が美月の手首に軽く触れてスナップの仕方を教えると、彼女の肩がまた小さく震えた。
「……陽太くんって、教えるの上手だね」
ほとんど吐息のような声で呟かれて、俺の心臓がどきりと跳ねる。
「そ、そうか? まあ、誰かさんの専属マネージャーだからな、一応」
照れ隠しで軽口を叩くと、美月は
「……ふふ」
と、はにかむようにつぶやいた。
いつもの完璧な笑顔じゃなくて、少しだけ気の抜けた、柔らかい笑顔。
俺は、その顔に、どうしようもなくドキッとしてしまった。
その後、美月のシュートは嘘のようにゴールに吸い込まれ始めた。
「すごい……! 入った! ほんとに、入った……!」
彼女は子供のようにはしゃぎ、俺に向かって満面の笑みを向けた。
その純粋な喜びに、俺まで嬉しくなってくる。
練習後、二人で体育館の床にヘたり込んで、俺が用意していたスポーツドリンクを飲んだ。
「陽太くんのおかげで、少し上手くなったかも。本当にありがとう」
「どういたしまして。でも、あんまり無理はすんなよ。委員長が倒れたら……その、さすがに、心配するから」
俺がそう言うと、美月は一瞬だけ黙り込んだ。
そして、体育館の天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「うん、約束。……陽太くんが見ててくれるから、もう少しだけ、頑張れるかも」
その声が、やけに真剣に聞こえたのは、きっと静かな体育館の反響のせいだろう。
二人だけの秘密の時間は、体育館の閉まる時間まで、静かに、でも確かに、続いていった。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
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こんな学生生活が送りたかった。明日の昼にまた更新します!お楽しみに!